まぼろしのくに
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 意味が分からない。最初に思ったのはその言葉で、暫くはその言葉以外の言葉なんて思いつかないというようにただその単純な言葉だけが頭の中を支配していた。
「一人で、帰れって?」
 どう考えても意味が分からない。しかもそんな言い分、聞けるわけが無い。だって自分は戸倉を迎えに来たのだ。一人では帰れ無い。一緒で無ければ意味が無い。
 落ち着いてから思い返してみれば先ほどの戸倉は普通の状態ではなかった。微笑んではいたけれど、今にも泣き出しそうではなかったか。あれは感情を堪えるための笑みだったのだ。嘘を必死に守るための、そんな、悲しい表情だった。
 それなのに告げられた言葉に衝撃を受けて、思考が固まってしまっていたのだ。どうしてその腕を掴み抱き締め無かったのかと柄にもなく後悔する。
「やっぱり、こうなりましたか」
 背後からのんびり掛けられた桐谷の言葉に苛立ちが沸き起こる。振り返ると桐谷の何もかも知っているような含みのある笑みと、それを困ったように見る幸太の姿があった。随分と二人は仲良くなっている。宮から山を下りこの屋敷まで戻る間、あまり同じ空気を吸いたくないと三上はずっと離れて歩いていたけれど、桐谷はずっと幸太と何かを話していたようだ。
「……あなた、あの子に何かしたの」
「いいえ。人の所為にしないでください。そもそもあの子がこの村まで来たのは、あなたから逃げてきたんじゃないんですか」
 確かに戸倉が家を出たのは三上から離れるためだっただろう。しかしそれはあくまで今一度自身の葛藤と対峙するためだったはずだ。三上を嫌って逃げたのではないと、迎えに来た三上を拒絶するまでの感情は無かったのだと、そう三上は信じている。だから、先ほどの戸倉の発言には別の何かが存在したからに違いないというのに。
「……知ったようなことを言わないで」
「ほら、でも、あなたは否定できない。あの繊細な子の傍にいるのに、あなたのような暴力的な人間は似合わない。僕の方が適任だと、そう思いませんか?」
 何かは分からないけれど、何かを煽ろうとしていると、桐谷の言葉に三上はそう感じた。
「煩いよ。それを決めるのはあなたでも、僕でも無い」
 そう告げると、三上はそれ以上口論するだけ無駄だと背を向けて歩き出した。先ほど戸倉が走り去っていた形跡を辿る。
「自ら止めを刺されに、確かめに行きますか。それも良いでしょう。ああ、彼ならきっと、台所奥の部屋から辿りつけますよ」
 その余裕が気に入らなかったけれど、戸倉が向かった先の情報に罪は無い。屋敷に入り台所の奥へ向かった三上は、すぐにそこから地下に下りる階段を発見した。



 中は随分と暗い。ポケットからペンライトを取り出し、小さな明かりで道を確かめながら歩いた。幸い道はひとつしかない。台所を入り口としたこの地下はかなりの規模のようで、しかもかなり古いものだった。使用されている木材は長く湿気った所為で腐敗している部分さえあり、そのため地面がむき出しになっている部分もあった。あんな不安定な精神状態で、こんな悪路を疾走して、そそっかしいところのある戸倉は躓いたり転んだりしなかっただろうかと思う。
「僕から、逃げたりするからだよ……」
 あんなに傷ついた顔をしていたのも、全部、三上から離れた所為だ。傍にいれば、弱い部分なんて幾らでも三上が補ってあげられるというのに、そうして他人に頼るということを戸倉は本当の意味で理解できていないから、すべて自分が弱いと自己嫌悪に繋げてしまうのだ。
 そうではないと、実感として教えるはずだった。
 補い合うということは、そうした悪いことではなく、負の感情に繋がるものではないと。



