まぼろしのくに




 不規則に打ち寄せては引く無限の波のように幾多の感情が積み重なって襲い、理由も無く胸に沁みて締め付ける。故郷の海のように深みのある青い空から光と共に落ちてくる熱が痛いほどに肌を焼き、更には篭った湿気が空気を重くさせ、それら些細なことが積み重なって戸倉の足取りを重いものにさせていた。一歩踏み出す足にさえ纏わりつくその重い空気に、それこそ一歩ずつやる気が削がれるようだと思いながら本当に足を重くさせる理由から意識を逸らして額に浮かんだ汗を拭う。本当は意識して意識を逸らそうとする時点で少しも忘れられてはいないのだけれど。
 やわらかい癖に生命力が強い草に端から侵食され舗装の剥がれ落ちた細い道には先ほどから車どおりがまるでなく、いつの間にか戸倉も端を歩くのを止め中央を選んで進んでいた。そうして太陽の熱を十分に溜めた舗装に靴底が焼かれているのを想像しながら足元の狭い範囲に落としていた視線をふと上げると、目の前はどこまでも広く緑が続いているのだ。右も左も、前も後ろも細く黒い道の他は草が生い茂り木々が枝を伸ばす、およそ人の手の入った形跡の無い緑が深く濃く埋め尽くしていて、見ているだけで戸倉の中に入り込んでくるような気さえした。自然が自分の中に入り込み、いつしか自分が周囲と一体化する、それは最初の嫌悪感だけ越えれば如何にも涼やかで開放的な想像で、戸倉は深く息を吸い込みその感覚をより確かなものにしようと試みる。立ち止まった耳に聞こえてくるのは風の渡るささやかな葉の音とどこからとも知れない鳥の鳴き声だけで、だから内側から響く自分の息遣いと心臓の音がやけに大げさに聞こえてしまい、せっかくの想像は邪魔され霧散してしまった。
 ここはどこだろう。
 車窓から見ていた景色に惹かれるままに無人の駅で降りてから適当に目に入った道をひとつ選んでほとほと歩いてきた戸倉は、長く歩いているのにも関わらずここに来るまでまだ一度も人と擦れ違っていない。このまま歩いても車どおりも皆無のこの道の先には今見えているのと同じ、森と山の他には何も無いのかもしれない。歩き始めた頃から何となく予感しながらもう少し歩いてみなくては分からないと保留にしてきた問題だけれど、そろそろ決断すべき頃だろう。
 別段人里を求めて歩いているわけではないのでそれならそれで構わない。バックパックの中には飲み水も寝袋も入っている。ただ食料は殆ど持ってきていないので、人里が無いのであれば早めにそれなりの行動を起こさなくてはならないだけ。
 目的など何も無いのだ。
 或いはこの過程こそが目的。
 歩くことで確かに少し気持ちが軽くなった気がする。
「三上……」
 思わずぽつり呟いてしまったその名前に付随する感情にまた苦しむのだけれど。



 軽やかで涼しげな音を聞き取り小川を見つけたところで戸倉はそれまで歩いてきた道を逸れて昼でも薄暗く感じるほどに深い森の中へ入っていった。長く直射日光の下にあった戸倉は川の水音ばかりでなく吹き渡る涼しい風にほっと安堵の息を漏らし、高く囀る鳥の声に誘われるようにしてそのまま川沿いを歩いて上流へと向かっていく。注意深く川の様子を観察しながら暫く歩いたところで足を止め、バックパックを下ろして流れる川に踏み込んだ。川の流れは早いけれど比較的浅く、足を踏み入れれば思ったよりも冷たい。綺麗な水には大きめの石や岩の陰に魚の影が透けて見えている。これなら食糧は確保できそうだと岸に上がり、水から抜いて濡れた足を乾かそうとしていた戸倉は、そこに先ほどまで気付かなかったものを見つけた。
 草の丈が周囲に比べ妙に短い部分があるのだ。一度それに気付いた目で周囲を見渡せば、それは細く途切れがちではあったけれど川と平行して森の奥へと道のように続いていた。ように、ではなく正しくこれは道なのだ。存在は明確でも人通りのまるで無かった舗装の道と違い、確かな人の往来によって出来るもの。涼しげに跳ねる水音を耳にしながら戸倉はその奥を探ろうと息を整え神経を集中させる。
