まぼろしのくに







    1


 背中と胸の間、体の内側深くにあるどこかからぞくりと震えが起こるような寒さを己の心を観察するのと同じようにじっと見つめながら、戸倉佐久は切れそうなほどに乾いて鋭い風の中にその身を晒して立つ。足元のアスファルトはつま先より一ミリ先で唐突に途切れ、際からは糸のように細い草がそこから伸びているだけでその先はもう底の知れぬ濁った水面が風によって美しい波紋を描く湖が広がっていた。
 凍えて死にそうだ、と何度も強く心の中で訴え体を震わせながらも戸倉が同じ場所から動かないのに理由は無い。理由が無いことこそが理由だといってもいい。この冷たさに身を置きつづけることで何かが変わるのではないか、いつも不意に近寄ってくる死というものに敢えて自分の方から歩み寄ることで何かを克服できるのではないかという根拠の無い想像に衝き動かされたというよりも余程真実味があるだろう。
 ただ、頑なに。引き結んだ口から僅かにでも息を漏らさないと必死になることが無駄だと分かっているのに拘るように、戸倉は己のうちの寒さを脳に刻みながら白い手指を握り締める。己の弱さは戸倉にとっては深刻な問題でも、他の者にとっては単にささやかで滑稽な悪足掻きでしかないだろう。そうしたすべてを褪めた心で見つめ切捨てながら、戸倉はただ己の信じるままに先を急ぐ。振り返る余裕など微塵も無く、足を緩めた先から泥のような何かに飲み込まれてしまうという焦りと不安に衝き動かされるように。たったひとりでも。



「君は……」
 冬の未明、寒さという鋭敏な感覚以外のすべてを曖昧にする霧の漂う湖畔に他の人間が現れるとは思っていなかった。気配を感じ取れなかった不覚をそう理由づけて振り返る戸倉の瞳に、小さく落とされた言葉と同様、冷静な鋭さを失わないまま僅かな困惑と驚きをその表情にうつした三上春威の姿が映る。憎らしいくらいに、或いは見惚れるくらいに確りと地に足をつけてまっすぐに立つ、冷たく揺ぎ無いものの象徴のような男だ。
「戸倉、こんな時刻にここで何をしている」
「てめえには関係ねえ」
 長く使わなかった喉は渇いていて、不覚にも引きつった声が出てしまった。しかしこんな時刻にこんな場所でというのなら三上だって同じではないかと気づく。休日の早朝、こんなにも寒いというのに三上は何も羽織らない制服姿だった。その冷たいほどの無表情を睨むように見つめれば、僅かに眉根を寄せた三上はゆっくり距離を詰めてくる。
「近寄んな」
 夜明け前の群青色の空を背にした三上はその顔に緩やかに明けてくる空の朧な光を受けていて、生まれる陰影が妙な具合にその表情を悪戯にやさしく見せる。思わず魅入って構える動きを止めてしまった戸倉は、伸ばされた指先が自分に触れる直前に我に返って慌てて払おうと腕を上げ、半身の構えを取ろうと右足を引く。
 体が傾いだのは引いた右足が着くべき地面がそこには無いからで、湖面との際に立っていたのだからそれを失念していたのは明らかに戸倉の失態だった。体重を乗せてはいなかったので僅かにバランスを崩しただけで済んだのだけれど、三上がその隙を見逃すことは無かった。
 最初に捕らわれたのは腕と腰だったけれど、すぐに全身がその腕の中に捕らえられる。
「いいから、動かないで。……そう、良い子だ」
「……な、んだよ」
