未だ曖昧に隠されたまま





 ぐらり、眩暈がしたような気がした。いつまでも続く暑さに脳が煮え立っているのではないかと思いながら宝来は身体の欲求に任せてごろりとベッドの上に仰向けに転がる。体調が悪いわけでは無いことは自分でも良く分かっていた。ただこの暑さと、どこかからと指摘することも出来ないほど蝉の鳴き声が煩いだけでないことも。目を閉じればまるでその蝉に周囲を取り囲まれているのではないかと錯覚しそうで、宝来は目を開いたままじっと天井を睨んでいた。
 もうすぐ夏が終わる。あと数日でまた学校が始まってしまうのだ。海外へ行く前に勉強は殆ど片付けてしまったので学校の準備以外は特にすることが無いこの手持ち無沙汰な状況が、発火しそうな暑さと蝉の声の執拗さに拍車を掛けて宝来の思考の幅をぎゅっと狭めてしまっていた。


 四月の終わりに出国した相馬が行方不明になったと、同行していた現地の人間から報せが入ったのは六月の頭だ。姿が見えなくなったのは実際には五月の下旬ごろだったという。朧な不安を抱えながらも帰ると言っていた相馬を信じようと思っていたのに。
 不安ですぐにでも捜しに行きたかったけれど、だからといって親の学費で高校へ通っている宝来が学校を放り出して海外まですぐに動けるはずも無く、手続きや金銭面の調達なども含めて準備が整い、捜しに行けるようになったのは夏休みに入ってからだったのだ。相馬が行方不明になってからその時点で既に二ヶ月。黒崎と一緒に海外へ渡ったあとは相馬を案内したという現地の案内人を捕まえて相馬が来てから消えるまでの状況など詳しいことを聞き出した。
 実際に相馬を最後に見た場所まで案内してもらうと、そこには実際相馬が基地としていたテントが残されたままだった。中はきちんと整頓され、現地についてから行方不明になるまでの記録が一日も漏らさず残されていた。日付と天候、探した場所、そこの状況。地図は歩いた場所が塗りつぶされている。几帳面に記されたそれらを読むだけで相馬がそこでどうしていたのかひと月ばかりの内容が全部分かる。効率的に捜すためだけではない、そうすることで失いそうになる日にちの感覚を保っていたのだ。
 そこに基地を構えたのは、響が同じようにそこにテントを張り、そこから消えたからだという。つまり相馬は響と同じ事をして、そうして同じように消えたのだ。でも、だからといって同じように行方不明になったまま何年も帰ってこないということにはならない。そう強く願って黒崎と一緒に日が昇ってから暮れるまで捜し回った。足が動かなくなるまで歩き回っている時も疲れ果てて眠る夜もまだその願いだけを頼っていられた。
 しかし、結局相馬は見つからなかった。几帳面な記録のお陰で消えたその日にどこに向かったか、そこまで分かっているのにも関わらず、何の手がかりも発見できないまま予定の日数を終え、他に捜す手立ても見えないまま帰国するしかなかった。この時になってようやく相馬が消えたという事実が宝来の脳に重く圧し掛かってきた。もう相馬に会えないかもしれないという不安が否定しても否定しても纏わりついて離れない。