 微かな物音が鼓膜に届いた。
 すぐ近く。  戸倉の心臓が痛みを訴えるほどに強く跳ねる。探ろうとしたのは道の先にあるかもしれない何かだったのに、聞こえた物音は背後。それもかなり近く、ともすれば風の音か葉のざわめきと勘違いしそうなくらいの微かなもので、それが今はもう何も聞こえない。ただ葉の擦れ合う音と水音、そして遠く近く響く鳥たちの声ばかりが戸倉を取り巻く音のすべてで、そのことがいっそう緊張を高めさせた。聞こえた物音は勘違いなどではなかったのだから、音が聞えなくなったということは戸倉の動きに合わせて相手も動きを潜めたということなのだ。通りすがりの人間がそんなことをする理由を戸倉は思いつけない。通りすがりの人間でないのなら、何者だろう。
 油断した。ここまで誰にも会わなかったことがこの周囲に人は居ないだろうと戸倉を油断させたのだ。全身を緊張に身を包んだ戸倉が鋭く振り返ってその物音の源らしい場所を睨むと、それだけで観念したのか木の陰に身を寄せていたらしい人物は降参するように両手を挙げながらゆっくり草の中の道に出てきた。
「すみません、こんな観光地でもない山の中に人影なんて珍しかったので、つい様子を窺ってしまいました」
 人影が珍しいのは戸倉も一緒だ。ここに来るまで誰にも会わなかったのに、舗装された道を逸れ更に人の居ないだろう森の中で人に会うなんて思っていなかったからこその油断。男の外見は大学生くらいに見えたけれど、物腰の穏やかな雰囲気や丁寧な話し方はもっと年上のようにも感じた。背が高くひょろりとした体は鍛えているようには見えないけれど、どうにも近くに立つと奇妙な圧迫感がある。
「……誰だ?」
 警戒を解かずに誰何すると、相手は両手を挙げたままにこりと人好きのする笑みを浮かべた。それだけで警戒心が薄まるのを自覚した戸倉は緩もうとする自分の心に抗うように小さく舌打ちする。これは多分、一瞬、人懐こい友人のひとりに似ていると思ってしまった所為だと自分の弱さの元を傷を探るように見極めて戸倉は苦く溜息を吐く。勿論その友人はただの馬鹿であってこんなに穏やかでも丁寧でも無いのだけれど、その人懐こい笑みが同じものを感じさせたのだ。馴れ合っているつもりも認めたつもりも無いのに、そんな相手に似ているからといって安易に緩もうとする自分の気が知れない。
 自分の中から緊迫感が失われようとしている。
 徐々に抜け落ちていくように、気付けばその進行を止められず手遅れなほどに。研ぎ澄ませようとしている先から刃が錆び、崩れ落ちていってしまうような心許なさと不安感に心が侵食されることが戸倉は許せなかった。
 これはしかし今に始まったことではない。
 気付いたのは最近だけれど、
 この腐食が始まったのは恐らく半年くらい前、
 三上と暮らすようになってから。
「僕、この先にある村に昔住んでいたんですよ。久しぶりに帰郷しようかと」
「……村?」
 自省して内に篭るその耳に入り込んできた言葉にひくり掠れた声で反復してから遅れて戸倉の意識が目の前の男に戻る。そういえば先ほど戸倉がこの男を発見する切欠となったのは森に道のようなものがあったからなのだ。少なからず人が通ったからこその形跡が。思い出してその先を見通そうと言うように見つめる戸倉の視線の先には相変わらずの深い森しか見えないのだけれど。
「そうですよ。知らずにここに来たんですか?」
「……」
 答えないまま戸倉は視線を足元に落とした。水が滴るほどだった足は乾き始めていたので、バックパックを預けていた木の傍に戻って腰を下ろして靴を履きなおす。何だかもうどうでも良くなってきた。村の存在を知っているかどうかなんて戸倉には関係ないのだ。そもそも村があるとかないとか戸倉にはどうでも良いこと。少し三上の傍を離れられれば、それだけで十分だった。
「もうこんな時間です。ここから麓の町に向かう間に夜になるだろうし、えと、まさか野宿するつもりじゃないですよね」