 誰からも恐れられる三上春威の腕の中にいるという事態が戸倉の精神を緊張させるのだけれど、じんわりと伝わる熱に全身から力が抜け落ちていこうとするのを止めることは出来なかった。「冷たいね」と呟いた三上は腰を支えた腕はそのままに、掴んでいた腕を離して戸倉の後頭部に触れる。するりと髪の間をすり抜けるようにして降りていく指が襟に覆われていた首筋に辿りつくと、その三上の指先のあまりの冷たさに戸倉の体が抑えることの出来ない衝動に跳ねる。
「……っ」
 身じろぎする戸倉に気づいて己に冷たさに気づいたのか、すぐに離された三上の指は今度は肩に落ち、そこから腰に向かってまた肩まで戻りと手のひら全体を使って背中を何度も何度も行き来する。
 冷たいその手で何とか暖めようとするかのように。
 まるで必死に、ただ懸命に、尽くすように。
 どうしてこんな、と思うと戸倉は言葉を出せなくなる。
 繰り返し背中を撫でる手は徐々にそこに確かな熱を生み出し、更には別のものも生み出していく。暖かさと似ているようで違う、心の奥を疼かせるものを。それは背中に触れる手からだけ得られるものではなく、まるで抱き締められているような格好とその触れているすべて、顔も肩も胸も腹も腰も足もすべてから伝わるものだ。微温湯に浸かっているような心地良さを他人から得ることは、弱さを相手に見透かされている屈辱と妙な居心地の悪さとが相俟って嫌いだと思っていた。
 思っていたのに。
 最近になってそれが揺らいできたのは、ひとえにこうして自分に触れる男の所為だった。
「は、なせよ」
 顔を上げて僅かに三上との間に隙を作ってみるけれど、とても近い距離から見詰め合うような状況に陥っただけで居た堪れなさは増すばかりだった。
「僕が手を繋いでいないと、君、湖に落ちてしまいそうじゃない。この寒い日に濡れて風邪をひかれるのも溺れて死んでしまわれるのも御免だからね」
「なんで、お前がそんなこと……」
 理由を問うのは負けと同じだ。分かっていたのについ口にしてしまった戸倉が後悔して訂正するよりも早く、まるで抑揚の無い口調で三上が答える。
「懲りもせず無謀にも僕に歯向かってくるのは君くらいだから。折角の獲物なのに僕が手を出す前に無駄に死なれても困るからね」
「……」
 心に描いたのと同じ言葉を得られた戸倉は安堵して微笑むのと同時に、背中と胸の間の深い場所を震わせる寒さは血が巡るように全身に行き渡っていく。包まれている暖かさから隔たれた、ただひとり抱えるもの。
「って言えば満足?」
 先ほどの抑揚の無い言葉から一転、吐き出すようにそう言って微笑む三上の瞳には苛立ちに似た凶暴な熱の篭った色が揺らめいて戸倉に注がれた。それは微温湯の心地良さからはかけ離れたものだ。灼熱の槍で強引に心を暴かれるような強い視線に、戸倉は血が吹き出すような痛みと熱におかされ、どうして良いのかまるで分からなくなってしまう。
「……っ」
「残念ながら君の望みには応えられないよ」
 暴かれた先に何があるのか分からないまま、ただ何か知れぬものの不安から自らの心を守ろうとして耳を塞ぐために持ち上げた腕は、三上によってその手首を掴んで拘束されてしまう。
「三上っ」
「君を失いたくないという気持ちに理由なんて無い。あくまで君が認めようとしないなら、それでも構わない。今はね。だから僕が望むように勝手にさせてもらう」