 暫く進むと更に下に向かう穴があった。蓋を開いて中を覗くと真っ暗な空間がある。飛び降りて確認すると今度は岩で出来た自然の洞窟だ。人工ではない分、通路も一筋縄ではいかない。どれが本筋でどれがわき道なのか分からないのだ。しかも洞窟内は恐ろしく静かで、耳をそばだててもまるで人がどこかにいるような音が聞えなかった。
 戸倉はいったいどこにいるのか。
 本当にここにいるのか疑わしくなってくる。そもそも幾ら戸倉のことで動揺していたとはいえ、信用できない桐谷の言葉を信じて地下に下りたことから不用意だったと思えてきた。
 しかし三上は村に来てから頭の中にずっと地図を描き続けてきている。だから道は分からなくても方向なら分かるのだ。地下に入った屋敷の台所から歩いて来た方向と距離をあわせて、そして地上の風景と重ねる。そうすれば、山の上にあったあの宮の下と重なる部分がきっとあるはずだった。いるならそこだ、そう思うから、そうならなければならない。
「鬼が来た」
「鬼が来た」
 右へ左へと逸れながら、それでも宮の下に当たる部分に辿りつけそうだと思った頃、闇の中に重なる女の声が響いた。歌うような調子の声だ。姿は無い。
「鬼が来た」
「鬼が来た」
 しかしこれこそ戸倉に近づけた証拠だと微笑んだ三上は、声を無視して先を急ぐ。声は尚も追ってくる。しかし害は無い。
 一体なんだろう、そう思いながら音に耳を傾けているうちに、これは洞窟内を流れる風の音が何かの調子でそう言葉として聞えるだけだと気付いた。こんな風の音を聞き違えるなんて、あるはずのない不安を指摘されただけでなく、そこに付け込まれたようでいい気分ではない。
「戸倉、どこ?」
 もうすぐ宮の下ではないか、というところで、もしいるなら返事があるかもしれないと声を掛けてみた。洞窟内に木霊する自分の声は、何故だか不安に震えて聞えて、あるはずのない、といった不安はもしかしたら気づいていないだけで自分にもやはりあったのかと三上は思わず笑い出しそうになった。



「三上……?」



 答えはすぐに返ってきた。
 近くだ。
 帰れと言っていたのに、ちゃんと返事をしてくれた。
 喜びのような焦燥のような様々なものが綯い交ぜになった思いに突き動かされるようにして駆け出した三上が声の聞えた方へ曲がる通路を見つけると、そこを曲がった先には今までの狭い亀裂の中を走っているような場所からすれば息を呑むほどに、ぽっかり広く開けた空間があった。
 天井も高いようで、上を見上げ光を向けてみても、どこまでも暗い闇が満ちているだけで果てが見えない。見えないだけでなく、本当に無いのではないかと疑いたくなるくらいの見事な闇だった。また視線を下ろせば広いその空間にはこれも他では見ない、枯れ葉のようにかさかさとしたものが一面に積もっており、そして、その中央で戸倉が祈るように座って三上を見ていた。
「お前、何で……、帰れって、言ったのに」
 泣きそうな顔をしながらしかし決して泣かず、戸倉はただ悲しそうにその場に膝をついていた。
 まったく本当に、と先ほどの喜びや焦燥なんて完全に吹き飛んだ末に胸を占めた殆ど怒りの塊に突き動かされながら三上は大股に歩いて戸倉に近づいた。
「まったく、本当に、馬鹿だ」
 怒りとはいってもこれはどこか楽しさを含んだ怒りだった。馬鹿だとは勿論戸倉に対しての言葉であるけれど、そう口にする三上は心の奥で戸倉も自分も馬鹿は両方だと思っていた。
そして仕方ないと、そう思ってしまうこの怒りの先に辿りつくのは何故か、どうしようもなく戸倉と離れ難いという諦めにも似た愛しい感情だ。
 そうして傍に寄った三上は、今度こそ抗う余裕も与えずその身体を抱き締める。すっかり冷たくなっていた身体に触れて、三上はやっとで深く息を吐き出せた。やはり自らの手の中にあると安心する。
「聞けるわけないでしょ。君を残して」
「三上……」
 予想に反して戸倉は抗わなかった。普段の戸倉ならきっと何をするのかと暴れ騒ぐはずなのに、抱き締める腕の中でそっと預けられる力の無い身体に、そうするより他に動くことの出来ない様子に、三上は三日前には無かった疲労を見て取る。たった三日会わなかっただけなのに、すっかりやつれてしまったようだった。それだけ様々なことがこの村であったのだろうと、その表情からも分かっていたことだけれど、触れるとより確かに分かる。
「さあ、帰ろう」
「三上、でも、俺は……」
 逡巡するようにそう言いながら三上の胸を押して身体を離した戸倉は、しかし微塵も逡巡を感じさせないまっすぐ射抜くような瞳で三上を見据えるのだった。それは既に何かを決めてしまった瞳だった。
「俺は、ここで犯した罪を償う。どこへも、行けない」
「納得できない。何があっても僕は君を連れて帰る」
 何があってそう思っているのかは知らないけれど、たとえどんな罪を犯していたとしてもこんな暗い場所に戸倉を残していくなんて冗談ではない。それなのに帰れないと当の戸倉が言うのであれば、その意識を奪ってでも連れて帰るつもりだった。
 しかし、苦しそうな顔で帰れないのだと言い聞かせるように告げる戸倉の顔を見ると、つい一瞬前までは胸倉を掴んで引き上げようとしていたはずの手を止めてしまっていた。先ほど桐谷から暴力的な人間が傍にいるのはどうかと言われたのが改めて胸に突き刺さるようだった。別にそんな誹謗を気にしている訳ではない。少し、思い出しただけだ。
 だったら戸倉のその決意を覆せば良い。



