まぼろしのくに
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    3



 三上が戸倉を抱えてその医者の下へ向かおうとすると、門を出たところで村の異変に気付いた。それは本当に異様な光景だった。未明の空はそろそろ明けようかと濃紺から濃い赤紫へと恐ろしいまでに鮮やかなグラデーションを成し、光の届かない村の中央を走る道を埋め尽くすほどの人がそこに集まっていた。集まっているという表現も語弊がある。この狭い集落のどこにそれだけ人がいたのかと驚くほどの人間は道を埋め尽くし、そして一様にこちらに向かって歩いていたのだ。手にはそれぞれ何かを持っている。斧に鉈、銛などのそれらは生活の道具でありながら凶器にもなりうるものだ。
「鬼を、退治せねば」
「鬼が現れた所為でこの村は滅んでしまう」
 村人たちはどうやら戸倉と三上がこの村に来た所為で村が滅ぶと思っているらしい。そんなわけがない、と思うけれど、村人たちはそんな御伽噺を真実だと信じて疑っていない様子だった。どうやら村長がおかしくなったこと、その原因が神役であるホヅヌにあり、その元凶が戸倉にあることまで伝わっているらしい。今まで守り抜いてきた村の風習がすべてが壊れたと、壊されたと、そう思っているのだ。災厄が襲い来ると信じ、どこにも逃げ場のないその恐怖と怒りをぶつけるために集まっているのだ。
「違うよ、兄ちゃんたちは、僕を助けてくれたんだ」
 先ほど自分が戸倉を傷付けてしまったことの後悔と、その責任感からか、真っ先に村人の前に立ち塞がった幸太が必死になってそう説得をはじめた。確かに余所者である三上や戸倉が説得するよりも同じ村人である幸太が説得した方が効果を期待できるだろう。しかし、それくらいで納得するような村人ではなかった。
「騙されるでない、幸太。おお、お前、そっちの鬼をやったのか。えらいじゃないか。お前はもう、立派な村の人間だ」
 苛立った三上は向かい来る村人相手に応戦をはじめる。力で道を切り開いた方が説得して同じものを得るよりもずっと早い。理解を得て人を従えるより力と恐怖で同じものを得る方が早いのと同じだ。しかしまた、それだけでは駄目だと言うことも良く知っていたし、力で得たあとに理解と忠誠を得るだけのものも持っているからこそ選べる道だった。
 気にしていた戸倉は、流血が激しくなるのも構わず戸倉自身が村人を避けるのと、併せて殆ど同じか少し小さい体格ながら幸太が支え、庇ってくれていた。長引かせなければ大丈夫だと判断した三上はとにかく目に見えるすべてを破壊していく。
 そうして破壊に身を置く中で、思考は別の場所を漂っていた。先ほど幸太を庇って自ら怪我をしたあとで戸倉が見せた笑みが三上の心を乱している。周りの人間が傷つくくらいなら自分が傷ついた方が余程いい。あれはそうした戸倉の心根が見せる笑みだっただろう。女たちが死ぬと幻影に恐怖していたときの様子も同じものを根にしたものと思えた。そして今もそうだ。怪我を負って本来よりも動き難いとはいえ、村人から命を狙われながら、その相手を出来るだけ傷つけないで避けようとしているのが分かる。
 自身の弱さと今一度向き合うためにこの村に来たはずの戸倉は、ここで結局何を得たというのだろうか。傷つけることすら恐れるなんて、より脆くなったようにしか三上の目には映らない。
 考えながら何気なしに振り向いた三上は、そこで一切の思考が停止した。時間さえ止まって見える。
 いつのまにか少し離れすぎた場所で、こちらを向いて立ったままの戸倉の胸から濡れた切先が見えていた。背中から何かが刺さり、胸から刃先が出るまで深く身体を貫いたのだ。しかし周囲五メートルの範囲内に幸太以外の人間はいない。しかし三上はそれを幸太がやったのだとは思わなかった。恐らく遠くより闇雲に放られた鉈が図らずも命中したのだろう。