    2



 胸を押し潰すように圧迫するざわめきは、偶然にも放課後、委員会へ向かう途中に帰り際の戸倉佐久を見かけた瞬間から三上の意識に割り込んできて離れることが無い。会議中にも関わらず気が入らず眉間に皺を寄せたままの三上は頭から離れない戸倉の様子を思い出しては理由の分からないそのぞろぞろとしたその嫌な感覚が何なのかを突き詰めようとしていた。
 別に戸倉がいつまでたっても三上の気持ちを理解しようとしないからそう思うのではない。それについては理解できない戸倉の事情を三上は誰よりも理解しているつもりだから。では胸に張り付くこの嫌な感覚は何から来るのだろう。いつもと同じように彼が守る他愛ない付き合いの中に混じって帰る戸倉の様子に、自分は一体何を見たのか。
 三上の発する妙な緊迫感に室内の委員全員が緊張しているのも分かっていたけれど、今はそんなことどうでも良かった。幾ら考えても結局理由の知れないこれは嫌な予感というものだろうかと結論づけた三上は、静かな声で副委員長を呼ぶと指示を残してその場を退席する。
 もう一度その姿を見ればはっきりするかもしれないと思った。
 或いはその声を聞き、触れて確かめれば。



 思いつく限り街中を探して歩いた三上は、町の外れを流れる川の畔を歩く戸倉を見つけた。既に辺りは闇に沈み、街灯も無い川辺にはただ冴え冴えとした月の光だけが静かに注いでいる。その光を静かに返す色素の薄いの髪を風に嬲らせながら、戸倉はふらふらとした覚束ない足取りで彷徨っていた。まるで幽霊のような薄い存在感だ。
 こんな月明かりだけの夜にひと気の無い寂しい川辺を、そんな風に見る者の心をざわつかせる危うい様子でひとりで歩くなんて、余計なものを煽ってしまって危険だと三上は眉を顰める。ただでさえ華奢なその体はまるで酔ってでもいるかのように頼りなくいつもよりもずっと無防備で、簡単にすぐ脇にある草むらに連れ込みどんな暴行でも楽しめそうなのだ。
 余計な輩に見つかる前にこうして自分が見つけることが出来て良かったと三上は心底安堵した。だってこれは僕の獲物なのだと、傲岸にも強く思っていた。
 どうして帰り際の戸倉を見て気になったのか、有体に言えば嫌な予感がしたのか姿を見れば分かると思ったのは正しかった。まるで三上に気づかないどころか、どこを見ているのか分からず不安に陥るようなその瞳を見た瞬間に理解した。それは常に戸倉が抱えながら普段は誰にも気づかれないようにと誤魔化しているそれが明確に浮かんだ瞳だったから。
 誰もが目を逸らす「終わり」から目を逸らさずに、じいっとその終わりを見据える目。それは即ち不安を克服しようとする行為でもあるのだろうけれど、克服するという目的が達成させられなければ不安定に崩れ落ちるだけだ。
 すべてを手に入れるか全部失うか。
 曖昧さを嫌うそうした性分なのかもしれないのだけれど、無謀で危険な戸倉の行為を見ると三上はたまらないほど手を伸ばしたくなるのだ。引きとめ、自分に繋いでおきたいという衝動が何に由来するものなのかを理解した三上はその感情を言葉にして戸倉に告げた。もう何ヶ月も前の話だ。それからは機会を得るたびに、何度も、何度も。
 まるで理解しようとしない戸倉に焦れないと言えば嘘になるのだけれど、どうして理解しようとしないのか、どうして理解を拒絶するのかを分かっている三上は今は告げて見守るだけで十分なのだと納得している。
 今の戸倉はそうして「終わり」と対峙することで精一杯なのだ。そうしたものと向き合っている戸倉が、三上の言葉を受け付けないのも無理は無いのだろう。また、三上の言葉を受け付けないのと同時に他の誰の言葉も受け入れられないだろうと思うから、ゆっくりと身構えていられる。
 これは、僕が狙っている獲物なのだから。
 誰にも渡さない。



 川辺を延々と辿る細い道を戸倉はどこまでも歩き続ける。気づかれないだろうと思いながらも少し離れた位置から尾けるように歩いて追っていた三上は、普段から人通りの少ない道ながらそれでも時折すれ違う酔っ払いや何の目的でか深夜にも関わらずふらついている若者が戸倉に声を掛けようとする度に無言で威圧して追い払っていた。戸倉はそうした周囲の様子にもまるで無関心でひたすら歩き続けていく。
 どこまで行くのだろうと訝るけれど、戸倉には明確な目的の場所など無いのかもしれないと思い直した。ただ歩くことで心に溜まった澱のような何かを消化しているのなら、目的は場所ではない。その行為こそが目的なのだ。
 しかしそうして見守る三上の前で不意に戸倉は立ち止まった。未だ夜の闇が空を覆い、雲に隠れた月が足元さえも覚束なくさせるそこに何があるのか。声を掛けようとした三上は、しかし戸倉の眼前に広がるものに気づいた。戸倉が立ち止まったその足のすぐ先には湖があるはずだった。傍らを流れていた川が注ぐその湖は闇を映して漆黒の闇そのもののようだったし、俯いてそれを覗き込む戸倉の髪と同様生まれながらに色素の薄いその瞳さえも闇を映して漆黒に染まっているだろうことは見なくとも分かった。 まだ、大丈夫だと、その内側を測る。