    2



 三上から逃げるようにして駆け出した戸倉は、つい数分前に期待に満ちた輝きをその目に宿していた三番目の手を引き逃げ出そうと一生懸命走ってき道を逆に辿っていた。何だか妙に息が切れる。全力疾走しているとはいえ、それだけで息が切れるのを少しおかしいと思いながら走っていた。そうして思考を他に向けることで、考えるべきことから一旦逃避していると気付いてはいたけれど。
 そうして台所の地下通路を駆け抜け、行き止まりとなった場所からまた下に真っ黒な口が開いている場所に辿りつく。走ってきた勢いのまま、戸倉は開けたままだった洞窟への入り口から飛び降りる。
「……!」
「おかえりなさい」
 そこには一番目と二番目が待っていた。
 何を言っていいのか分からず戸倉は荒い息のまま立ち尽くす。皆が可愛がっていたあの三番目が死んだと、戸倉が三番目を殺してしまったのだと伝えなくては。
「あの子を殺したわね」
「かわいそうなことを」
 口を開けない戸倉の代わりに口を開き、だから外へ出てはいけないと言ったのに、と言う二人は、やはり知っていたのだ。知っていて制止してくれたのに、その言いつけを破った所為で三番目は死んでしまった。戸倉が、殺した。今こうして二人に責められることを、戸倉は何故だか救いのように感じる。悪いことをしたのだから、責められて当然なのだ。誰にも責められないでいると罪は戸倉の中で沸々と煮詰まり、爛れ膿んで戸倉を殺すだろう。だからこうして罪であることを皆で認識することで現実として受け止められるのだ。
「ごめん」
 謝ることで罪が償えるはずも無いけれど、謝り続けることはそれとは別に必要なのだと思うから、戸倉はそうして頭を下げた。
「でも、あなただけでも無事でよかった」
「本当に、あなたが無事でよかった」
「よく帰ってきてくれたわね」
「さあ、疲れたでしょう。食事にしましょうか」
 優しい言葉をかけてくれるふたりは、それぞれ頭を下げたまま動かない戸倉の頭を撫で、背をそっと押すようにして歩き出すことを促される。
 食事と言う気分ではなかったのだけれど、それこそ二人が折角戸倉のためにと用意してくれているものを断ることこそ悪いことのような気がする。そうして二人に言われるがまま、戸倉は普段食卓として利用している洞窟内のひとつの穴に連れ込まれる。
「あのさ、三番目は」
 外に出ては駄目だということは自ら体験することで身に沁みてよく分かったけれど、それ以外のことを戸倉は何も知らないのだ。どうして外に出たら死んでしまうのか。どうしてあんなふうに枯れ朽ち果て遺骨も残らない状態になってしまったのか。三番目はどこへ行ってしまったのか。何もかも知っているだろうと二人に聞くと、顔を見合わせた二人は楽しそうに笑い出した。
 三番目を失った直後だというのに、どうしてそんな風に、何も知らない子どものように純粋に笑えるのか、戸倉は不思議と言うよりもただぞっとするばかりだった。
「何を言うの? おかしな子。三番目は、あなたでしょう?」
「そうよ、私たちの可愛い、三番目の弟」
 何を言っているのだろう、最初はそう思った。しかしあれこれ話しかけて戸倉はやっとで二人のことを理解する。
 さっきまでは三番目の女を殺したと責めていたのに、今はもう二人の仲ではすっかりその存在が無かったことになっているのだ。そして三番目が無かったことになったから三番目が無いのに四番目があることは矛盾していると二人の思考は処理したのだろう。順番は繰り上がり、四番目だった戸倉が今では三番目なのだ。
 しかし女たちが忘れても三番目を戸倉が殺したという事実は変わらない。辛いことだけれど、戸倉は決してそのことを忘れたいと思わなかった。
「ああ、あなたに見せてないものがあったわね」
「ちょうどいい機会かもね」
 そうして二人に手を引かれ、導かれたのは花畑の更に奥にある、言われなければ気付かない低い位置にあるくぼみだった。殆ど這うようにして中に入り、持って入っていた明かりに火をつけると、そこには折り重なるようにして山になった白骨があった。
 一体何人分の骨なのか。
 そして一番前にある白骨に、その白骨が纏っていた着物に、戸倉は見覚えがあるのだった。
「三番目の……」
 あのとき、外で灰になったと思っていた三番目は、ここに本当の死体があったのだ。どういうことだろう。