「戸倉!」
 思わず叫んだ声が聞えたのか、呆然と見開かれたまま宙に漂っていた戸倉の視線が迷った末に三上に向けられる。答えようと開かれたその口から大量の血が吐き出されるのを、そうしてから不思議そうに自身の身体を見下ろしている戸倉の緩慢な様子を、三上はやけにゆっくりだと感じながら見つめていた。そうして三上の意識が完全に戸倉に向いているのを好機と捉えた村人が一斉に襲い掛かってくるのを倒している隙に、深手を負った戸倉に他の村人がそれこそ反撃を受けずに殺せると襲い掛かっている。駆け出した三上が辿りつくまでに、屍骸に群がる蟻のように村人たちは戸倉に群がり見えないほどに埋め尽くしていた。やっとで到達した三上がその村人たちを薙ぎ払って退ける。
 そこには身体の至るところに、また幾度も鉈が振るわれたのか、全身が血塗れで傷と言うより肉が抉れていて、銛は刺さったままの戸倉の無残な姿があった。また所々は鈍器によって潰され、見るも耐えない姿になっていた。
「……っ」
 それでも戸倉はまだ息がある。しかしそれも苦しみが長引いているというだけで決して良い状態ではない。息は長くは続かないだろう。信じられない思いでそれを見つめた三上は、悲しみも痛みもすべて憤りに変えて村人を振り返る。呆然として動かなくなってしまった三上さえその手にかけようとしていた村人たちが、その恐怖に身を竦めるほどの迫力だった。
「許さないよ、あなたたち。死よりも酷い恐怖と痛みを味あわせてあげる」
 切り刻まれ無残なまでにずたずたにされてしまったのはその身体だけではない。命を狙われてなお、傷つけまいと必死だった戸倉の心だってそれを理解しないで傷つけることに喜びすら見出した村人たちによって踏みにじられ、傷付けられたのだ。



「本当に、救い難い愚かさですね」



 怒りに支配され、まるで冷静さを失ったまま襲い掛かってくる村人を倒していた三上はその声に我に帰る。その声は桐谷だった。振り返ってみると、そういえばいつのまにか姿が見えなくなっていた桐谷が未だ息も絶え絶えの戸倉の脇に立っている。
「僕の言ったとおりだったでしょう。外面ばかり美しく装いながら、その裏では人を妬み蔑み、都合が悪くなると全部他人に責任を押し付け、さも自分たちは正しいことをしていると嘯き正当化したうえで他人を傷付けるのです。昔から何も変わらない。佐久君。では、君の答えを聞きましょう」
 何を言っているのだろうと三上は思った。言っている意味は何となく分かる。しかしこんなときにそんなどこにでもありそうな話をしたって意味が無いだろう。それに戸倉に問いかけ立って答えられる状態でないことくらい分かるのだろうに。
 しかし何かの予感に三上が目を離さずに見ていると、桐谷が差し伸べた手の先で、今にも息の絶えそうだった戸倉がゆっくり立ち上がったのだ。頭から流れた血が目に入るのか、顔を顰めながら口元に大量に付着していた血を拭っている。確かに戸倉は既に死に向かいつつあり、決して助かるような状態ではなかった。どういうことだろうと怪訝に思いながら、それでも安堵したことには変わりない。駆け寄る間にみるみるうちに見るも無残だったその傷が塞がっていくのを目の当たりにすれば尚更だ。ただし、ふらふらしている身体をそっと支える桐谷に、額から目元へ、頬まで撫でるようにして丁寧に血を拭われているというのに、まるで拒否感を示さずされるがままを受け入れている戸倉の姿が目に入ると、また違う意味での怒りの感情も沸き起こるのだけれど。