 冬の冷たい湖面をじっと見つめる戸倉の心の中で起こっている鬩ぎ合いを想像しながら、三上は手を出すタイミングを見計らう。出来る限り邪魔はしたくないのだし、もし戸倉が崩れるならばその前に助けたい。その、絶妙のタイミングを計っていた。戸倉をしっかりと捕まえ、その心に割り込める瞬間を。
 未明ながら徐々に東の空が赤みを増し、深い赤から濃紺へと激しい色の変化を生み出すころにはいつの間にか湖面には深い霧が立ち込めていた。流れてくるその霧は冷たく、戸倉の体を冷やしているだろう。
 どうしてそんなに自身を追い詰めるのか。
 前ばかりを見つめ振り返ることをしないのか。
 すぐ傍にいつも三上がついていて、こんなにも振り返るのを待っているというのに。
「君は……」
 驚いて振り向いたその瞳に映った自分を見ることで、自分が声を掛けていたことに気づいた三上は、こんな場所で遭遇したことに何の説明も出来ないということを瞬時に考える。まさか尾行していました、なんて正直には言えるわけがない。だとすれば。
「戸倉、こんな時刻にここで何をしている」
「てめえには関係ねえ」
 問われたくないときは問うのが一番。混乱しながらも睨む瞳は鋭いまま、しかしいつものように噛み付く声音はひどく引きつっていて、それがとても痛々しかった。だから三上は無意識のように距離を詰める。
「近寄んな」
 怯えを隠すように懸命に威嚇してくる様子をじっと見つめ、闇を抱えた瞳を行き来する感情を量ろうとする。僅かな逡巡を見せながらも三上の腕を払い構えようとする戸倉が、唐突にバランスを崩した。その腕を捕らえるのはとても簡単で、そのまま胸のうちに抱きこむのも、とても簡単だった。
「いいから、動かないで。……そう、良い子だ」
「……な、んだよ」
 触れた体はどこもかしこも冷たくて、今更ながらに季節を思い出して溜息を吐いた三上は、少しでも温まればと思い抱き込んだその体をゆるゆると撫でていく。指の隙間から零れ落ちていく髪は湿っていて冷たかったのだけれど、そのすぐ下にある首筋に触れるとその肌は驚くほどに熱かった。びくりと腕の中で跳ねる体は三上の手の冷たさを非難しているようだったけれど、だからといって離すことの出来ない三上はそれでも少しは熱を生み出せるのではないかとその背中を撫で続ける。
「は、なせよ」
 あたたかい、と触れていて感じるのは三上だけなのだろうか。離し難い心地良さを伴う温もりに浸っていた三上は腕の中で必死にもがいて逃れようとする戸倉を少しだけ離して視線を合わせて、そこにあるのが拒否ではなく困惑であるのを見つけた。
 戸倉の中で揺れはじめた心が何に傾くのかは未だに分からないけれど、少なくとも三上を無視できない程度にはその心に割り込めているのだろう。
「僕が手を繋いでいないと、君、湖に落ちてしまいそうじゃない。この寒い日に濡れて風邪をひかれるのも溺れて死んでしまわれるのも御免だからね」
「なんで、お前がそんなこと……」
 その問いに三上が正直に答えて困るのは戸倉だろう。それが分かっているから戸倉が訂正する前に三上は言葉を紡ぐ。敢えてその心を揺さぶるように。
「懲りもせず無謀にも僕に歯向かってくるのは君くらいだから。折角の獲物なのに僕が手を出す前に無駄に死なれても困るからね」
「……」
 安堵して微笑む切ないその表情に、唐突に三上の中で苛立ちが暴れだす。
 そんなに切ない瞳で自分を見つめるのなら、いい加減に認めてしまえば良いのだ。だってもう戸倉の中の強情な部分以外では理解しているはずなのだから。
「って言えば満足?」
 吐き出すようにそう言って微笑むと、戸倉はまるで痛みを受けたかのような傷ついた表情をした。やはり戸倉はもう理解しているのだ。それを否定するのに必死で、だから三上の言葉が痛いのだ。その最後の砦はとても脆くて、三上の指先ひとつ、言葉ひとつであっという間に崩れ落ちるだろう。
「残念ながら君の望みにはこたえられないよ」
 耳を塞ごうとする腕を捕らえ、力の無いその抵抗を封じる。音を上げるような悲鳴じみた声は三上の征服欲を増長させるだけなのに、理解しようとしなかった獲物はそんな簡単なことにも気づかずその声で名前を呼び、三上の欲を煽るような瞳を晒すのだ。
「三上っ」
「君を失いたくないという気持ちに理由なんて無い。あくまで君が認めようとしないなら、それでも構わない。今はね。だから僕が望むように勝手にさせてもらう」