 疲れたから先に休むと女たちが部屋に引き上げていったあとも暫くは白骨の山で呆然としていた戸倉は、しかしいつまでもこうしていては仕方ないと隧道を抜け出し、花畑に立ってから深く呼吸をした。暗闇で咲く花畑の花たちが強く香り、疲れた脳を癒してくれるようだと思う。ここで嬉しそうに花を編んでいた三番目を思い出し、せめて花でも手向けようとしゃがみこんだ戸倉は、不意にそこで動けなくなっていた。
 この花はやはりどこかおかしい。暗闇に咲くだけではない、そういえばいつ見てもこの花は咲いていた。光が無いということは時間も無いということなのだろうか。しかし近くで見つめ、触れてみても普通の美しい花で、どこにも不思議はないように見える。そして何故か、若々しく美しい外見をしながら長い時間この闇の中に囚われたせいで精神が徐々に歪み、その内面にどろりと澱んだものを抱えるしかなかった一番目と二番目を連想した。
 そういえば生贄はそんなにたびたびあったのだろうか。思えば三番目も二番目も、一番目でさえ年齢に違いが無い。幸太が祭りの説明をしてくれていたときに具体的な話は聞かなかったけれど、確か、幸太に前回の記憶が無いくらいの間隔ではなかったのか。
 だとすれば、計算が合わないのではないかと疑問を持ったところで、不意に背中に人の気配を感じた。
 それも、とても良く知る人物の。



「戸倉」



 振り返るとそこに三上が立っていた。物珍しそうにあちこち観察して、それから徐に戸倉の方に近寄ってくる。帰れと言ったのだから、怒って帰ってしまったと思っていた。まさかこんな場所まで追いかけてきたなんて。
「全く、本当に、馬鹿だ」
 そうだ、三上は確かに怒っているのだ。その怒りをぶつけるために追いかけてきたのだ。いかにも三上らしいと戸倉はふいに笑いが込み上げてきた。三番目がなくなってから、暫くは笑うことなんて出来ないだろうと思っていたのに、まったく現金なものだと我ながら呆れる。
 それなのに、ふわりと抱き締めてくれたのはとても優しい腕だった。三上の匂いに包まれる。それにこんなにもあたたかい。
「聞けるわけないでしょ。君を残して」
 耳に触れるその声に、身体から力が抜け落ちていく。こんなのは卑怯だと思った。怒るにしても冷たく詰るにしても、そうしてくれれば戸倉だって強くいられるのに。ぬくもりに触れ優しさに包まれたら強くありたい気持ちが溶けてしまう。それでは駄目だ、と戸倉は気力を振り絞って三上から離れた。
「三上、俺は、ここで犯した罪を償う。どこへも、行けない」
「納得できない。何があっても僕は君を連れて帰る」
 しかし三上も譲らない。確かに三上には譲る理由も無いだろう。そう思った戸倉は、いや、理由ならあるとすぐにそれを否定した。戸倉のことなんてどうでも良いのだと、そう三上が納得さえすれば、あっさり譲って帰ってしまっていいはずなのだ。そう考えていると、暫く動かずにいた三上が顔を上げ、まっすぐ戸倉を見つめて口を開いた。
「そもそも君の言う罪って何のこと?」
「……っ」
 改めて三番目のことを説明するのは辛い。しかし確かにそれを説明せずに三上を納得させることは出来ないだろう。裏を返せばそれを上手く説明できれば三上を説得できるかもしれない。
「俺が、殺した、女だ」
「……君が、人を殺した?」
 言えた、とほっとしながらどう思っているだろうかと三上を窺えば、じっと考えるように眉を顰めながら確認してきた。
「うん」
 しかし三上はすぐに溜息を零し、顎を上げて些か呆れたように、そして諭すように戸倉を見下ろす。
「そもそも君はその女を殺したくて殺したの?」
「……いや、俺が無知だったせいで、彼女は……」
 言い返しながらも三上の目を見返せない。言われなくても自分が甘いのは良く知っていた。そんな戸倉にますます呆れたのか、三上は尚も追求してくる。
「ますます、君は、馬鹿だ」
「……っ」
「こんなところに閉じこもるのが君の言う償い? 違うでしょ。本当に償いたいなら、すべてを白日の下に晒すべきだ。判断はそれからだよ」
 だから行くよ、と腕を掴んだ三上に強く引かれ、戸倉は為す術も無く引きずっていかれる。