 あと少しで戸倉の許に辿り着ける、そう思ったところで、不意に三上は立っていられないほどの痛みに襲われた。改めて自身を見てもどこにも傷は無いというのに、まるで全身を切り刻まれ潰されているような痛みだ。とうとう膝をついてしまった三上が周囲を見渡せば、幸太をはじめ村人のすべてが同じように苦痛に苛まれているのか、苦悶に満ちた評定でそれぞれ喉を押さえ腹を抱えて呻いているのだった。徐々に明るさを期待させながら未だ明けない闇を纏う村の中央を貫く道の中で、恐らくは村人のすべてが集まっているその中で、立っているのは戸倉と桐谷のふたりだけだ。為されるがままの戸倉の身体に触れ、あちこち傷の状態を確かめるようにしていた桐谷が満足したように頷き、ぼろぼろになってしまった服の上から夜の藍を映したような麻の長着を掛けて整え、帯を占めている。そうして勝手に着付けされる間も戸倉はぼんやりしたまま動かないのだ。少しも抵抗しない様子はまるで安心しているみたいで三上は見ているだけで不快だった。傷は治って見えるのに、まだどこかおかしいのかもしれない。
 そして自身の痛み、周囲の村人を襲う痛みの原因を、朧ながら三上は理解していた。これは恐らく戸倉が先ほど負った傷を治すために、抱えていた痛みを転嫁された結果ではないか。そんな現実離れしたこと、と思いながら、そうなら良いとも三上は思っていた。すなわちこれは戸倉の傷み。他の誰かの意思というのは癪に障るけれど、代わりに自分が負えるならそれで満足だった。



    4



「……お前、全部、分かって……」
 君の答えを聞きましょう、そう桐谷に言われて戸倉は思い出していた。祭り初日の朝に、桐谷は祭りに付き合うなら戸倉の求めるものを与えると言ったのだ。しかしあのとき、戸倉は決して頷きはしなかったはず。村人の愚かさを嘆き、いっそ全部壊してしまった方が良いと心底思っているらしい桐谷は、それを否定した戸倉に、では試してみましょうと言い出したのだ。それから村で起こった様々な出来事は、戸倉が体感したとおり。しかし桐谷が村で起こったすべてを事前に分かっていたというのなら、あれこれ回避できたかもしれない事態だってあったはず。
 問いともつかない呟きをそっと微笑んで曖昧に濁した桐谷が、ついと周囲を見渡すのにつられて戸倉も視線を向けると、薄暗い村の中、大人しいと思っていた村人はすべて地に伏していて、それぞれ違う箇所を押さえ苦悶していた。まるで何かの図録で見た地獄絵図のようだった。
「君が受けた痛みを皆で分けてもらいました」
 なるほどどうりで戸倉の傷みが引いたはずだ、と傷口が塞がった身体を見下ろして小さく溜息を吐いた。どうやったかは知らないけれど、助けてくれたらしいことには感謝する。しかし、それを周囲に負担させるなんて、そんなこと戸倉は望んでいない。改めて視線を向けると三上さえその表情を曇らせており、幸太に至っては玉の汗を掻き胸をかきむしっている。恐らく三上は大丈夫だろうとそちらには向かわず、戸倉は自身を守ろうとすぐ近くにいて痛みを負ったらしい幸太の脇に膝をつき、苦痛に小さくなってしまった体勢を楽にしてやる。しかしどこにも傷は見えない。
「精神的に痛みを受けていると錯覚しているだけですよ。まあでも、精神的なものが肉体に影響を与える場合もありますから、一概に無事とも言い難いのですが」
「そんな……っ」
 ではどうすれば幸太は楽になるのか。目に見える傷ならば治療することも出来るのに、精神的なものなんて戸倉には手が出せない。小さな幸太が苦しんでいるというのに、それも戸倉の痛みを引き受けてこうなっているというのに、見ていることしか出来ないなんて辛かった。
「仕組んだというのなら確かに僕がすべて仕組みました。しかし、最初それは単なる予測でしかなかった。実際に考えて行動しているのは、村の皆も、佐久君も、それぞれがそれぞれの意思だったはず。そこまでは歪めていません」