    3



 まだ顔を出したばかりの朝日が鋭い光で町並みを照らす。薄く靄の掛かった早朝の町並みに人通りは少ないけれど皆無というわけでもない。夜が明けたばかりの時間帯に、身を切るような寒さの中で軽装の学生がふたり手を繋いで歩いている姿は不審なものだと思うのだけれど、通報されないのはひとえに毅然として前を歩く三上の所為だろうと思った。
 この町の周辺で三上を知らないものなどいない。子どもから大人まで、その存在は恐怖の象徴として捉えているだろう。不審な行動をしていたら咎めるのではなく目を背ける方を選ぶほど、三上の力とその支配は絶対だった。戸倉もこの町にはじめて来た頃、どこでもあったように喧嘩を売られては律儀に買っていた。相手が高校生でも負けることは無かったけれど、そうした騒ぎを見つけて鎮圧にかかる三上に勝てた試しはなかった。圧倒的な強さというものをはじめて感じた。それは、戸倉の中に不思議な感情を生んだ。ぐちゃぐちゃに戸倉を叩きのめした手と、今こうして温かく自分を包み導くようにして引く手が同じものだと思うと、とても不思議だった。いつから三上は自分を傷つけなくなったのだったか。
 目に見えて白い息は吐いた次の瞬間には霞むように消えてなくなるけれど、呼吸を続ける限り、或いはこの寒い空気の中から逃れない限りはまた現れるものだ。身に染みる寒さと眩しさ、そして僅かばかりの睡眠不足に戸倉の脳は現実を失いくらり幻惑されそうになる。しかし戸倉の手を引く手の熱さが、どこへも行くなと引き止めここに繋ぎとめるのだ。
 それにしても繋いだ手のこの熱さは異常だ、と戸倉は思う。
 しかし異常はそう感じる自分にあるのかもしれない。腕を掴んで引く手から視線を上げた戸倉は目の前を行く黒髪の後姿にその視線を止めた。そして自分よりもたった二年長く生きているだけで、体躯さえそう変わらないその身体に、何よりその精神に宿る力を思う。戸倉が腹の底から欲しいと願うもの、何者にも屈しない強さを既に手にしている三上に対する感情が嫉妬でも憧れでも無いのが我ながら戸倉には不思議だった。今まで、ではなく、今でも他にそういう者があれば苛立ち反発することしか出来ないというのに。
 では三上を目にするとき、三上を思うときに去来するこの思いの正体は何なのだろう。安堵と不安、心地良さと苦痛。常に感情を両極端に二分させ、戸倉を混乱に落とし込むこの感情の正体は。
 それでも今までは逃げ出すことを許されていた。そう、今にして思えば三上はそれを許していたのだと分かる。ひたり戸倉に据えられる漆黒の瞳に宿る感情の色を直視すれば、それを向けられる自分の感情も引き摺り出されるような気がした。己の感情を不思議に思う戸倉はしかしその感情を暴かれ突きつけられることを恐れた。尻尾を巻いて逃げ出す無様な戸倉を軽蔑するでもなく「待つ」と言って見逃してくれていた三上は、どうしてだか今日は「勝手にさせてもらう」と言って戸倉の腕を引くのだ。
 歩き始めてからの三上はずっと無言で、話しかける言葉を持たない戸倉は答えの無い自問ばかりを繰り返していた。そういえばこんな風に長く三上の後姿を見ているのは初めてではないかと今更ながらに思い至る。
 もう逃がしてはもらえないのだろうか。
 暴かれ突きつけられるものは戸倉に何を齎すのだろう。
 そのあと戸倉はまた以前と同じ気持ちで未明の湖畔で見つめつづけたものと対峙できるのだろうか。
 今までのように前だけを見て歩けるのだろうか。
 足元を見ることも、後ろを振り向くことも無く。
「三上」
 不意に堪らなくなった戸倉はその名前を呼ぶ。振り向いて「何」と問い返す三上の漆黒の瞳に完全に我に返った戸倉が気づけば、目の前には緑に囲まれた高級マンションが堂々と建っていた。ここは三上のテリトリーだ、と認識した戸倉はその足を止める。
 怖い。
 足が竦むのは三上の圧倒的な力に己が敵わないからではない。きっちり線を引いて互いに踏み込まないようにしている今の関係ですら戸倉の感情は激しく上下するというのに、この先に一歩でも踏み込めば飲み込まれて窒息してしまうのではないかと思うのだ。肺から漏れる息が無くなっても逃れられないほどに溺れてしまう。
 足を止めマンションを見上げる戸倉に、腕を放して先に行くこともなく同じように足を止めた三上は揶揄うような、小さな笑みを口元に浮かべて言った。
「ねえ、もしかして怖いの?」
「……っ、誰が!」
 思わず強気に答えたけれど見透かされていることは間違いない。滲むような笑みに変えた三上はしかしそうすることで戸倉の竦んだ足をまた動けるようにしたかっただけなのだろうと思う。その笑みを受け止めることが出来ずに戸惑ったまま、それでも戸倉はセキュリティを解除し幾重にも扉を潜って進む三上に付いて歩く。強化ガラスを越えると思わず息を深く吐き出すほどに暖かかった。屋外の空気はここには届かないのだ。それでも芯まで冷えた体が温もることは無い。
 エレベータに乗り込んで歩く道を一旦失った二人は互いに無言のまま目的の階までの時間を過ごす。未だ離されない己の腕と、離さない三上の手を見つめながら、確かにそこに熱があるのだと改めて認識した。何度もそうして目で見て認識しないとすぐにでも消えてなくなってしまいそうに不確かで曖昧な繋がりを。
「戸倉」
 呼ばれて手を見るために落としていた顔を上げると、まっすぐに自分を見つめる瞳がそこにある。曖昧とは程遠い確かさでもって戸倉に注がれる瞳とその強い意思に、戸倉は言葉が出せない。
 怖くない。
 閃くように唐突に戸倉の胸にその思いが落ちてくる。たぶん、きっと。今まで固執し続けた畏れと対峙することとは違う大事なものがここにある。怖いほどの不安は、その先にあるだろうものが戸倉にとって生きていくのと同じくらいに、或いはそれ以上に大事なものだと直感させる。