「鬼がいる」
「鬼を退治しなくては」
 進む狭い洞窟内の通路に不意に声が木霊した。疲れたから部屋で休むと言っていた一番目と二番目の声だ。どきりとした戸倉が振り返ると、いつのまにかすぐ後ろに二人が立っていて、もの凄い形相で三上を睨んでいた。
「三上っ」
 得体の知れない恐怖に戸倉がその名を呼んでも、女たちが鬼だ危険だと非難の声をあげても三上は振り返ろうとしなかった。ただただ戸倉を掴んで歩き続ける三上を引き止められないと知ると、二人の女は戸倉の腕に、腰に、必死に両腕を回して今度は力ずくででも引きとめようとするのだった。しかし二人の女の力はか弱い。何故か足腰に力の入らない戸倉の力と合わせても、その意志同様に強く引く三上の力にはまるで敵わない。
「駄目だ、離せ!」
 気付けば目の前に洞窟の出口が見えていた。こんな押し問答のようなことをしているうちに、このまま外へ出てしまえば、また三番目と同じようにこの女たちは死んでしまう。そう思って必死に訴えるのに、当の女たちはすっかり頭に血が上っているのか幾ら駄目だと言っても戸倉から離れようとしないし、止まれと言っても三上も引く力を弱めてくれない。先ほど三番目を殺したとは話したけれど、それがどうして亡くなったのか三上に説明していない。だからこのまま外に出てしまえば戸倉にくっついている女たちが亡くなってしまうなんて思いもしないことだろう。
「三上、この女たち、外に出たら駄目なんだ」
「女なんていない。僕と君だけだよ」
 説明しようとする戸倉の言葉を遮り、振り返って確かめることすらしない三上は、まさかすべて分かってやっているのか。女たちが外に出れば危険だと分かっていて、何も見えないふりをして外に出てしまうつもりなのか。
「やめてくれ、三上! この人たち、本当に死んでしまうんだ。俺はもう、そんなの、見たくない」
 そうして訴えると、やっとで足を止め振り返った三上は、何か変なものを見るような妙な顰め面でまじまじと戸倉を見つめるのだった。
「女なんて、どこにいるというの?」
 だってここに、と振り返ることで示せば、やはりまだ女たちは必死に戸倉にしがみついていた。しかし、しがみつくのは戸倉を外に出すまいと必死だった今までとは違う。それに気付いて戸倉は口から言葉にならない声が漏れ出す。
 遅かった。
 女たちが戸倉にしがみついていたのは、逃がさないためでなく、ただ苦しみによりその手に力が篭っているだけなのだ。それはどれほどの苦しみなのか、カッと目を見開き口からは唾液が垂れている。そこから漏れる言葉は呪詛のようだった。
 見ている戸倉さえその苦しみを思って胸が痛い。頭に女の苦悶に満ちた醜い表情としわがれた呪詛がこびりついて気が触れそうだと思った。痣になるくらい強く戸倉を掴む手は若々しい女性のきめ細かな皮膚だったのに、徐々に萎れ干からびていくのは三番目のときと同じだった。まるで一気に百年も年を取ったみたいだった。やっぱり呪いから逃れられないのかと戸倉は恐怖に硬直したまま。
「ねえ戸倉。本当に、どうしたの?」
 どうしてそんな顔をするの、と困惑したようなその声にはっと顔を上げると、三上は心底怪訝そうに、また心配そうに戸倉を見つめていた。だって女たちが死んでいくのに、どうしたも何もないだろうと訴えると、三上は更に眉間に皺を寄せる。その、怪訝そうな様子に、戸倉はまさかと小さく問いかける。
「三上は、見えない、のか?」
「だから、何が?」
「女が、俺を、掴んでる」
 既に枯れ木のようになってはいても、まだその手はしっかりと戸倉を捕らえて離さないのだった。それこそ戸倉に呪いをかけるように。先ほどの呪詛は或いは戸倉に次はお前だと訴えるものではなかったのか。
「……そんなもの、無いよ」
 先ほどまでは同じことを訴えてもまるで顧みることもなかった三上は、しかし今度ははっきり戸倉と、戸倉の示す背後を見つめながらそれを否定したのだった。
