まぼろしのくに
エピローグ




 窓から差す強い光の所為で蒸した熱の篭った午後の校舎を、全力疾走する戸倉の姿に、いつもの光景だと皆は見て見ないふりをする。その行き先を誰もが知っていて、そして巻き込まれたくないものとして忘れようと務めるのだった。それは実に健全な思考だった。
「てめー、また長野に迷惑を」
 激しい音を立てて扉を開き、涼やかな空気が満ちたその部屋に戸倉が入ると、扉近くに控えていたらしい河野がそっと扉を閉じて、外から恐れられることを良い意識の壁だと勘違いのままに利用し、実際はまるで別の空気を持つだろう密やかなこの空間を守るのだった。
「いらっしゃい。だって君、そうでもしなきゃ来ないでしょう」
 定位置である椅子に座って頬杖をついていた三上は、そう言って手にしていた筆を置き立ち上がる。
「……何だよそれ。別に家に帰れば会えるし、毎日会ってるし、学校でまで会う必要ねえだろ」
 確かに一緒に住んでいるのだからそれは当然のことだった。しかし、この当然のことを戸倉に当然のことと理解させ、そして臆面も無く口に出すくらいに浸透させるのに三上がどれだけ苦労したと思っているのか。
「何言ってるの、学校で会うのはまた別の楽しみだよ」
 戸倉の傍まで言ってから怪訝そうに見つめるその頬に手を添え、思っていたのとは別のことを、それはそれでまた真実である言葉をそっと伝えた。途端に戸倉は頬に熱をためながら、それを知られまいと必死になって顔を背ける。
「……何だよ、何笑ってんだよ不気味だな」
 流れる雰囲気に気付いたのか、必死に顔を背けながらちらりと視線だけで三上を窺った戸倉は、そうやって三上の表情を見咎め指摘してきた。
「別に笑ってないでしょ」
「いや、笑ってる」
 顔が赤くなってしまうことがひとり負けているみたいで悔しいのか、戸倉はそうして三上が笑っていると糾弾したがるのだった。別に笑っていると認めても良いのだけれど、むきになる戸倉が可愛くて、そのまま勝ち誇ったように見つめてくる戸倉を黙って見返した。そうすると戸倉はまた居心地が悪くなってくると分かって見つめていると、案の定、すぐに戸倉は落ち着きをなくす。
「……何だよ」
「いや、座って話をしようか」
 長く触れていると欲が出そうだ、と名残惜しくその頬を撫でたあと三上は触れていた手を離した。そんな三上の熱の篭った視線に気づきもしないで不思議そうにしながらソファに座る戸倉を欲のままに押し倒し、存分に熱の正体を思い知らせても良いのだけれど、今でさえ必死になって気配を消そうとしている河野がそんな光景に遭遇したらと思うと何だかかわいそうに思えたのでやめておくことにした。



「今度さ、幸太、こっちに出てくるんだ」
 それがとても良いことだというように喜んで報告する戸倉は、恐らく純粋に三上もそれを喜ぶと信じているのだろう。だから、溜息を吐く三上に不思議そうに首を傾げるのだ。だって戸倉は実際には幸太と連絡をとっているのではないのだ。その保護者となった桐谷と連絡をとっているのだから。
「君、まだあの男と連絡とってるの」
 まったく本当に未だに戸倉は三上が不機嫌になる理由を勘違いしているのだ。単に三上は桐谷と相性が悪く嫌いあっているだけだと思い込み、まさかそれが自分の所為だなんて思いもしない。
「まあ」
「……」
 うっかり答えた戸倉を無言で睨むと、慌てたように何が悪いのかと戸倉は考え、纏まらないままに話し出す。
「いやだって幸太のこと任せてるから。ほら。な。あ、お前も会うか?」
「……いらない」
「桐谷も悪いやつじゃないって。だから、その、たぶん、俺が欲しかったものくれるために、あんな大掛かりなことしただけで」
「僕は、あんなことするやつ認めないよ」
「仕方ないなあ。まあ、お前とは相性悪いって思ったけど」
 やはり勘違いしたままの見当違いの答えに、溜息を吐いて三上の苛立ちを逃がす。何も分かっていない戸倉に当たっても仕方ない。分かっていないということは、それだけ桐谷に対しては三上を想うような感情の欠片も無い証拠だと、そう思って気分を立て直すことにした。
「あの子、君のいい護衛になるんじゃない?」
「幸太が?」
「多分、役に立つと思うよ」
「……お前がそう認めるなら、そうかもしれないけど。……俺は、嫌だ。幸太は今までいろいろ大変な目にあってきたんだからさ、普通に学校に行って、友達作って、ただ楽しく生きて欲しい」
 それはきっと戸倉が生きることの無い道を、代わりに幸太に歩んで欲しいからだろう。そう理解しながら、あえて三上はそれを指摘しなかった。ゆるりと穏やかな空気が流れる応接室で、夢見る未来に思いを馳せる戸倉がその意志で三上の許へ帰ってくるのを待つ。それだけ今の関係は絶対だった。