「寒かったのはお前も同じだろ。だったら」
「君の方が冷たい」
 そう結論付けた三上によって問答する時間も惜しいと睨まれながら風呂場に押し込まれた戸倉は、納得がいかないままに熱いシャワーを頭から浴びる。自分の体が冷えていたのは確かだけれど、ここは三上の家であり、三上だって負けないくらい冷たかったのに。
 しかし自分を掴んでいた手は熱かった、とふと思い出す。掴まれていた手を持ち上げて見ると僅かに赤くなっていた。強く掴まれていた証に、戸倉は言いようの無い胸の苦しさに襲われる。
「タオルと着替え、ここに置いておくから。ちゃんと湯船に浸かって温まってから出るんだよ」
「……っ」
 すりガラスの向こうから掛けられた声に心臓が跳ねる。振り返れば黒い影が脱衣所から出て行こうとするところで、慌てて戸倉は声を掛けた。
「待てよ三上っ」
 呼び止めれば影は立ち止まり寄ってくる。
「何」
「いや、あのさ、一緒に入れば良いんじゃ……」
「…………、君ね……。良いけど、……まあ、良いか」
 珍しく躊躇いを見せた三上はそう呟くと「ちょっと待ってて」と消えていった。シャワーを終えた戸倉は言われたとおり湯船に浸かりながら、咄嗟に妙案が閃いたと思ったのに随分と呆れたような声音が返されたものだと何だか釈然としない気持ちだった。そうしているうちに入ってきた三上は、ちらりと浴槽で温まる戸倉に視線を向けると何を言うでもなく体を洗いはじめる。
 あの三上と風呂に入っているなんて不思議な光景だな、とぼんやりとその姿を見つめながら戸倉は思う。心地良い湯船に浸かっているからだろうか、とても穏やかな光景に思えるのだ。
「……君さ、他の人間ともこうやって一緒に風呂に入る訳?」
 丁寧に体を洗い終えた三上が浴槽に入ってくる。未成年とはいえ二人の男が入っても無理は無いほど浴槽が広くて良かったと戸倉が言えば、首を傾げた三上はもう少し狭い方が良かったと呟き、それから改めて戸倉を見つめながら先の質問を放ったのだった。
「は? いや、初めてだけど」
「それにしては随分と簡単に誘ってくれたけど」
「いやだって状況が状況だし。それに……」
 体を冷やしたままの三上を差し置いて自分ばかりがぬくぬくと風呂に入っているなんて落ち着かなかったのだ。それに、の次に来る言葉を飲み込んだ戸倉は、そうしてからやっとで自分が何を飲み込んだのかを思い知って顔を顰める。確かに他人と一緒に風呂に入るなんて状況が状況でも固辞するだろう。危険の中で生きて来た身としては、裸であるという無防備さがどうにも心許無いのだ。なのに、三上だったら良い、なんてどうして思ってしまったのか。
「ふうん。それなら、良かった」
 揺らぐ心を知ってか知らずか、三上は満足そうに頷いてそう言葉を落とした。未だ自分の心が整理できないまま、戸倉は思わずといった軽い気持ちで問い質してしまう。
「良かったって、何が?」
「何がって、それは好きな子が他のやつと仲良く風呂に入ってたら、やっぱり穏やかでは居られないよ」
 軽い問いに返された答えはまるで軽く聞けるものではなくて、戸倉は一気に顔が熱くなるのを感じた。心音が煩いのも頭がふらふらするのも全部湯中りの所為だと思いたかった。
「……っ、オレ、もう上がるっ」
「駄目だよ、まだ。……誘ったのは君じゃない」
 立ち上がろうとした腕を掴み抑えられ湯船に連れ戻される。激しく揺れる水面が音を立てる中でも三上の声からもその腕からも逃れられない戸倉は、その指先が頬に触れ濡れ手張り付いた髪を掬うように後ろに流すのも、同じ指が頬から顎を辿って首筋に落ちていくのにも逆らえない。
「まったく、あんまり気楽に誘ってくれるから、もしかして本気で意識されてないのかと思ったけど、……そう。違うみたいで、良かった」
 浸かる湯も満足そうに揺らめく漆黒の瞳もその指もそれらが齎すものも何もかもが熱くて、戸倉は本当に眩暈がしてきた。
「や、あの、三上。もう本当、降参……」
「……仕方ないね。まあ、これで君が懲りて自覚してくれるなら、良いか」



