きれいな時間 2
intermission2





 些か騒がしすぎるのも胸が詰まるほどの甘すぎる香りも今日はいつものようには気にならない。大学近くのため学生の多い喫茶店で窓際の席に着き、苦いばかりでちっとも美味しくないコーヒーを飲みながら、宝来はわくわくとした気持ちを持て余してガラスの向こう側を眺めていた。そろそろ待ち合わせの時間かとちらりと腕時計に視線を落とす。何しろこんな風に外で待ち合わせるのは久しぶりなのだ。最近はずっと、どちらかのアパートに直接行って過ごすということばかりだった。でも今日は特別だから。そう思っていると、目の端にこちらに向かって懸命に走ってくる相馬の姿が映った。その勢いのまま店内に駆け込んできた相馬が視線を彷徨わせるよりも早く、宝来は立ち上がって手を振ってみる。
「ごめん、待たせた」
「いえ、忙しいの分かってて待ってたのは俺の方なので」
 隣の席に座った相馬があまりにも苦しそうだったので手元の水を渡し、それから息が整えられ、ほうっと深い息が相馬の口から漏れるのを待ってから、ゆっくりと問いかけた。
「何か面倒ごとですか?」
 もともとの待ち合わせの時刻より十分も早いので、遅れそうだからと走ってきたのではないだろう。少しでも早く会いたいと思ってくれたからであるのなら嬉しいけれど、相馬はそういったことはしないし、だから、こんなに息を乱すほど走ってくる理由を宝来はそれくらいしか思いつけなかった。
「いや、これは……」
 どこか悩むような表情で言い淀む相馬に、やはり何かあったのだと溜息を吐いた宝来は、店内に入ってくる大勢の学生の姿を何気なく目にしつつどこか場所を変えようかと思った。
「見つけた!」
 あ、という閃きが納得に変わる前にその学生集団はこちらにやってきて、相馬を取り囲んでしまった。隣に座っていた宝来もまとめて輪の中だ。
「ちょっと逃げることないでしょー!」
「すみません。急いでいたので」
 息を切らせるほどに走ってきたのはこの男女七人からなる集団から逃げてきたのだ。追いついた皆がそうして相馬を取り囲むので、危険な事態かと腰を浮かせる。
「もう! 相変わらずなんだから」
 しかし逃げ出すという手段を選んだ相馬に対して皆は寛容なようだった。それだけ信頼関係の築かれた間柄なのだろう。また「ありがとう」と答える相馬に周囲の空気はあっという間に解ける。
 最近相馬は変わった。以前の切り詰めたような雰囲気や不安定さはすっかりなりを潜め、それは穏やかに笑えるようになったのだ。以前は以前で不安だったけど、これはこれで不安だ。
「まあこの店でも良いか。沢村、そこテーブル席とって。ほら、相馬もあっち行こう」
 そう指示しながら一人の男が相馬の腕を掴んで立たせる。大学での気心の知れた友人なのだろう、そう思っても宝来の心は波立つ。ただ話がしたいと集まっているのだろう和気藹々としたこんな場面で、その空気を乱すことをすべきではないと分かっているけれど、どうしても我慢できなかった。しかし手を出そうとした宝来は別の女性に間に入られた。
「何、この子知り合い? 可愛いね。紹介してよ」
「高校のときの後輩だよ」
 答える相馬は至って落ち着いている。宝来が女の子に囲まれ興味を持たれてもまるで気にならないのだ。そもそも相馬は嫉妬なんてしないのだろうか。或いはそれほど自分は好かれていないのだろうか。慌てたり苛立ったり感情を乱されているのはいつも自分だけだ。そうした寂しさや不安が過ぎった宝来が動けずにいると、救い出すように相馬の手が袖を掴んだ。連れて行かれたのかと思ったのに、戻ってきてくれたのだ。
「悪いけど、俺たちもう出るよ。宝来、行こう」
「えー、何でよう!」
「せっかくなんだから、一緒に遊ぼうよ」
 そうして引きとめる人たちの間を進むけれど、腕を引かれて歩くその足が淀むことは無かった。
「こっちの約束が先だったから。また今度ね」
 じゃあ、とあっさり断る相馬を無理に引きとめようとする人はいないけれど、まだ付いて来ようとする人も、他の人に止められる。
「おい、相馬が断るなら無理言わないって約束だっただろ」
「……仕方ないわね。じゃあ、また今度遊んでね!」



「先輩。向こうの約束が先だったら、俺の方断ってたんですか」
 駅までの道を歩く相馬に感情を篭めないよう気をつけながらそっと声を掛けると、ぴたりと足を止めて驚いたように見つめられた。
「……お前、素直だなあ……」
 そう呟いた相馬は、今度は楽しそうに笑ってまた歩き出す。ただ、もし約束するのが遅かったら今日のこの日に会えなかったのかもしれないと思うと寂しかっただけなのに。あまりそうした寂しさを見せないようにしてきたけれど、楽しそうに微笑み続ける相馬を見ていると、もっと訴えた方が良いような気がしてきた。
「馬鹿にしてます?」
「違うよ。さっきのは嘘。ああ言えば角が立たないだろ。嘘も方便」
「……嘘」
「今日は、最初から宝来と過ごしたいって思ってたし」
「……!」
 何を不安になったり寂しくなったりしていたのだろう。こんなに大事にされているというのに。



「先輩、誕生日、おめでとうございます」









ペーパーに載せた小話

2011/1/4 雲依とおこ




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