「……だってここに」
「ここには、僕と、君だけだ」
 そう三上が断言した瞬間、戸倉に呪いをかけようというように掴み苦しみ悶絶していた女たちが目の前から消える。それは三番目が砂と化した様子とはまるで違っていた。今度は霧が晴れるみたいに。光が差し夢から現実に戻ったみたいに。
「どういう、ことだ……?」
 亡くなったのではないのか、どこに消えてしまったのかと呆然としつつ身体から力が抜ける戸倉を、三上が支えてくれる。かけられる言葉はほんの少しだけ優しかった。
「そう、君には何かが見えていたんだね」
 そう言うからには三上には本当に女たちは見えていなかったのだろう。本当にあれは夢だったのか。
「……頼む、三上、もう一度、戻ってみてくれ」
 確かめたいことがあった。確かめないまま、見たものが夢だったのか現実だったのかと不安や罪の意識に囚われたままではどこにも行けないのだ。今までの出来事がすべて夢だったなんてすぐには信じられない。
「分かった」
 懇願する戸倉の神妙な様子に、結局三上の方が折れてくれた。そして三度戻った地下の花畑に、あれほど美しく、また異様に咲いていた花の姿は無く、その奥まった場所にあった夥しい死体だけが現実だった。それはいずれも年を経た白骨死体だ。手前に三番目が着ていた着物を着た白骨があるのも前に見たのと同じだったけれど、その三番目のすぐ傍に二番目と一番目が来ていた着物と同じものがある。こんなに分かりやすく傍にあるのに前に来たときはまるで気付かなかったなんて、どう考えてもおかしかった。しかし、聞けば三上が先ほど戸倉を迎えに来たとき、戸倉には見えていた花畑の花が三上にはまるで見えていなかったのだという。そうだとすれば、やはり着物だって最初から三番目の分だけでなく他の二人分もあったのだろう。あったのに、見えていなかっただけなのだ。
 そもそも地下にいたのが若い女性ばかりと言うのが落ち着いて考えてみればおかしい。幸太が祭りの説明をしてくれたときに、生贄のある年は数年に一度であり、幸太は今までそうした祭りを経験したことがないと言っていた。少なくとも十年以上は空いているのだろう。そして今年が生贄の年だというのなら、地下に入れられる年齢が十台だと考えたとしても、中にいる女性はそれなりの年齢の女性だったはず。つい最近、と言っていた三番目でさえ、十年は経っていたのだ。
 そもそも地下で火は使えない。料理も出来なかったはずだ。飲み水があるのみの地下に入れられて程なくして女性たちは餓死したのだろう。それが三上の推測だった。しかし或いは食料はあったのかもしれない。少しは生きられるほどの。桐谷との幸せな時間を残せるだけの時間が。だからこそ、あれだけ桐谷に執着したのではいかと戸倉はこっそり思っていた。
 そして地下に入ってから振舞われた食事を採っていたと思っていた戸倉も、実際は水以外口にしていなかった。だから妙に身体に力が入らないのだ。
「たとえ女性が本物だったとしても、嫌がる君を無理矢理連れ出したのは僕だ。その子たちがその所為で亡くなったというのなら、責任は君にあるんじゃない。僕にあるはずだろう」
「……」
 本当にそうだろうか。三上はただ、戸倉の責任を引き受けようとして言っているだけなのではないかと思ってしまう。だって三上は知らずに戸倉を連れ出したのだ。責任があるなら知っていた戸倉ではないのか、そう思って、それが三番目のときに知らなかった自身にも当て嵌まるのかと思うともう何も考えられなかった。罪があるというのなら、戸倉と三上は、同じ罪を負うことになったということ。
「とにかくここを出て、警察に通報して、僕たちの家に帰ろう」
「……そうだな」
 少なくともあの白骨だけは本物なのだ。そうする必要はあるだろう。そうして警察に裁かれたこの村がどうなるか心配ではあったけれど、それはもう心配しても仕方の無いことだった。