 風呂から上がるとそのまま腕を引くように寝室へ連れて行かれた。そのままふたりで倒れこむようにしてベッドに横になる。
「一晩中起きていたから、さすがに、眠い」
 そう言うなり三上は巻き込むようにして戸倉を胸のうちに収めて瞳を閉じてしまった。抱き枕になった気分だ。
「……あのさ、気になってたけど、お前……」
「話は……、起きてからにしよう……」
 抱き込まれた状態から解放されない戸倉は、しかしなかなか眠ることが出来なかった。ここへ来れば何かが分かる、何かが変わると思ったのは間違いではなかったと思うのだけれど、それが具体的に何であるのかを戸倉はまだ理解していない。暫くはそのまま三上や三上の寝室を観察してみたけれど、なんだか自分ばかりが緊張しているのが馬鹿らしいと無理矢理にでも眠ることにした。瞳を閉じれば、絶対にこんな状況で眠れないと思ったのが嘘のように眠気が襲ってきて、あっという間に戸倉はその意識を手放す。
 三上との話も自分の中の葛藤を見据えて理解するのも、全部、起きてからで良い。
 今はこの耐え難い心地良さに身を委ねたいと思うから。








    4



 神妙と言うよりも頭の中がまっさらになったような無表情で三上の作った茄子の味噌汁をもそもそ口にする戸倉からは、今まで必死になって見るもの触れるもの周囲にあるものすべてを威嚇してきたような過剰なまでの警戒心がまるで感じられない。しかしその過剰なまでの警戒心こそが普段戸倉の精神を守っているのだから、一時的とはいえそれを失った戸倉は酷く危うげで、己と向き合う際のあの死の淵を見つめているときのように見るものの心を不安定に陥れ落ち着かなくさせる。
 洗い立ての真っ白なシャツを羽織って水菜と油揚げの煮びたしに端をつけ半熟卵を口にする静かな戸倉の様子はその落ちた表情と相俟っていっそ気品を湛えても見え、落ち着かなさの元凶を排除するという意味以上にぐちゃぐちゃにしてしまいたい欲求を煽るけれど、そうした戸倉の様子を眺め心をざわめかせながらも三上はただ食事の手を止めこくりと唾を飲み込んだだけで堪えた。
 これはきっと戸倉の通常の状態ではない。己の葛藤と対峙していた戸倉を強引に三上の領域に連れ込み為したことが今の戸倉の飽和状態を招いているのであれば、もしかしたら普段は軽く流されてしまう三上の言葉も何の警戒心も反発心も含まない素のまま届くかもしれないのだ。
「ねえ戸倉。僕、君が好きなんだけど」
「ああ、そう」
 試しにと軽く告げてみるけれど反応はいつも以上に素っ気無いものだった。駄目か、と溜息を吐いて食事を続けようと箸を持つ手を上げると、反対に静かに箸をおろした戸倉が口を開いた。
「言葉にすると意味が失われる」
「……何?」
 ぽつり呟かれただけでなく意味の取れないそれはひとり言なのかもしれなかったけれど、三上にはそれがいつもよりも真摯な返答だという気がしてならず、自身も箸を置いて戸倉の瞳を覗き込んだ。その瞳は今はしっかりいつもの空元気のような強気を帯びた戸倉のもので、しっかり三上を見据えたその色は正しく三上にこそ語りかけているものだった。
「意味を知ろうとする意思が失われ、凡庸な形だけが残る気がするんだ」
「言葉が凡庸?」
 会話の流れを掴もうと戸倉の言葉を噛み砕き咀嚼する。
 なるほどこれは確かに三上への返答なのだ。
 無意味に告白し続けたことへの。
