白蓮の散る





 まだ耕される前の土や葉の無い木々の多い風景は強い日差しを受けるとどこも薄く白が掛かったように色味が薄く見え、またそれがとても眩しかったけれど、確かに春を迎えることを感じさせる小さな芽吹きが所々に目に留まるのが楽しくて、高槻は視線を動かすまでもなく流れて見えるその景色をじっと楽しんでいた。楽しいのは勿論、相馬とのドライブもだ。
「宝来、すっごく残念がってましたよ」
「……そうなんだ」
 先程切れた携帯電話を指で撫でながら宝来は今頃どんな顔をしているだろうと考える。電話が切れる前の様子がどうにも落ち込んでいるような雰囲気だったので少し心配だった。
「あんな風に怒るの、久しぶりに見……、じゃない、聞きました。もう、最後の方なんか、すっごく寂しそうだったなあ」
 控えめにそうした宝来の様子を伝えながら相馬がどういう反応をするのかちらりと運転中のその横顔に視線を向けると運転に集中しながらも穏やかに微笑んで見えた。しかしその瞳は僅かに細められていて、何か考えている様子でもある。その静かな表情の中で何を考えているのか、まるで自分とは違う思考を持ち思いも寄らない言葉を返す相馬との会話はいつだって刺激的で面白いのだ。そうした相馬の表情を見ていると、ふとひとつの可能性に行き当たった。
「あ、もしかして、宝来とドライブしたことって……」
「無い、と思う」
 恐る恐る尋ねると殆ど考える間もなく返答があった。それでおおよそ宝来がどういう思考を辿ったのか想像できる。自分の気持ちにとても正直で、そして考えすぎるがゆえにどうしようもないところまで落ち込んでしまうことも。信号待ちの時間に問うような視線が向けられる。どうしてそんなことを聞くのだろう、と相馬があまりにも不思議そうなので、高槻は大仰に溜め息を吐いて見せた。
「それは、たぶん、俺、恨まれてるっぽいなあ、と思って」
「……何で高槻が?」
 やはり相馬はその辺りのことは分からないのだ。勿論宝来のあの執着の対象が相馬なのだから、相馬が向けられるのは殆ど幸せな感情ばかりに違いない。独占できないことに対する理不尽とも思える憤りは相馬にだけは向かわずその周囲に向けられるのだろう。
「自分は一緒にドライブしたことないのに、俺が相馬さんとドライブしてるから、かな」
「……え、と、……そんなことで?」
 確かにその相馬の意見には高槻も大いに賛同するところだけれど、今はそれは黙っておこう。そうして仲良くそんなことくらいでと同意しあったところで何の意味も無いのだ。それよりも不器用な友人の為にささやかなフォローを兼ねて、もう少し深い場所にある相馬の気持ちを聞きたいと思った。
「まあそれだけじゃないんでしょうけど。いろんなものが重なって、っていうか。うん。宝来の独占欲が侮れないことも確かですけど、でも、だって好きなんだし、久しぶりに会ったんだから、少しでも長く一緒にいたいって……、えと、相馬さんは違うんですか?」
「うーん。正直、俺は会っておめでとうって言えたから、満足、かな。それ以上望むのは、ちょっと、欲張りすぎかなって思う」
 相馬の少しでも会えたから満足、というのはきっと、宝来の少しでも長く一緒にいたいというのと同じものだ。この後に用事が控えていなければ相馬はあのまま宝来を待っていただろうし、宝来に用事が出来なければ今この車に宝来も乗っていただろう。自然な流れのように見えるけれど、しかしあと少し相馬が望めば幾らでも変えることの出来たものばかりだ。不審に思われるほど早くから待っていたのなら、宝来にひとこと連絡を入れるだけでもっと早くから会うことが出来て後に控えた用事までの時間を長く使えただろうし、女の子が声を掛けてきたときだって相馬が少しでも嫌そうな顔をしたら宝来は即座にその場で断って離れるなんてことをしなかっただろう。
「全然欲張って無いですよう。っていうか、もっと欲張った方が絶対に良いですって。……でも、相馬さんがそこで引くのって、何か別の理由があるんじゃないですか? なんとなくですけど」
「……敵わないなあ」