 呻きもがく村人たちが地面を這うようにして視界のすべてを覆う恐ろしい状況の中で、桐谷はこれを自分がやったことと平然と答えるのだった。そこまで絶望は深いものだったのか。
 ここの村人を愚かと蔑む桐谷はその昔、恋人をこの村の人間に、村全体の意思として殺されたのだと言っていた。旅人だった桐谷とその恋人はこの村に逗留し、はじめはその知識の深さに桐谷を尊敬していた村人たちは次第にそのすべてを横取りしようとまず恋人を奪い抵抗できないようにしてから桐谷を嬲り殺し、そして用済みとなった恋人もその後利用するだけ利用してから殺された。
 だから桐谷はこの村を呪ったのだ。死んで尚死に切れない怒りを抱えて村に復讐しようとした。そして、それに気付いた村の神職を兼ねていた村長に、村全体の謝罪を毎年捧げるとその怒りを鎮められたのだ。それがこの祭りであり、そして恋人を亡くした桐谷を慰めるための数年に一度の生贄だったのだ。
 しかし桐谷にとってそんな謝罪は意味がなかった。何一つ心が動かなかった。祭りは次第に怒りを鎮めるための祈りというより村人たちが楽しむための記号に代わっていったし、数年に一度地下に放り込まれる女たちが飢えて死んでいくのを村人の愚かさだと改めて思い知るだけだった。
「ああ、だからですね、ひとつ良いことを教えてあげましょう。君が気にしている地下の彼女たち、あれはもともとずっとまえに亡くなっているものの残留思念です。幻影が無くなったということであなたがそこまで気にすることはありません」
「それはでも、そこまでして……っ」
「だって、許せないでしょう。佐久君、君だって僕の気持ちが分かるはずだ。大切な人を殺された、その怒りを、あなたも持っている」
 それは確かに戸倉のうちにある、母親を殺されたと知ったときから続く、恐らくは一生消えることの無い感情だ。
「だから、僕と行きませんか」
「……断る」
「どうして」
「確かに責任転嫁は良くないし、それで他人を傷付けるなんて以ての外だと思う。仕方なかったなんて言葉で片付けて良いことでもない。でも、だからと言ってこんな風に、罪を償う余地も与えずすべてを奪うのもどうかと思うぜ」
「機会なら与えました。あれから数百年。何も変わらなかったじゃないですか」
 世代が変わり、そこに住む人が変わっても、皆は漠然とした恐れを無いものとするために生贄を差し出すばかりで、そうすることでまた安堵してあとは好き放題だった。そのあり方は桐谷とその恋人を殺したときからなにひとつ変わっていなかった。
 まるで楽しい言葉を吐くように笑顔で告げる桐谷は、だからこそそこに刻まれた絶望の深さを思わせる。
「変わらないのは、変えようとしないからだよ。みんな、きっと知らないだけなんだ。それはそれで悪いことではあるけれど、でも、知ることさえ覚えればどうにかできることでもある。お前、今までずっと見てるだけで何も言わなかったんだろ。ついでに事情を知ってる村長も村人には黙っていた。伝える手段なんて幾らでもあったのに、それをせず、変わらないって断罪するのかよ」
「僕が悪いと、君はそう言うのですか」
 とても哀しそうな顔をして戸倉を見つめる桐谷に、やっとでその表情に傷が見えた。癒すべき対象を見つけ、戸倉はそっと微笑みかける。
「……なあ桐谷。お前、すごく辛いことがあって、それから長い間ずっとその悔しさや恨みに囚われてきたんだろ。周りが見えてないのはお前も同じだよ」
 考えながら話していたので上手く伝えられているか分からなかったけれど、それを聞いた桐谷は驚いたような顔をして黙り込み、そして暫く考えた末にふわりと笑って戸倉の手を掴んだ。
「だから君は興味深い」