 改めて問われなくとも勿論そのつもりだった。ひょこひょこ後をついてきて視線を合わせるようにしゃがみこんでまで話を続ける男に戸倉は背を向けたまま視線も返さないまま答える。
「夏だし良いだろ」
「良くありません。ここ、そんなに安全な場所でも無いんですよ。村までならもうあと少しです。ここにあなたを残して何かあったら、僕、後悔する自信があります。だからですね、ここはぜひ僕の精神の安定のためにも村までご一緒に。泊まる場所も提供できると思いますよ。僕は桐谷。あなたは?」
 どんな自信だ、と思わず笑いそうになった。勝手に緩もうとする気を引き締め、改めて毛を逆立てた猫のように警戒心を露に相手に向き直って鋭く睨みつける。決して気を許すつもりなんて無いと分からせるように。そういえばこの男はどうして川からあがった戸倉の目から隠れたりしたのだろう。そもそもいつから後ろを歩いていたのか。何の目的があって。疑問というより疑念に近い思いを篭めて睨んでいた戸倉は、そうした警戒に気付きながらもまるで気にする様子も無く笑顔を絶やさない男に、ふと、これはやはり能天気な友人と同じではないと思った。
 もっと別の。
 とても危険なものを孕んだものだ。
「……佐久」
「佐久君ですか。では一緒に行きましょう」
 名乗ることには幾分か抵抗があったのであえて戸倉の姓は伏せた。偽名でも良かったのだけれど、何があるか分からないと嘘もやめておいた。目立つ色素の薄い髪は黒髪の鬘に隠し、どこにでも居る中学生がちょっとしたひと夏の冒険に来ているように見えているはずだ。これは別にこんな事態を予想していたわけではなく、ただ、なるべく人目につかないよう、どこにでもある旅行者に紛れてあとから探るものがあっても跡を辿りにくいようという工作だった。
 三上が追ってくるかどうかなんて分かりはしないのだけれど。
 それでも、戸倉が今出来うるすべての方法を使って姿を晦まそうと思った。
 ここまでして追いつかれたのなら仕方ないと思えるように。
 黙り込んで答えることのない戸倉を急かすこともせず、それでも笑みを湛え差し出されたままの手は簡単には引っ込められそうにも無かった。穏やかな物腰のわりに意思は強いのだ。まあいいか、と戸倉は考え直す。まさかこんな不審者に出会うとは思っていなかったけれど、思わぬところで擬装工作が功を奏したと思うと気も楽になったのだ。自分は今、これまでの戸倉佐久という形を変え別の形としてここに在るのだから、もし本当に何か尾行されたような理由があるとしてもそれは戸倉佐久という名に付随する理由ではないのだろう。
「……分かった。案内しろ」
「はい」
 差し出された手を無視したままバックパックを手に立ち上がろうとした戸倉は、しかし勝手に腕を取られ軽々と引き上げられた。体格差からみても仕方ないことかもしれないけれど、戸倉にはあっさり持ち上げられてしまったことが悔しい。
「荷物、お持ちしますよ」
「……結構だ」
 一瞬気を抜いた隙に取られそうになった荷物を奪い返して肩に担ぎ上げて引いて歩こうと繋がれた手も振り払い、早く行けと身振りだけで促した。道は見つけて分かっているのだから先に立って歩いても良かったのだけれど、どうにもこの男に後ろを歩かれるのは気持ち悪い気がする。親切すぎるのがとても怪しい、そう、思った。 



 それから川沿いに連なって歩く間も桐谷は始終穏やかに話し、後ろを歩く戸倉を気遣うように頻繁に振り返ってはその笑みを惜しみなく振り撒いた。邪険にしているのに笑顔は崩れない。森は奥へ入り込むにつれ涼しさが増し、ともすれば寒さまで感じるほどだった。少し川から距離を置いた道を歩くと光を遮る木々は深く、まだ夕刻にならないはずなのに酷く暗い。同じような景色の中を歩き続ける所為もあり、方向や時間の感覚が次第に曖昧になっていくと戸倉は感じた。流れ続けるすべての音が飽和して曖昧に、なのに確実に戸倉の中に刻まれる。そんな中でも桐谷の足取りは変わらず、深い森の奥へ誘っていた。
「そうそう、この先の村には幾つか古い言い伝えがあって、子どもの頃さんざん聞かされてきたので、今でもすみずみまでしっかり覚えてます」