「幸太?」
 屋敷から外へ出ると、門のところで幸太が待っていた。まるで三上と戸倉が地下に確かめに入った時間なんてなかったみたいに、先ほどとまるで変わらない位置に、同じように立っているのだ。戸倉もあのときは一番目と二番目が苦しんでいて動揺していたのではっきりとは覚えていないけれど、何だか少し怖いと思った。
 それにどこか幸太の顔が強張っている。何かあったのだろうかと次に戸倉は心配になってきた。隣にいたはずの桐谷の姿も見えない。
「なあ、どうしたんだよ」
「兄ちゃん……」
 駆け寄って屈みこむと、強張った表情のまま幸太は微笑む。少し奇妙な笑みに言葉を掛けられずにいると、不意に何か決意をしたように硬く口を結んだ幸太は視線を遠くに向け、そして戸倉を残して走り出した。
「……っ、幸太、お前!」
 屈んだままだった戸倉は自分の脇を過ぎる幸太が手にしているものが目に焼きつくほどはっきりと見えていた。鈍い輝きを持つ幅広の刃。恐らくは肉を切るための包丁だ。幸太が走る先、決意に満ちたその眼差しが向けられているのは、そして隠し持っていた包丁を両手に掴みなおしてその切っ先を向けられたのは、戸倉に付かず離れず付いてきていた三上だった。
 狙いは三上なのか。どうして。
 その一瞬で戸倉は様々なことを考えた。そして、考えるよりも先に身体は動いていた。屈みこんだまま片足を軸に身体を翻し、膝をついて伸ばした腕で走り去ろうとしていた幸太を捕らえる。絡めとるように巻き込んで強く腕の中に抱き締めた。
「……っど、してっ、兄ちゃん!」
「良かった、幸太」
 本当に良かった、止めることが出来たと安堵の息を吐いた瞬間、焼けるような激しい痛みが戸倉を襲った。その動きを止めるために、突き出されていた包丁の刃を已む無く自らの腹で受け止めた所為だろう。
「何でだよ! 嘘だろ? どうして兄ちゃんが」
「幸、太、ちょっ」
 腕の中で動揺したまま暴れられてさすがに戸倉も堪らなかった。痛みに支配された身体からみるみる力が抜け落ちていく。足元に流れ落ちる血の量が、どれだけの傷の深さなのかを思い知らせてくれる。子どもだからそんなに力は無いだろうと油断した結果だ。すぐに幸太は大人しくなる。暴れたら戸倉が傷つくだけだと理解したのだろう。
「そんなにあの人が、鬼が、大事なの?」
「……三上は、鬼じゃない」
 もう声を出すのも辛かった。それだけ伝えて戸倉はゆっくり瞳を閉じる。もう誰が傷つくのも見たくなかった。だから、本当に良かったと思って微笑むと、不意に背中にあたたかなものを感じて閉じていた瞳を開いた。
「今に始まったことじゃないけど、……君の馬鹿さ加減には、本当に呆れるよね」
 背中から抱き寄せるようにして幸太を掴む強張った戸倉の腕を離させ、そこから幸太が抜け出すのを確認した三上は地面に戸倉を横たわらせてくれた。
「彼はね、僕を庇ったんじゃない。君を庇ったんだよ」
「……え?」
 感情の篭らない冷たい三上の声音に、戸倉の血に塗れた両手にじっと視線を落としていた幸太が自分に話しかけられているのだと気付いて顔を上げる。
「君、どれだけ自分が無謀なことしたか自覚無いでしょ。そんな簡単な攻撃、僕には無意味だ。そして僕は僕を狙う人間を許さない。君の刃が届く前に僕は君を殺していた。彼は、それが分かっていて、だから君を守ろうとしたんだろう」
「……佐久兄ちゃん」
 誰も傷つくのを見たくなかった。そしてこの場合は確かに、傷つくなら幸太だろうと考えた。だって三上が傷つくはずがない。それは正しく幸太を守るためだっただろう。
「この子はね、弱いけれど喧嘩には慣れていてね。だから君の無謀さが見えてしまうし、こうして間に入ってしまう。もっと強ければ自分も傷つかなかったし、もっと弱ければ間には入れなかった。ねえ君、そんな中途半端だから傷つくんだよ」
「弱いは余計だろ。っつか、てめえが容赦なさすぎだから……、いや、まあ、お前の立場ならそれが正しいんだろうし、何よりそれでこそ三上なんだろうけど」
「それ、褒め言葉として受け取っていいのかな」
 嬉しいよ、と相変わらず冷たい声音で言うのだから、本当に喜んでいるのか不思議なのだけれど、確かに三上を見れば僅かに微笑んで見えた。戸倉もつられて笑い返す。
「どこをどう聞いてもどこも褒めてねえだろ馬鹿」
「僕には褒められてるも同然だよ。馬鹿は余計だけどね」
 そうやって三上と話していると気が楽だった。まるで怪我なんて無く、いつもと同じように部屋で軽口を叩き合っているような楽しい心地が今の戸倉を支配していた。
 しかし仰向けに地面に横たわり、見上げる未明の群青色に染まった空を背景に、三上はずっと戸倉から視線を外さない。少し深いとは言え、命に別状があるほどではないはずなのに、そうして気遣われるとそんなに酷い怪我なのかと思ってしまう。
「なあ、何でだよ、幸太」
 僅かに訪れた沈黙に、戸倉は静かに言葉を向ける。少し離れた場所で泣きながら戸倉を見つめている幸太に、荒い息を出来る限り整えた静かな口調でありながら、間違ったことをした子どもをしつけるための強さを失わない瞳で幸太を睨んで問いかけた。
「幸太」
「……ホヅヌ様に、言われたんだ」
 強く名前を呼ぶと、言い訳するみたいで嫌なのか、とても言い難そうに、しかし黙っていることの方が悪いことだと判断したのか話してくれた。