 近くから見つめられるその眼差しの奥に、そこにある意思そのもののような強い光に、戸倉は吸い込まれるように囚われる。心の中ではそんなことより幸太を助けて欲しいと訴えたいのに言葉を吐き出すための口は薄く開いたまま吐息以外のものを吐き出せず、ぴたり合った視線は外せない。
「僕の傍にいて、これからも間違いを正し、どうか導いていってください」
 白々と色を変えていた空が薄く周囲を照らしはじめると、深い森の中についに遅い朝の光が差し込む。そうして光が差しても何も変わらない、ただ苦しみ地に蠢く人たちがより醜く照らし出されるだけだ。そんな中で、それを作り出した張本人である桐谷がまるで敬虔な信者のように無垢な心を明け渡そうとしてくれるのに、戸倉は何も答えられないままだった。
 放っておけない。ぐるぐる纏まらない心に浮かんだのはそんな言葉で、今まで弱くて何も出来ないとその道を探っていた戸倉は、こうして求められるなら、少しでも役に立つのなら、すべきことが残されているのなら、それを為すべきだろうと自然にそう思ったのだ。この村に残る問題は、深い傷の癒えない桐谷との確執は、すぐには改善できないだろう。また間違えてしまうかもしれない。そうならないために、しかし本当に戸倉に出来ることなんてあるのだろうか不思議ではあるけれど、求められるということは、何か出来ると信じられることだ。信じることで出来ることがある。何かを為そうというときに、信念なくしては何も生まれない。
「駄目だよ」
 まるで戸倉がどう答えるのか分かっているみたいに声が掛けられた。少し疲れた、でも決してその意志の強さを失わない三上の声だった。未だ苦しむ他の村人とは違い、痛みを克服したのか立ち上がった三上がこちらに向かって歩いてくるところだった。
「三上」
「せっかく助言してもらったんだから、ここから先の始末くらい自分でしなよ。これ以上この子を巻き込まないで」
 その強さ、揺ぎ無い姿勢に戸倉は改めて惹きこまれる。確かに三上なら自分のしたことの後始末を他人に委ねるようなことを良しとしないだろう。あえて今、それを他者に押し付けるのは、恐らく戸倉のためなのだ。
「……やっぱり君は面白くない。完成されすぎていて、味気も何もありはしない。折角、佐久君を手に入れられると思ったのに。惜しいことを」
 そう呟いて駄目なら仕方ないと冗談だったみたいに嘯く桐谷は、しかし少し楽しそうだった。それから面白いことを思いついたみたいににこりと笑みを浮かべる。
「では祭りに付き合ってくれたら君の望むものを、という約束を果たしましょう」
「……桐谷?」
「佐久君、君は、自分で気にしているように確かに未熟であり弱い。しかしそれは悪いことではありません。その弱さが重要で特別な視点となるのだし、それを克服しようとする気持ちこそ最も大切にすべきものです。彼のように完璧になってしまえば、そこから先に可能性なんて無い。常に未完成であることが、未知の可能性を、未知の未来を生み、飛躍の可能性を齎すのです」
 その言葉に、その瞬間、戸倉は確かに救われた。今のまま間違っていないと認められることは素直に嬉しい。未熟であること、弱いことは良いことではないけれど、それを知ることで克服できることがある。それは、先ほど戸倉が村の未来に関して言ったことと同じ理屈なのだ。だからとても理解しやすい。
 確かに伝えたと言い、握ったままだった戸倉の手の甲に唇を押し付けた桐谷は、傍でそれを見る機会を得られないのは残念ですけれど、と付け足した。そうした桐谷は唐突にその身体をのけぞらせる。先ほどまで桐谷の頭があった場所に鋭い蹴りの軌跡が見えた気がした。
「その手、離しなよ」
 未だ痛みに苛まれるのか、普段には無い苛立ちを見せた三上が次に繰り出すべく構えて桐谷を狙っている。
「おや、これくらいで。少しくらい大目に見てください。どうせ君がすぐに佐久君を連れ去ってしまうのでしょう」