「言い伝え?」
 それまでどんな話も相槌ひとつ打たずにいた戸倉が興味を引く話題に思わず鸚鵡返しに問うと、桐谷は呼吸を整えるように一拍間をおいたもののそのことを指摘することなく、戸倉の意を汲み話を掘り下げてくれる。
「夜鳴き井戸、血吹きの岩、黒衣の鬼、日本の地方にはどこにで伝承がありますけれど、この村は大体が閉鎖的なので、廃れず残ってるんでしょうね。本来日本では境で赤子の鳴き声が聞えるという伝承が多いらしいのです。身重のまま殺された母親の恨みが石に宿るとも」
 殺された母親の恨み、という言葉が戸倉の腹に重い石のように溜まり、痛みを持って居座る。しかし日本において伝承とは事実を基にしたものとは限らないと戸倉はのろのろではあるけれど思考を進めた。伝承が多いのは桐谷が言うように閉鎖的という村の在り方に問題があるのだろう。
「村人は皆本気でその伝承を信じています。祟るものとして恐れている。信仰していると言ってもいい。井戸も岩も鬼も、神様として丁寧に祀っています」
 話を聞いているうちに戸倉は混乱してくる。神様として祀っているそれら井戸や岩、更には鬼までというのが戸倉には不思議だった。それらは祟るもののではなかったのか。
「神様なのに、祟るのか?」
「祟らないように祀るんです」
 右も左も前も後ろも覆い茂る木と草で埋め尽くされ、立ち止まるともう自分がどこから歩いてきたかも分からない。道は桐谷に任せそのあとについて歩くだけでいいという気楽さも手伝いうっかり話に聞き入っているうちに傍を歩いていたはずの川と道が逸れたのか、川面が見えないばかりか水音も聞えなくなっていた。振り返らず桐谷は淡々と話し続ける。感情の無いその声に戸倉は何かぞっとするものを感じた。
 気付けば無くなっていたのは川だけでない。辿っていたはずの道すら足元には無かった。
 では桐谷はいったい何を目印に歩いているのだろう。
 村は本当にこの先にあるのだろうか。
「……あのさ、道って本当にここで良いのかよ」
 ここまでついてきて今更、という心情が声に乗り、自分の思いよりもずっと頼りない声が出てしまった。ぴたりと足を止めた桐谷が上半身だけ振り返って人を安心させるような、本当に穏やかな笑みを浮かべてくれたから、戸倉は杞憂なのだとほっとしたけれど。
「ここへきて今更ですか。佐久君は可愛いですね。簡単に、僕を、信用してくれた」
 その笑みが穏やかであるからこそ、その言葉が異様に響く。
 冷たい風に背筋がぞっとする。
 あんなにも暑かったはずなのにこの寒さは何だ。
 桐谷から感じる、この、まるで人と対峙していると思えない得体の知れない恐ろしさは。
 そうだ。
 最初から怪しいと思っていた。
 分かっていたのに。
「待って」
 逃げ出そうと背を向け走り出した戸倉は、しかし一歩進んだだけでその腕を捕らえられる。桐谷の冷たい手が触れた場所からざわりとした嫌悪感が全身を凍らせる勢いをもって広がり、戸倉の胸をざわつかせた。思いのほか強い力で引きとめられた戸倉はバランスを崩す。その勢いのままもんどりうつようにして地面にうつ伏せに倒され、両腕を背中に捻り上げられ背に乗り上げられると身動きが取れなくなってしまった。ひねり上げられた腕は軋み、地面に押さえ込まれ自分よりもはるかに大きな身体に圧し掛かられた肺が苦しいと悲鳴を上げる。強い、と思った。ひとりで生きようと思って以降、体術に関しては特に鍛えることを怠らなかった戸倉相手に一瞬でここまで出来るなんて、やはり桐谷は単なる通りすがりの人間ではない。
「はな、せっ」
「駄目です。まったく君は……、ここでひとりになれば確実に迷いますよ」
「テメーと一緒にいるよりマシだろ」
 そう口にしてから戸倉の脳にくっきりと「違う」という言葉が浮かぶ。何が違うのかと瞬時に自分の脳内を探った戸倉は、そこにある確固とした意志を読み取ると胸のざわつきがすうっと静まるのを感じた。