 それは三上と山の宮へ行き、そこで合流した桐谷と山を下る間、前を行く三上に気づかれないよう小さく桐谷と会話する中でのことだった。
「幸太君、優しくしてくれるからって、全部が全部、良い人じゃないんだよ」
 もうすぐ戸倉に会えるとそればかり考えていた幸太は、はじめそれは何のことを言われているのか分からなかったという。
「え?」
「確かに佐久君は優しくて良い人だった。でも、その人は違うよ。村人たちがどれだけ傷付けられたか、幸太君は知らないんだよね。あれはとても暴力的な人だ。そんな人が佐久を迎えに来たって、そんなの嘘じゃないかな。そうじゃなきゃ佐久君は付け狙われているんだよ。ねえ、考えても見てご覧。佐久君はだからこの村に逃げてきたんじゃないの? このままみんなで佐久を見つけたら、きっとこの人は連れて行ってしまうんだよ? 簡単に佐久を傷付けるような人間に、連れて行かれて良いと思う?」
 それまで幸太が三上に対して抱いていたのは、いつでも落ち着いていて冷静に行動する人間だという印象だった。しかし村人が鬼が来たと騒いでいたとき、村の雰囲気は確かに異様だった。傷付けられた人がいたのだ。一見、落ち着いて見えるからこそ、そうして村人たちを傷付けたということに恐怖を覚えた。
 何より桐谷こそが今までずっと信じてきた神、ホヅヌ様なのだ。信じて従っていれば、ずっと戸倉と一緒に過ごすことが出来ると説得されて、幸太はすっかりそれを信じた。



「桐谷が……?」
 ぼんやりとしか働かない思考の中で戸倉は必死に考える。どうして桐谷がそんな話を幸太にしたのかまるでその意図が分からなかった。村人を三上が傷付けたというのは本当のことかもしれないけれど、だからと言ってそんなことを幸太のような子どもに吹聴するような人間とは思えないのだ。
「なるほどね」
 しかし納得できない戸倉と違い、隣で深い溜息を零す三上は然もありなんという様子で納得している。或いは戸倉の知らない確執が二人の間にあって、そういう極端に嫌いあうところまで辿りついたのかもしれない。
「それより、ここに医者はいないの? とりあえず傷口塞いでくれたら、あとは帰って治療するんだけど」
「大森の、先生、いる! 案内する!」
 確かに異端を嫌うこの村で、信用できない医者に診られるのは嫌だったけれど、とにかく血を止めないと拙い。逆にそれさえ止めることが出来るのなら、それだけで十分なのだった。これくらいの痛みなら我慢できる。傷もそのうち塞がれば良い。










2010/2/10  雲依とおこ







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