「そういう屁理屈が一番嫌いだ」
 少しのことを口実に睨みあうのは、本当に仲が悪い証拠だろう。そうして睨みあう二人に付き合いきれないと戸倉は傍に倒れたままの幸太の様子を再び窺う。
「桐谷、んなことやってないで幸太を早く何とかしてくれ」
「……分かりました。君がそれで良いのなら」
 まるで見えない錘が消えたように、それまで地に這い苦しんでいた村人が穏やかに落ち着く。腕の中の幸太が意識を取り戻して戸倉に笑いかけるころには、すっかり皆は立ち上がり、毒気の抜かれたような、憑き物が落ちたような表情で桐谷の方を窺っているのだった。みんな無事だ。良かった、そう戸倉が安堵の息を吐くと、桐谷と同じくすべての元凶であった村長がその姿を現した。溜息を吐いて向き合う桐谷の背を、戸倉はそっと押してやる。
「行って来い」
「……はい」



    5



 そんな必要も無いというのに桐谷と村長の話し合いを見守り、方向性を見極めてやっとで安堵したらしい戸倉は、すっかり疲れ果てているようだった。数日何も口にしていなかった上に、今にも死ぬほどの怪我を負いそれを一瞬で癒され、たとえ傷は綺麗に消えたとしても戸倉の精神はそうした過度の負担にすっかり参っているようだった。
 熱を出して二日間、幸太の家を借りて寝込んだ戸倉を、幸太は甲斐甲斐しく介護してくれた。ただ戸倉の傍から離れず苦しむその顔を静かに眺めていただけの三上は、これからどうするべきか与えられた時間の中で考えていた。しかし自分が考えてもどうしようもない。判断は、すでに戸倉に委ねている。
「じゃあ、いろいろありがとな」
 熱もすっかり落ち着き、歩けるまでに回復した戸倉に、しかし幸太の顔は晴れなかった。じゃあ帰ると言うと、途端にその顔は曇って今にも泣き出しそうだ。
「……また、会える?」
「いつか、……そうだな、うん、また、きっと」
 そう言って頭を撫でられた幸太は、曇っていたその顔をくしゃりと歪めて笑った。変な泣き笑いだと脇で見ていた三上は思う。
「じゃあ桐谷、あとよろしくな」
「はい。安心して任せてください」
 何より三上が面白くないのはそうして戸倉が今後のこの村のことをすべて桐谷に預けたことだ。任された桐谷はとても幸せそうだ。戸倉が熱で伏せている間も、三上の牽制も嫌味も何も効かない様子で毎日枕元に訪れてはあれこれ戸倉に報告し、戸倉の体調を気遣い、他愛ない様々な話を残していた。
 そもそも村人も村長も幸太も、そして戸倉さえもが桐谷の存在をそのまま容認していることが三上には不思議で仕方ない。当人の話を信じるなら一度死にながら既に数百年は生きているということになる。見た目はごく普通の青年なのだ。しかし、先日の一件で戸倉の傷を治したことだけはこの目で見た疑いようのない事実なのだ。いずれこれは自分で突き止めよう、そう密かに心に決める三上の前で、今日も桐谷は戸倉と楽しそうに話しこんでは三上の苛立ちを煽るのだった。
「行くよ」
「ああ。じゃあみんな、元気で」



 晴れた青空が見えていたのに花畑を越え森に入ると周囲はすっかり薄暗く変わる。木々の隙間から零れ落ちる光が時折前を歩く戸倉を優しく撫でて過ぎるのを見つめながら、三上は帰るまでに確かめておかなければならないことがあると思っていた。
 それまで道に迷い彷徨っていた戸倉の意識は、すっかり道を定め力強く己の思うままに歩み始めようとしている。彷徨っていた戸倉に、ここに落ち着けば良いのにと密かに三上が用意した場所から完全に抜け出してしまっているのだ。
「それで、君はこれからどうしたいの?」
 仕方ない、そう思いながら三上は内心の寂しさを隠して問う。自分で考え、決して曲げない、そういう戸倉が好きなのだと思っていた三上に他に出来ることはない。そう溜息を吐いて答えを待つ三上に、笑う直前のような少しむずがゆそうな表情で戸倉が向き直る。