 今、戸倉は確かに死と直面しているという感覚を手にしている。忘れて久しいその感覚を取り戻したのだ。ならば逃げる必要は無い。これは昔必死に戸倉が追い求めていた対峙だ。桐谷と対峙することが、それを克服することが戸倉を新たな世界へ導くだろう。
 これほどまでに死を思わせるのは触れる桐谷が冷たいからなのかもしれない。まるで先ほど足を浸からせた川の水のように、痛いほどに冷たい。動きが大人しくなったことに気付いたのか、桐谷は腕の力を弱めてくれた。それで腕の痛みは引いたけれど、腰に乗り上げた桐谷が動く様子は無い。変わらず腕を背後に取ってその背中に乗りかかり身動きを封じたままの桐谷が次にどうするかと地に伏していた顔をひねって振り返ろうとした戸倉は、その首筋にくすぐったい何かを感じて身を竦めた。他人の髪の毛と、肌と、吐息がそこにある。
「どうしました?」
 笑いを含んだ声音と吐息が耳朶をくすぐり、戸倉の身体は抑えられたその下で跳ねる。それだけではなく、冷たい水の塊が背中を這うような感覚にぞくぞくと寒気が走った。それは水ではない、桐谷の手だ、と気付く。背を撫でたあとするりと腹に回ったその手を嫌って地につけていた身体を浮かせると、隙間が出来たとばかりに腹から這うようにして手が上り、胸の突起をいたずらするみたいに掠めていく。びくりと震える身体を地面に押し付けると桐谷の手を強く挟み込み、余計にその感触を強く感じる羽目になってしまった。桐谷の手のひらが揉みしだくように動く中で指先だけ動きを変え、突起を摘み上げては押しつぶす。どこまでも冷たい手は人間のものとは思えないものだけれど、その意図は明白だ。
「……冗談、だろっ」
「逃がしませんよ」
 暴れる戸倉を抑えるように腰に乗ったままの桐谷が膝で強く戸倉の腿を押し、そのまま両足の間に入り込む。地面にうつ伏せに押さえ込まれたままの戸倉にはそれ以上抵抗する術が無い。首筋で撫でるようにして動く桐谷の鼻先や動くたびに揺れて掛かる髪がくすぐったいと身を捩ると不意に首筋の感触が離れ、その他の動きもぴたりと止まったので、男を組み敷くなんてどうかしていると思いとどまってくれたのかとほっとした。しかしそうして安堵したのも束の間、首筋に冷たい指が触れたと思うと強引に襟を大きく開かれる。
「……っ」
 抑え付けられたまま剥き出しにされていく肌に地面から生えている草が当たり、動くたびにその鋭い葉が擦って痛みを訴える。性急に肩甲骨のあたりまで服を脱がされると、ひんやりとした湿気を纏う外気に触れた肌にまた外気よりも冷たい桐谷の肌が重ねられた。首の後ろから肩甲骨の間までを感触や濡れたようなものが執拗に這い、胸を弄っていた手は所々を擽りながら徐々に下肢に向かって下りていく。冷たい愛撫にしかし戸倉の身体は震え確実に熱を帯び始めていた。もう抵抗は無理なのだという思考が過ぎるけれど。
「いい加減にっ」
 怒鳴ろうとすれば腿の間に入り込んでいた膝で股間を強く擦られ、戸倉は言葉を続けることすらできずに息を詰まらせた。懸命に振り仰ぐと桐谷の頬には付近に茂る鋭利な草に切られたのか薄っすら傷跡があり、そこから赤い血が覗いていた。幽霊ではない、人なのだと戸倉はやっとで確信する。そして自分の身体の至るところにも同じ傷が出来ているだろうことが予測できた。ぴりりとした痛みはその所為なのだと。しかし背に感じる痛みはそれとは違うものだと戸倉は分かっていた。濡れて這う感覚が時折残していく鋭い痛みが何によるものなのか、分かりたくも無いことを。
「い、……や、だ。俺っ、男だぜ!」
「ああ、僕はどちらでも構わないので気にしないでください。君は男ははじめてですか。意外ですね。それは、まあ、安心してください。はじめてなんて誰にでもあること。楽しませてあげられると思いますよ」