 ふふ、と高槻を見ずに笑う相馬の横顔はとても寂しそうに見えた。別の理由があることを否定はしないけれど、それを教えてもくれないのだ。やんわりとした受け答えの奥に酷く硬い殻があって高槻が踏み込むのを断固として拒んでいる。おそらくそれは高槻だけでなく、誰をも踏み込ませないものなのだろう。ほんのささやかなもので満足してそれ以上は望まないと言い切ったことからしても、きっと宝来だってそこに届いていない。前を見つめる視線は寂しさを含みながらも穏やかに澄んだもので、これで充足しているのだと表情ひとつで語るものだった。
 だから相馬のこの寂しさは埋まらない。寧ろ心の内に孤独を飼ったままでいることを望んでいるのは相馬本人なのだ。不味いなあ、と思う。今更ながら軽い気持ちで宝来を置いてきたことを後悔した。こんな風に寂しく微笑む人を放っておけない、と思ってしまう。
「あ、電話ですよ。そこの先のスペース停められるんじゃないですか?」
 わざわざ教えなくても相馬は電話にも気付いているだう。しかしそう高槻が言い出すことで今度は相馬も電話に出るようだった。車を停めてから何気なしに電話を手にするのを見て、高槻は内心でほっとしていた。何しろあと数分で目的の駅前に到着してしまうのだ。その前に少し時間が作れるなら理由なんて何でも良いのだし、それよりも電話の相手が宝来だったなら高槻があれこれ気を回す必要なんて無くなるのだから出来ればそうあって欲しい、と思った。
「……はい」
 しかし答えるその声は酷く硬いものだ。驚いて見つめる高槻の視線にまるで気付かない様子で前方を見つめる相馬の瞳はどこか苦しそうで、その苦しそうな瞳のまま暫く無言で相手の言葉に耳を傾けている。その顔色が徐々に悪くなっていくのを見た高槻は、この後に控えたクラスの皆との集まりを断ることに決めていた。どうせまた改めて集まるのだ。それよりも今は目の前の相馬を放っておけないと強く思った。
「……分かりました。いえ、大丈夫です。失礼します」
 丁寧にそう言って電話を切った相馬は、どこか呆然としたような、とても不安定な顔つきだ。電話を置くことも無く車を発進させることもなく、明るい日差しに照らされた草地が広がる前方を見つめたままただ何かに耐えるように静かに呼吸を繰り返すだけ。
「電話の相手、誰だったんですか?」
 それだけの衝撃を相馬に与えるのは誰なのか、自分が聞いて良いものなのかと思いながらもだからこそ気になるのだとそっと問いかけてみると、ゆるりとその視線が動いて高槻を捉える。何かに溶けて混じるような色を含んだ瞳が揺れて、近くで見つめる高槻の視線だけでなく心も鷲掴みにしてしまう。同じ高校に通っていたときにもいっぱい一緒に居て話をしたし、相馬が卒業後もたまに話をしていた。しかしこんな風に心を掴まれたのははじめてだ。寂しさを含んだ内面を、そして酷く脆いこの瞳を、今までどこに隠していたのだろう。宝来はいったいどこまで見てどこまで知っているのだろうか。そうしたことをぐるぐる考えつつも自分が緊張していることを自覚しながら高槻はどうすることも出来ないでいた。密やかに繰り返される呼吸に思わず自分のそれもぴたりと合わせてしまう。
「父親」
 小さくそう答えた相馬は凝視する高槻の様子にやっとで気付いたのか、少しおかしそうに笑って頭をくしゃりと撫でてくれた。ぎこちないながらもやさしい手つきはきっと高槻の緊張を解そうというものなのだろうけれど、今この状況では他愛無い触れ合いも高槻の緊張を高めるだけだった。
「……だから俺、予定、無くなった、みたい。駅じゃなくて、好きな場所に送るよ」
 これからの用事の相手は父親だったのだ、と胸のうちで理解する。自分もこれからの用事を断ろうと密かに決めたばかりだ。微笑を浮かべて返答を待つ相馬の様子はとても穏やかさに見えるけれど、そうした表層の言動の中にある表情はふわふわ揺れてとても覚束ない。そうして溶け出した不思議な色彩は、だからこそとても果敢無い綺麗な色を宿していて、無意識に周囲を惹き付けるのだ。そう、相馬自身が無意識だから厄介なのだ。思わず手を差し伸べてしまいそうで、高槻は内心でいろいろな方面に謝っていた。