 強く天井を睨みながら何かまだ自分に出来ることは無いのかと頭の隅々まで抉るようにして探すのに、建設的な提案も目新しい試みも何ひとつ出てこなかった。ただ、何の手がかりも発見できなかったことがどうしても引っかかる。何かあったなら某かの痕跡があるはずなのだ。それが何故だろうかと考えたところで、しかし宝来の思考は行き場をなくしてしまっている。
 ふるふる携帯電話が震えはじめる。反射的に起き上がった宝来は強い眩暈に半分ぼんやりした状態で相手が見知らぬ番号だと確認しただけで電話に出た。
「はい」
 久しぶりに発した声は少し嗄れている。思えばこんなに暑いのに空調も止めたまま水分も摂らずに随分ぼんやりしていたのだと、眩暈の理由を見つけた気がした宝来はふらりと立ち上がる。机の上にある飲み物を手に取ると冷たかったそれはもうすっかり温くなっていた。椅子に座りながらそれでも口にしつつ、電話の相手から返答が無いことにのんびり疑問を覚え始めていた。戸惑うような呼吸がひとつあっただけで、あとはずっと沈黙なのだ。知らない番号だったし間違い電話だろうと思うけれど、それにしても戸惑う時間が長すぎる。
 どれくらい待っただろう。暫く経っても沈黙したままの電話はもう掛け間違いなどではないだろう。いたずらなのかと思いつつ宝来はどうしても切ることができなかった。ゆっくりと飲み物を嚥下して喉を湿らせたあと、相手の呼吸に耳を澄ませながらそっと聞いてみる。
「……あの、もしかして、相馬、先輩、だったりしますか?」
 期待してはいけないと分かっていた。ただ微かな希望に縋るように小さく問わずにはいられなかったのだ。