 こんなことをするために桐谷は森の奥まで連れ込んだのか。語られた数々の話も、伝説も、村の存在も、何もかもが嘘だったのか。戸倉は改めて絶望するのと同時に、そんな卑劣な行為に、徐々に陰湿さを増していく行為に、どうしようもなく反応する自分の身体の変化を認めさせられた。身体はこんな卑劣な行為にも身体の中心には熱が点り、もっと先にある快楽を求めている。ならば自分もこの卑劣な男と同罪なのか。相手が誰でも構わないのだとはじめて知った戸倉は、確かに深く絶望した。こんなのは酷い裏切りだと思った。
「な、……んで、んなことっ」
「……何で、……何で、でしょうか。隠されるから、暴きたくなるからなのかもしれません。夏なのに過剰な衣服を纏って隠されたその中にある君の身体は、ほら、こんなにも白くてやわらかく、そして瑞々しくて、甘い。だから、強気なその態度の中に隠された君の心も、同じようにやわらかくて甘いのかと思うと、とても、興味深い」
 三上、とこのときになってやっとで戸倉はその名前を思った。
 しかし今の戸倉はその存在を思い描いたことを喜ぶべきか悲しむべきか分からない。
 自分が何を一番に望んでいるのか分からない。
 どうしたら良いのか分からない。
「佐久君?」
 踏みにじられた草の匂いが濃く漂い戸倉の鼻を刺激する。名前を呼ばれたことにもすぐに気付けないほどぼんやりしていた戸倉は、いつの間にかうつ伏せのまま押さえ込まれていたはずの身体が解放されていることに気付いた。疑問に思いながらもゆっくりと仰向けになって空を見上げる。深い緑の向こうに僅かに青い空が見えた。随分と暗くなってきているのではないか。
 躊躇いがちに髪に触れて撫でる手は相変わらず冷水に触れられているみたいに冷たく、視線を向けなくてもそれが桐谷のものと判別できた。このまま黙っていても仕方ないと溜息を吐き戸倉は返答する。
「……んだよ」
「すみません。僕としたことが、流されてしまいました。こんな、あなたの意志を無視するつもりじゃなかったんです。本当に、村まで案内したかっただけで……、この辺りから道を逸れたら完全に迷子になるからと思って。ただ、逃げようとするその背や捕まえたあなたの表情、何より途中からここではない場所へ意識が取られたような……、どうにも危うい感じで不安に陥れられるのと同時にそれを払拭するために触れずにはいられなかった。まるで誘蛾灯のように僕は狂わせられ引き寄せられた。僕は蛾ではありません、が、正気に戻るまでに時間が掛かったことを考えると大きなことは言えませんね。だから、すみません」
 謝られてもどう答えていいのか分からない。戸倉には誘惑した覚えはないのだし、いくら途中で正気に戻ってくれたとは言ってもそこを感謝するのは違う気がする。ただ、以前同じようなことで三上に忠告されたことを朧に思い出していた。そのときは訳のわからないことを言うと相手にしなかったけれど、今は本気で後悔しているらしい桐谷の誠実な様子を見ればあながち訳が分からないことでもなかったのかもしれない。自分でも気付かないうちに他人を誘うような、そんな卑猥な表情をしているというのか。
 とりあえず答えを保留にした戸倉は身体を起こし、傷には目を瞑って身体に付着した草や木の葉のくずを払い落としてから徐に着衣の乱れを正した。中途半端に煽られた身体は落ち着かなかったけれど、それにも目を瞑る。そして黙ってそれを見つめている桐谷を真正面に見据えて口を開いた。
「本当だと言うのならさっさと案内しろ。日が暮れるぞ」
「ええ、はい!」
 答えた笑顔は今までに無い、心底からの笑みのようだった。口を挟む間も無く今度こそは戸倉の荷物をさっと持ち上げて自分のそれと一まとめに抱え、空いた手で戸倉の手を取ってしまう。それは先ほど散々戸倉を好き勝手に弄び、望まない心とは裏腹に快楽の火を灯したあの冷たい手だ。しかし何だかもう戸倉はそれに反論する気力が無かった。桐谷の強引さに流されたわけではない。ただ、先ほどもっと際どい場所に触れられたことを思えば、今更手くらい繋がれても、と思っただけだ。
 それに桐谷の中には読めない部分がたくさんあって、単純に戸倉はそれに興味があった。それは先ほど桐谷が戸倉の心の中に興味があると言ったのと同じものなのだろうか。互いに何か興味を惹きあう部分があるというのか。見知らぬ夏の森を歩き続ける中、繋ぎ続ける手のひらは本来なら熱移動するはずなのに、どこまでもひんやりと冷たくて心地良い。