「お茶をお持ちしました」
「あ、それ! この間雑誌に載ってたやつじゃねえか。すっげー食べてみたかったんだ」
「……それは、また、奇遇ですね。良かった」
 勿論それは偶然などではないだろう。以前この応接室で寛いでいた戸倉が、うらやましそうに雑誌を眺めていたのを見た河野がこっそり手に入れていたのだ。
「ありがとな、河野。確かこれ、人気があって買うには何時間も並ばなければならなかったはずだろ。お前、本当いいやつだなあ」
 すっかり感心し、尊敬した眼差しで河野を見つめる戸倉の様子に、三上はせっかく楽しそうな戸倉に気づかれないようにと怒気をなるべく押さえて河野を見遣る。
「ちょっと河野、そういう手柄は、こっそり主を立ててくれるんじゃないの」
「おや、そういった気遣いはお嫌いだと」
 確かにそうだ。これで三上が用意したのだと言って勝手に戸倉に渡されたのでは、実際は何もしていない分、余計に面白くなかっただろう。
「……本当、優秀すぎて憎らしいくらいだね」
「それにこれは戸倉さんのためにやっているわけではありません。戸倉さんが喜ぶことで委員長も喜ばれるのでしょう。だから、これは、委員長のためにしたことです」
「……詭弁を」
「何やってんだよ三上、早く座れ」
 一緒にいるならひとりで食べない。すっかり戸倉はそうした習慣を身に着けていた。自分の成果だと微笑んで三上は示された席に座った。中央のテーブルには問題の菓子が広げられ、応接室内にある食器棚から専用のカップを用意したらしい戸倉が、河野が淹れて来たコーヒーを注ぎ分けていた。それは、しかし三人分用意されていた。一瞬、困惑を共有した三上と河野は無言のまま視線を合わせる。
「河野も突っ立ってないで座れ」
 待ちきれないというように戸倉に催促されて、ようやく困惑していた二人は動くことが出来た。
「は? 私は」
「四の五の言うな。美味いんだからこれ」
 用意したのはお前だろ、という戸倉に、あくまで河野は辞そうと必死のようだった。
「ですが……、主と同じ食卓には」
「そういうの、俺、嫌い。どうしてもって言うならお前、今は三上の部下としているんじゃなく、俺の友人としているってことでいいだろ」
「……」
 どうしたら良いのか、判断を仰ぐように河野の視線は戸倉から三上へと移る。もうこうなったらどうしようもないだろうと三上が溜息を吐くのと同時に、また戸倉から鋭い声が届いた。
「早く座る!」
「はい」
「……君たち、すっかり仲良しなんだね」
 そうして三人でする休憩は、戸倉とふたりでするものの次に楽しい時間だった。そう頻繁でないいのなら、悪くない。三上がそう思えるだけの空間は、戸倉が作ってくれた新たなものだ。










2010/2/14  雲依とおこ







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