「うん。たとえば今、三上の作った食事を口にしてオレがうまいって言葉にする、それでお前は何を知ることが出来る? 驚きとか感動とか、そうしたもの、伝わるか?」
 うまいと聞いて三上が理解できるのは三上なりの美味しいという定義の枠内から外れないものだ。正直、戸倉が驚いたとか感動したとかそういったものまでは想像もできない。
「好きって言われても、そんな類の言葉は今まで何度も聞いたけど、そのどれもオレには響かない。何だろうって思うだけなんだ」
「……そう」
「だから、オレはお前の希望には応えられないよ」
 すなわちそれは戸倉の中にその言葉に付随する感情が無いということなのか、と三上は静かに絶望するけれど、しかしそれは違うとすぐに思い直す。
 何も無いのであればそう口にすれば簡単なこと。
 なのに戸倉はそうしなかった。
 それは希望だ。
 戸倉の言う、意味が失われないやり方でなら応えるかもしれない。皆が口にするその感情を自分で抱くとどういう風に感じるのか知らないだけで、それは今後もそうであるとは限らないのだし、長く語りながらその核である言葉を口にしていない戸倉の、安易に言葉にしないその心中の何かが、今、動き変わろうとしているのかもしれないのだ。
「知らないなら、これから知れば良い」
 未来はこれから作るもの。
 まだ過剰な警戒心のうちにあった戸倉の中が真っ白で柔らかくあるというのなら、そこにどんな色だって付けられるだろう。
 それを為すのは戸倉であり、周囲の人間すべてなのだ。
「君が昨夜、僕と一緒に風呂に入って何を感じたのか、一緒に眠って何を感じたのか、一緒に食事をして何を感じたのか、言葉に出来ないそれを、感じるままにじっくり味わえば良い」
 感じるためには一緒にいる時間が必要なのだ。傍に居ることが条件ともいえるこの言葉を、戸倉が呑むかどうかはまるで分からないけれど。  最終的に納得させる自信が三上にはあった。
「……嫌だ、って言ったら?」
「監禁でもしようかな。でも君はきっと嫌だとは言わない。知りたいはずだ。自分の中に新たに生まれるものを。君は弱いけれど、未知のものに触れることを触れる前から逃げ出すような弱さは持ち合わせていないだろう」
 あきらかに自分の都合の良いように三上は誘導しているし、戸倉も誘導されていると分かっているだろうけれど、またその誘惑を戸倉が断れないだろうということも互いに分かっていた。何より鋭い光を帯びるその瞳が未知のものに触れたいという欲求で満ちている。
「……知り、たい」
「教えてあげる」
 うっとり目を細めて誘うと、戸倉は短く息を吐き出して、それからこくりと頷いた。
 やっと手に入れた。
 しかしこれはようやくスタートラインに立てたということ。ここから何をするかが大切なのだ。三上は勿論、戸倉にとっても。
「昨日からずっと考えてる。凡庸な形を見ないようにして、ただ、ここに来てから感じたことを、その意味を……。分かりそうな気がするんだ。だから、三上」
「うん」
 椅子から立ち上がった三上はテーブルに片手をつき、体を伸ばしてテーブルを挟んだ向こうにある戸倉の頭を軽く抱き寄せる。
「どこまでも付き合うよ」
 だから付き合おう、とその耳に囁くと、腕の中で戸倉が頷く感覚が伝わる。
 何もかもここからはじまる。
 誰よりも近い場所で、焦らずじっくり戸倉の感情を育てるのだ。










2010/2/9  雲依とおこ







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