 もう、今すぐ宝来にここに来てこの状況を何とかして欲しかった。
 (でないと、俺……)
「そうですか……。じゃあ、喉渇いたので、ちょっとその道左に入って、海に行きましょう!」
 逃れなくては、という強迫観念に近いものを抱きながら、高槻は自分に出来ることを考え務めて軽い口調で提案する。



 風の無い日だったのに潮風は驚くほどに冷たく荒く、車から出たふたりを少々乱暴に歓迎してくれた。耳の奥まで侵入してくるのはその荒い潮風だけではない、激しく打つ波の音もまたうなるような音を持っていろいろなものを洗い流してくれるようだった。自分のうちで惑う感情も、未だ不安定に揺れる相馬の感情も、何もかもを飲み込んでくれると良いのに、と高槻は打ち付ける激しい波を見て願う。
「じゃあ俺、ちょっと飲み物買ってきます」
「うん。気をつけて」
 にこりと微笑んで柵に腰掛ける相馬こそ気をつけて欲しいと思う。どこかぼんやりしながら目を細めて海を見つめる相馬を残し、高槻はひとり季節外れの海の傍にある建物目指して走っていった。海岸は広く見渡せるけれど、そのどこにも人影は見当たらない。目的の建物は閉じられているだろうけれど、その外に設置されている自販機は稼動しているのだ。喉が渇いたなんてただの口実で、高槻はただ相馬から離れて、宝来に電話を掛けなければと思ったのだ。友人の声を聞いたらきっといつもの自分に戻れる。その言葉を聞いたらきっと自分がどうするべきか思い出せる。
 砂に足を取られて走りにくいので夏場には軽食を出す店となるその建物に辿りついたのは三分も経っていただろうか。とりあえず口実にしていた飲み物を自販機で購入してから乱れた呼吸を整える。走るのは得意ではないのだ。電話を掛けようと取り出しながら残してきた相馬がどうしているかと気になって振り返ると、柵に腰掛けてひとり海を見つめている筈の情景はそこに無かった。高槻はぎょっとして電話を掛ける動作を止めてもっと良く見える位置に移動する。相馬はどこからか現れた誰かに取り囲まれて何か話しかけられているようだった。それは単に道を尋ねるとか時間を尋ねるとかそういう類のものではない、明らかに取り囲んで脅しているという様子だ。
 何であの人は、と咄嗟に誰にでもなく責めてしまう。しかし何より責めるべきはあんな状態の相馬をひとりにした自分なのだ。無自覚にいろいろなものを惹き付けてしまうから危険だと認識していたのに、自分がそれから逃れるので精一杯だったなんて。



「どうか、しましたか」
 砂浜を全力疾走して息を切らせながらも強い口調で掛けた声音に、相馬を取り囲んでいた五人ばかりの柄の悪そうな男たちが振り返る。険しい表情だった。そのうちのひとりに胸倉を掴まれた相馬の表情は先程と同じく不安定に揺れたまま、まるで相手を見ていなくて、それがぞっとするほどに冷めて見えた。どうかしたも何も無い、どこからどう見ても喧嘩の様子だ。そもそもこんな大勢では喧嘩にもならない、かなり一方的な集団暴行でしかないのだ。
「邪魔すんなよ」
「こいつ、俺らのことシカトしやがって、ムカツクんだよ。態度の悪い子はしっかり矯正してやらねえとな」
 胸倉を掴んでいた男は話しながら脅すように相馬を揺する。高く吊られて苦しそうに眉を寄せながらもどこか他人事のようにぼんやり視線の定まらない相馬の様子は変わらない。
「……さっさと行けよ、大人しく黙って行くならお前は見逃してやるからさ」
「いや、あの、その人ちょっと具合悪くて、すみません。離してください」
 この人数をどうにかする力が自分には無いと分かっているので、もうここは謝るしかないと腹を括った高槻が両手を合わせて必死にお願いすると、面白そうにふたりの男が寄ってくる。
「馬鹿だなあ、お前も痛い目みたいっていうのなら、まあ、それでもいいよ」
「すみませ……」
 ちら、と相馬を見ると胸倉を掴んでいた男に突き飛ばされ、ふらついたその背中を別の男に捕らえられた後は腹に膝を入れられ頭を殴られている。見ているだけで自分が痛くなってきそうなほどの状況だった。高槻は我慢できずに相馬の方へ助けに向かおうとした。