「うん」



 聞き取り難い音声ではあったけれど、紛れも無く相馬の声、相馬の返答だった。疑問と遥かに勝る喜びで思考がぐちゃぐちゃになる。あの長い沈黙は何だったのだろう。今どこにいるのだろう。自分に電話を掛けてくれたのは約束を守ってくれているからなのか。連絡が取れて良かった。気付けば座っていたはずの椅子は転がり机の上にあったものは飲み物も含め床にばら撒かれていた。
「ちょ、あの、本当に先輩、ですよね。うわ、あの、ええと」
 うん、というたったひと言だけでまた電話から何も聞こえなくなる。自分の幻聴だったのではないと確かめたくて、でも慌てすぎてどう話して良いのか分からないまま宝来は必死に言葉を継いだ。もっと声が聞きたい。
「……ああ、日本って今、何時だっけ。悪い、ちょっと頭回ってなくて。寝てたり勉強してたりするんだったらまた掛け直すよ」
「待ってください! 何もしてませんから、電話、切らないでください。何ヶ月ぶりだと思ってるんですか。全くもう、俺がどれだけ心配してると……」
 話しているうちに声が震えてきて、それ以上は何も言えなくなってしまった。不器用に気遣うような言葉の内容が実に相馬らしいもので、懐かしいとさえ思えるそれがとても嬉しかった。
「うん。久しぶりだな、宝来」
 語られる落ち着いた声がじわりと胸に沁みる。言葉のひとつひとつに翻弄されながら、語る相馬の表情を想像した。相馬と話しているのだ、という単純な実感に幸せが声が沁みた胸のうちから次々に、たくさん生まれてくる。
「本当に、お久しぶりです、先輩。元気にしてましたか、どこか怪我とかしませんでしたか。何か悲しかったり、苦しかったり、嫌な思いとかしてませんか。声、聞けただけですごく嬉しいですけど、会いたいです。早く帰ってきてください」
 どうして行方不明になったのか、いったい何があったのかと聞きたいことはたくさんあるけれど、落ち着いたと思って開いた口は待つことを知らない者のように矢継ぎ早な質問を発するばかりだった。まるで言葉を止めたら今にも電話が切られてしまうと恐れているようでもある、と今この状況でどうでも良いことまで考えてしまう自分の思考がおかしかった。
 ふ、と相馬が小さく笑う気配が伝わる。それは幸せな笑いだと思った。宝来がそうして欲しいと願い大切にしたいものだと。
「元気にしてるよ。宝来は?」
「……俺は先輩に会えなくて寂しいです。いつ帰ってくるのか分からなくて不安で、毎日、先輩のことばっかり考えてます。先輩は、……俺のこと、少しでも、考えてくれたりしました?」
「そうじゃなきゃ、電話しないよ」
 即答だった。電話を掛けてくれたのは、やはり出国前にした約束を覚えていてくれたからなのだ。それがとても嬉しくて、だから宝来はもう行方不明になっていたことも何があったのかも今は良いと思えてくるのだった。生きて連絡してくれて、そして帰ってきてくれるのなら。
「もう……、用事は終わりました? いつ帰ってくるんですか?」
 行方不明になったこととは別に、相馬は理由があって海外まで行ったのだ。しかしそれを今詳しく言及するのは躊躇われる。いまだ宝来はその目的、響に関する話をひとことも相馬から聞いていないのだ。自分で調べたことだけならまだしも、行方不明になった相馬を捜す際に黒崎から様々なことを、黒崎と相馬の出会いから響とどんな風に過ごしていたのか、それ以前に相馬が小さな頃に関わり家族との関係だけでなくその後の相馬の人生を変えたという未解決の事件の話などを聞いてしまっている。勝手に聞いて良かった話なのかどうなのか、それを含めてやはり相馬が帰ってきてから、その表情を見ながら話をしたいのだ。
「とりあえず、終わった、のかな。それよりも宝来、黒崎とこっちに捜しに来てくれたって聞いたよ。ごめん。俺、やっぱり迷惑……」
「あのですね、俺が勝手に不安で会いたくてやったことなので、それは良いんです。不可抗力な部分まで謝らないでください。ただ、そうですね。すごく心配したのは本当なので、気にするのなら今度からはあまり俺から離れないで居てくれると嬉しいな、と思います」
 きっと相馬はそうしてじっと宝来の傍にいることなんてできないだろう。自分が大人でもっと自由があったらどこへでも追いかけていくのに。少なくともあと一年半、高校を卒業したら相馬と同じ大学へ進学してまた一緒に過ごしたいと宝来は密かに考えていた。その後に相馬に反対されるのだけれど。そうした諸々の事情を考えると、今は本当の気持ちを冗談めかして言うので精一杯だった。電話でなら細かいものは伝わらないだろうと思ったけれど、暫く考えるようにして相馬は黙ってしまう。宝来はさりげなく話題を進めた。
「それで先輩、帰ってくるんですよね。いつですか?」
「ああ、それが、なんだかんだで帰りの旅費が無くてさ、こっちでこっそり稼がなくちゃと思ってたんだけど、飛行機代貸してくれる人が居てさ、急遽帰れることになったんだ。この電話もそれで掛けることが出来たわけ」
 もう向こうでの用事が済んだのなら後は何の問題も無く帰ってくるのだと信じていた自分が馬鹿だったと思う。一刻も早く無事に帰ってきてくれるのならそれに越したことは無いと思うし、旅費を稼ぐ為にこっそり何をして、いつ帰れるのか分からない状況よりも、ぽんと飛行機代を貸してくれる人がいる方が良いとは思う。それに安心できないのは、相馬が変なものに巻き込まれやすい人だからだ。
「……お金貸してくれる人って……、何か、怪しくないですか?」
「帰るって電話しなくちゃ、って思って、うん、じゃあ、これも借り物だから、そろそろ切るな」
 小さく発した疑り深い言葉にはまるで取り合わずにあっさり電話を切ろうとする相馬の様子に、宝来は慌ててその疑問はひとまず保留にしようと決める。具体的な日時を確認していないというのもあるけれど、少しでも長く声を聞きたくて、通話が終わる時間を引き延ばしたいからでもあった。
「空港まで迎えに行きます! どの便で帰るのか教えてください」
「えっと……」
 迎えに来るなと断られなかった。しっかりとメモに日時と便を記入しておく。そうすることで漸く宝来の中に実感が沸いてくる。相馬が帰ってくるという実感、会って話ができるという実感が。
「じゃあ、またな、宝来」
 そう言ってまた返事を聞く間も無く電話を切ってしまうのだけれど、また、と言ってくれたから良いか、と思う。すぐにまた会えるのだから。









帰国に纏わる話

2008/3/1 雲依とおこ




Copyright (C) 2007 Kumoi Tohko.All Rights Reserved. 無断転載、複製、使用禁止