まぼろしのくに
おまけ




 広い構内を息を切らせるほどに懸命に走りながら幸太は揺れる視界の中で腕に嵌めた時計を確認する。まだ間に合う、大丈夫だと思いながらも心は逸ったまま静まることは無い。
「お、そんなに慌てて珍しい」
「近藤」
 声を掛けられたのが最近やっとで出来た親友と呼べる存在でなければそのまま無視して走っただろう。それくらい幸太は確かに焦っていた。
「ん? まさかあれか、お前の例の足長おじさんで片思いの」
「おじさんじゃないってば」
 咄嗟にいつものように言い返しながら、指摘された人を思い浮かべ、自然と幸太は幸せそうな笑みを浮かべていた。これから三ヶ月ぶりに会えるのだ。つい先日、いきなり連絡があった。それは何より優先したいと願う約束ではあったけれど、だからと言って通わせて貰っている大学をないがしろにしてまですべきことではないと分かっていたし、そうすればきっとあの人に価値の無い無能な人間だと思われるだろうと思うと出来なかった。それは何より幸太の避けたい事態なのだから。
「えへへ、でも、そうだよ!」
「分かった行けよ。今度、俺にも紹介しろよな」
「あの人が、会いたいって言ったらね」
 呆れたように言葉も無い近藤を残して幸太はまた走り出す。まさかあの人が面識も無い、ただ幸太の親友だというだけの相手に会いたいなんて言う筈が無いと分かっていて答えた幸太に、それが十分に分かってしまった近藤は苦笑いするしかないのだろう。
 だっていつだって会える時間は僅かなのだ。その貴重な時間にあの人の視線を他の人に向けさせるなんてもったいないことを、たとえそれが親友だとしても、今の幸太に出来るはずもなかった。



 本気で焦ったのは待ち合わせの喫茶店に入った瞬間、カウンタの奥にその姿が目に入った瞬間だ。いつもと同じで時間よりも先に幸太は店に着いたのだけれど、常に時間ぴったりに行動している彼の方が今日は予想外に早くその店に居たのだった。
「ごめん! 待たせたんだね」
「いや、別にお前、遅れてないだろ。俺が早く来たから」
 そう言って口をつけていたコーヒーを音も無く静かにテーブルに置いたのは、以前からその整った面立ちは変わらないけれど、青年になりすっかり落ち着きと上品さを身に着けた戸倉だ。はじめて会ったあの日からもう十年が経過していた。
「元気だったか。友達は出来たか」
「うん! あのね、先月僕がやってた研究ね、大きな企業が協賛してくれることになって、プロジェクトが立ち上がってね」
「頑張ってるんだな」
 穏やかに微笑んでそう頷いてくれる戸倉に、少し慌てて喋りすぎたのではないかと急に幸太は不安になる。隣の席に腰を下ろし、いつもおいしそうにコーヒーを飲む戸倉に合わせようと、はじめは馴染めなかったはずのその苦い飲み物を、今ではすっかり下に馴染んだその飲み物を注文する。
「だって、それは……、佐久に、少しでも認めてもらいたくて」
「俺は、お前が元気で楽しくやってたら、それだけで幸せだぜ」
 いつも告げられるそれはまるで殺し文句だ、と幸太は思う。また、いつだって戸倉はそれを本気で言っているのだ。幸太の気持ちを知っていてそんな風に嬉しそうに告げるなんてずるい、と思いはするけれど。
 思わず誰もが見惚れるような笑みを浮かべてそこにいるだけで優雅な空気を生み出す戸倉が、本当のところ未だに何をしているのか幸太は知らなかった。何度も教えて欲しいと、力になりたいからそのための専門の勉強をしたいと訴えたのに、まるで曖昧に誤魔化して好きな勉強をして欲しいとしか言ってくれない。
「今でも、佐久は、あの人と一緒?」
「……どうだっけ。確か、半年くらい会ってない気がしたけど」
「! 別れたの?」
 やっとであの男と別れる気になってくれたのかと幸太は手放しで喜びたい気分だった。
「ちょっと勝手に都合の良い解釈をしないでよ」
 しかし突然割り込んだ声が幸太の期待を裏切ってくれる。これは本当に唐突なことだったのか、戸倉でさえ三上の出現に驚いているようだった。
「三上! お前なんでここ」
「君も日本に帰ってくるなら、僕に最初に連絡すべきでしょう。……四ヶ月ぶりだよ、ちなみに」
 その言葉ではじめて幸太は今まで戸倉が日本にいなかったことを知った。内心で驚きながら、しかし三上の前でそうすることの悔しさに自己を保ち、決してそれを表情に出したりしないけれど。それでも二人の会話に口を挟めない。今は自分のために戸倉が作ってくれた時間なのに、それを奪うなんて酷い、そう思ってただ三上を睨み続けた。それに気付いている様子も無いのに、溜息を吐いて三上の胸を拳で軽く叩いた戸倉はすぐに幸太に向き直ってくれる。
「あとでお前のところにはちゃんと寄るつもりだったって。だから……、幸太に先に言っておこうと思ったんだけど、……暫く、会えないかもしれない」
「暫くって、どれくらい?」
「分からない。悪いな」
 深く事情を聞こうにも先にそうして悪いと謝られてしまえば幸太はもう何も言えない。それを知っていて言うのだから、戸倉も本当に卑怯だと思う。そう思うのに、どうしても一緒にいたいのだ。その姿を見てその声を聞き、傍にあることこそ何より幸太を幸せにしてくれるというのに。幸太の幸せはそこにあるというのに、幸太の幸せを願い様々な手を尽くしてくれるのに、その一番の願いだけを戸倉はかなえてくれない。
「……それ、僕もってことだよね。僕が持ってる情報では、君、今度の春から日本だって聞いてたけど」
「お前には後で話すって」
「……分かった。屋敷で待ってる」
 あっさり三上が引き下がったのはこれから後、ゆっくり屋敷で話し合う時間が持てるからなのだろう。うらやましい、と思いながらそれがどれだけ子どもっぽい言い分かと思うと口を噤むしかない。
「佐久」
「お前は大丈夫だ、幸太」
 言えないままの不安を感じ取ったのか、戸倉がそう言って幸太を宥めてくれようとする。
 しかし、幸太にとってはそんなこと、どうだって良いのだ。
 何より大切なものを、間違えたりしない。
「……佐久は?」
 そう問うと、ここ数年、すっかり感情を整えることに長けてきた戸倉にしては珍しくその息を詰まらせ動揺を露にする。そして動揺が伝わったと知ると失敗したな、と苦笑した。
「幸太に余計な心配させるつもり、なかったのに」
「心配させてよ、佐久。ねえ、僕は、あなたの役に立ちたい」
 もう守られるだけの子どもでは嫌なのだ。
 そう訴える幸太に、暫く戸倉は考えてくれた。
 もしかして話してくれるかもしれない。
 今までどんなにせがんでも教えてもらえなかった真実を。
「分かった」
「佐久!」
「お前ももう大人だもんな。俺も、子ども扱いされるの、凄く嫌いだった。じゃあ、今の問題が片付いて、次に会えるようになったら、そのとき、全部話すよ。それをどう判断するかは、幸太の自由だもんな」
 嬉しかった。
 はじめて隣に立てることが、
 その未来が、
 すぐ目の前にあるみたいだと思った。
「じゃあ僕、それまでうんと勉強しておくね」
「だからそうじゃなくて、それまで、楽しくしてろよ」
 仕方ないなあと困ったように微笑む戸倉の顔が本当に愛しくて、何が待っていても乗り切れると思った。










2010/2/14  雲依とおこ







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