「僕の姉もね、神隠しにあったひとりなんです」
「……!」
「ほら、到着しました」
 引かれて歩く手とその足元ばかり見ていた戸倉が顔をあげると、そこは今まで歩いてきた森とは一変した世界が広がっていた。それは母親を亡くしてから今まで戸倉が彷徨った日本のどこにも見ることの無かった、しかしいかにも日本らしい風景だ。これは原始的ともいえる昔ながらの日本の風景なのかもしれない。生い茂る木に薄暗かった森が綺麗に途切れた先には一面の花が育ち、更に先にはきゅうりにトマト、ナスなど野菜が見える。それらすべての色が濃い。更に先には緑の草原のように見える田んぼが広がり、涼しげに渡る風を受け風景一面が波のように打ち、それがまたびろうどのような深く美しい色の変化を生み出して見せていた。これは大地に宿る生命の力そのものだ。その農村の風景が戸倉には桃源郷のように映り、息を呑んでそれらを見つめた。膨大なその力の裏にあるものへの、恐怖と心地良さが身体の中に満ちるようだった。或いはこここそが戸倉が望むものを体得できる場所なのかもしれない。
「こちらですよ」
 見れば足先の花畑には道が無い。綺麗に整えられた花畑は一歩でも踏み込めばその整然を乱すことになるだろう。花畑を回り込むようにして進む桐谷に手を引かれるまま続くと、すぐに一本の道が見えた。その両脇には小さな石。磨り減って元の形が判然としないその石には僅かに黒ずんだ部位があり、戸倉は自然と血吹きの岩という言葉を思い出していた。
「これ、道祖神か」
「……ああ、それは境の神様ですよ」
 足を止めて細部を見ようとした戸倉は、強引に手を引っ張る桐谷と一緒にその石の脇を越えた。神妙な話を聞いたあとだからなのか、その石を越えて中に入るとまるで空気すら違うもののように感じられた。緩く流れる爽やかな風に乗って鼻腔に届く甘い花の香り。本当にここは桃源郷なのかと思う。あの石は、確かに境だったのだ。
「改めまして、ようこそ佐久君。……僕の、村に」
「……桐谷?」
 振り向いた顔には満面の笑み。暮れつつある温かい色の光を浴びてなお、そこには冷たい何かを感じさせた。或いは繋いだままのこの手がそう思わせるのかもしれないけれど。何か得体の知れない恐ろしさに戸倉は身動きが取れなくなる。たとえ森の深い奥で迷子になろうともこの男にだけはついてきてはいけなかったのではないか。自分は何か大きな勘違いをして、重大な間違いを犯したのではないか。しかし息を呑む気配を別の場所に感じた戸倉は金縛りのような状態から抜け出せた。
「あ……」
 花畑の先にある畑で作業をしていたらしい人影があったのだ。戸倉につられるようにして桐谷もそちらを向く。身体を起こしてこちらを見つめる女性の顔は驚きに呆然としていたけれど、それは徐々に恐ろしいものを見たかのように歪んでいき、声を聞くのも発するのも恐ろしいというように一心不乱に逃げ出していってしまった。いくら閉鎖的とはいえ、村人でない人間を見たからといってそんな怯えたような反応をするだろうか。
「……行きましょう、佐久君」
 夕日を斜めに浴びながらそう誘う桐谷からは穏やかさがなりを潜め、何かに挑戦するように楽しさと不遜なまでの自信、そして強い姿勢が感じられた。傍にいるだけで感じる恐ろしさは相変わらずで、ついてきてはいけなかったという感覚もやはり張り付くようにして胸のうちにあるのだけれど。そう分かっていても尚、戸倉は桐谷に興味を覚えるのだ。怖くても、見てみたい。そう思わせるだけのものを桐谷は持っていて、戸倉は優しく手を引かれるままに村の中へ向かって歩き出す。ああ、やっぱり流されていると自覚しながら。











2010/2/9  雲依とおこ







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