「……そうして、良いのなら、……今までどおり、三上の、傍に、居たい」
 たどたどしくも硬い意志を示すその言葉に三上は目を瞠る。一度は悩んで三上が用意した場所から抜け出した戸倉は、考えたうえで三上の許に戻り傍にいてくれるのだ。言うだけ言うとこちらを見ずに答え前を歩いて行こうとするその手を掴んで引き寄せ、腕の中に閉じ込めた。
「良いも何も、僕の望みはもうずっと変わってなんていない」
「三上」
 言葉よりも確かに感情を味わいたいという戸倉の趣向に合わせるように、三上はこの想いを伝えるために腕の中でじっと大人しくしている戸倉にわざと強引に口付けた。緩く開いた口腔に舌を入れて戸惑う戸倉を味わい、逃がさないように強く抱き締めたまま隙間を埋めるように更に深く唇を合わせると、戸惑ったままの舌を絡めて擽る。ぎゅっと瞑られた瞼が震えるのも、苦しそうに眉根が寄せられるのも、それなのに逃げようとせず必死に応えてくれようとしてくれるのも、縋る指の一本一本まで、全部が愛しいと思った。
 長く激しい口付けにすっかり戸倉の感情が飽和したことを確認すると、唇の端を流れ落ちる唾液を舐めとてからそっと身体を離した三上はその瞳を見つめて問いかける。
「離れている間に僕のこと考える瞬間はあった?」
 今の戸倉に考えすぎるほど深い思考はできない。
 だからこそその本音が見えるだろう。
 そして驚いたあとその瞳の中に現れる色に答えはあった。
 それは三上の求めたものと同じ。
 三上の抱えるものと、同じだった。



    6



「離れている間に僕のこと考える瞬間はあった?」
 考えてみれば離れていても三上の事ばかり考えていた。一緒に居ても、離れていても、結局何も変わらない。心はずっと三上に向いているのだ。これが何の感情なのか、戸倉は諦める思いでそれを理解していた。
「僕は、君を想わない日はなかった」
「!」
 なんて嬉しそうに三上はそれを告げるのだろう。
 そんなの間違っていると頭で否定しながら、しかし体中から沸き起こる感情すべてが頭で考えただけのそれを認めず、三上の言葉こそを肯定していた。だって日々の合間にふと戸倉がその脳に三上を思い浮かべるように、普段はまるでそんな素振りも見せない三上も同じように戸倉を思ってくれていたのだ。それは、とても、嬉しいことだった。とても幸せなことなのだと、戸倉は自身の隅々までに確かめてどこにも否定する声がないと答えを出した。
「三上」
 まるで何も掴むことの出来ない手で、躊躇いを振り切るように目の前の体を抱き締めてみる。そうすると、とても安堵することができた。抱き締めてもまるで拒否されないどころか、三上はとても安堵したように身体から力を抜き、戸倉の肩にその頭を預けてくれた。いつだって誰よりも強く、弱い部分なんて微塵も持っていないとみせている三上が、それを晒しても構わないというようにすべてを預けてくれているのだ。弱いと嘆く戸倉にも、こうして癒せるものがあるのだと知ることは嬉しい。
「迎えに来てくれて、ありがとう。きっと、お前が来てくれなかったら、帰れなかった」
「うん。僕は欲しいものを諦めたりしない主義だからね」
 それが戸倉を指しているのは明白だった。何と言葉を返していいか分からない戸倉はただ三上を抱き締めて頷いてみる。
「……そっか」
「そうだよ」
 そしてうっかり日が暮れるまで森の中で抱き合っていた。
 暗くなる前に帰ろうと走り出しながら、とても満ち足りた心地だった。










2010/2/9  雲依とおこ







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