「相馬さ……っ」
 駆け出そうとした高槻は、背後から腕を掴んで引き戻される。強い力だった。何か怒ってる声を聞いたような気がするけれど、強い潮風に耳を塞がれたのかぐるりと回された視界の所為なのか上手く理解できない。殴られる、と思って咄嗟に顔を背ける。どこに衝撃が来るのか予測も出来ずに全身を硬直させるばかりだった高槻は、眼前で交差させた腕を外そうとするように手首を強く掴まれたので、そうさせまいと必死に腕に力を籠める。
「高槻、大丈夫だよ」
 それまで風の音と波の音しか聞こえなかったのに、その穏やかに告げる相馬の声がやさしく耳に届いてきた。そっと目を開くと自らを庇うために翳していた高槻の腕を外そうとしていたのは相馬だったようで、ほっと息を吐いて力を抜き周囲を見回すといつの間にか五人の男たちは呻きながら地面に寝転がっていた。
「あれ……、いつの間に、何で……?」
「ごめんな、怖かった?」
 力が抜けた高槻の手首を掴んだまま、心配そうに見つめてくる相馬に、高槻はゆっくり首を横に振った。怖いのでもなく、痛みを受けたわけでもなく、ただ驚いて、そして相馬が心配だったのだ。早く行こう、とそのまま相馬に腕を引いてもらいながら車に戻る。
「……助けようとしてくれて、ありがとう」
「えと、俺、何の役にも立てなくて……」
 喧嘩に巻き込まれそうなときはいつも謝って逃げてばかりだった。慣れた相手をどうにか出来る腕力なんて無いのだと最初から諦めてきたから、今回みたいにそれが通用しない相手にはまるで無力なのだ。大切な人も、自分も、何ひとつ守れない。
「違うよ。高槻が居なかったら俺……」
 はっきりとは言わないけれど、僅かな間に倒れていた五人は相馬がやったのだろう。そういえば相馬は本当は強いのだと以前宝来が話していたのだ。ただ、強いからといって暴力に対して抵抗するとは限らない。相馬の場合、余程のことがないと抵抗しないのだろう。おそらく高槻が声を掛けなければ、高槻が殴られかけなければ、相馬はあのまま暴力を受け続けたのに違いない。
 そこで高槻はやっとで相馬が殴られ蹴られていたのを思い出していた。すっかり忘れて何ひとつ気遣いできなかった。自分が痛い思いをしたのに、相馬はずっと高槻ばかりを気遣ってくれていたのだ。
「痛みますか……?」
「全然、平気だよ。これくらい」
 にこりと微笑んで答える相馬は寧ろ今日会ってから一番の晴れやかな表情に見える。先程の揉め事で何かそれまで抱えていたもやもやが吹っ切れたのだろうか。そうだと良いと思いながら少し落ち着いたように穏やかな表情をしながら運転をする相馬を横目で見つめる。
 そういえば、と高槻はもうひとつ思い出す。あまり気にしたことはなかったけれど、宝来から聞く限りこの人はいろいろな目に遭っているのだ。特に今の不安定な様子では目を離すと何に巻き込まれるのか分かったものじゃない、と改めて心配になってきた。問題なのはそうして相馬と何かに巻き込まれることが嫌ではないということだ。そしてもっと問題なのは、今の状況の相馬と長くいると、どうしても抱えるその寂しさを何とかしてあげたくなってしまうということだった。このまま一緒にいることを楽しんでいるうちに、つい宝来の真摯な気持ちを、大切な友人を、裏切ってしまいそうになる。
 とりあえず送ってくれるというので自宅まで運転してもらってそのまま相馬を引き止め、あとは一刻も早く宝来に連絡して来てもらえばいいのだ。そう計画を立てるとまた暫く相馬とドライブできるのだということが無性に楽しくなってきて、高槻は道端に芽吹いた草花のひとつひとつを相馬に報告しながらのどかな春の野を貫く細い道を行くドライブを楽しみ始めた。




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巻き込まれ体質の相馬との卒業の日の長い一日はまだまだ
まだまだ…

2008/3/9 雲依とおこ




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