まぼろしのくに




 鮮やかに色を変えていく夕日に彩られた村は美しく、静謐さすら感じさせられる。それは確かに人の生活感がありながら人の姿が見えない所為だろう。一本だけの道を花畑や畑の中を過ぎると通り沿いに家屋が並んでいたけれど、そのどれもの扉は閉じ、窓は固く閉ざされている。しかししんとしたその中から、外を窺う緊迫感のような気配はひしひしと感じられた。舌で味わうならこれは怯えと敵意か。こんな静かな世界、三上なら喜ぶかもしれない、とふと思うとこの状態も楽しめると戸倉は微笑んだ。
「境の中から外へ出るには、儀式が必要なんですよ」
「儀式も無しに外に出たならそれは罪人。罪人は鬼に追われ殺される」
 そんな静謐で不気味な雰囲気の中を桐谷は土の一本道をゆったりと辿り、戸倉の手を引きながら出会ったときと同じ穏やかな口調で話し始める。それにしてもまた「鬼」の話だ。それよりも神隠しにあったという桐谷の話が知りたかったのだけれど、それは聞いても良いのか分からないので口を開けないでいた。ただ、そうして語るほど桐谷がその信仰に拘っていることが妙に気になった。静かに聴く価値のある話なのかもしれないと。
「また村人の招きもなく外から入ってきた者も鬼」
 そこでぴたりと話が繋がる。
 今、ここで、戸倉が体感しているものと。
 いつの間にか歩き続けていた足は止まり、桐谷は戸倉に向き合っていた。手を繋いだままに戸倉を見下ろすその表情はとても優しくて、語られる内容と推察するその先が酷く厳しいものであっても何故だか安心するのだった。
「……つまり、オレもお前も鬼だとか思われて、あいつらあんな怯えてんの?」
 まさか、と思う。いくら信仰深いとはいえそんな突拍子も無いことを本気で考えているのか。そう否定しながら戸倉の脳は今までの状況を検討し、そこに否定する材料が無いばかりか肯定に繋がる材料があることを見つけ出す。丈の低い花畑はぐるり村を一周しているのかもしれない。そこを通る者を監視するために、道をひとつに絞っているのだ。
「さてしかし。僕は余所者ではないのですが……、ねえ、村長」
 桐谷の意味深な笑みが戸倉を通り過ぎている。はっとして振り返った戸倉はそこに一人の男が立っているのに気付いた。四角張った顔には深い皺がいくつも刻まれ、頭髪はその殆どが白い。初老くらいの男性かと思うのだけれど、背が低いわりに体格が良く、年齢は読みにくかった。
「……余所者、では、無い……?」
 村長と呼ばれたその人は目を大きく開いて桐谷を見つめる。いつの間にか固く閉ざされていたはずの家々の窓が薄く開き、そのひとつひとつから覗く目があった。酷く不気味な光景だ。幾つもの目に囲まれているというこの状況が戸倉は落ち着かない。その目のひとつひとつに恐怖と憎悪という感情が込められているのに、村中のすべての薄く開いた窓から一様に寄せられるその視線、その感情すべてがまるで同じものであるということが全体として不気味な印象を与えるのかもしれない。統一された意思に晒され、知らず戸倉は緊張していた。
「桐谷……、桐谷の子か」
 長く思考した末に村長はその名前を導き出していた。覚えていたのだ。そこでやっとで桐谷の言葉が嘘ではなかったのだと戸倉も納得した。あてもなく森を散策していた戸倉を見つけたのは偶然で、危険だからと自らが行こうとしていた村に案内したのも親切心で、襲おうとしたのも何か魔が差しただけだったのだ。
「お久しぶりです。あの、僕の家なんですが、残ってますか」
「本当にひさしぶりだ。ああ、君の家なら無論残っているとも。ただ掃除は行き届いておらんかもしれん。今すぐ村のものにさせるから、さあ、片付くまで私の家へおいで。今夜はささやかながら夕飯をご馳走しよう」
 振り返った村長が誰にとも無く頷くと、傍の家から数人が出てきて礼をするとあとは言葉もなく皆が同じ方へ歩いていった。その先に桐谷の家があるのだろう。それにしても片づけを全部他の村人にさせて、本人は村長の家でご馳走を振舞われるなんて、帰ってきた村人に対する歓迎は随分なものだ。
「さて、そこの子は、違うな」
 じっと戸倉を見据える村長の目は笑っていなかった。つま先からつむじまで行き来する値踏みするような視線に晒され、居心地の悪さを感じた戸倉は視線を逸らす。しかし逸らした先のどこも同じ、部外者を恐れ、憎悪する意思は村全体を覆い、周囲は非難の視線で埋め尽くされていた。
 鬼だ、と声なく非難する瞳に押し潰されそうだった。
 息苦しい。
 これならば鬼だと馬鹿な話を理由に殺されても不思議は無いだろうと妙なところで納得していた。こんな排他的な村なら警察の捜査が入るとも思いにくいし、村人の総意である殺しなら隠し通すことも可能だろう。
 しかし、ふと戸倉はまたどうでも良いことが気になった。確か桐谷は村人の招きなくして村に入った者は鬼とされると言ったけれど、儀式も無く外へ出た罪人を殺すのもまた鬼ではなかったのか。二つの鬼は別のものなのか、同じものなのか。
 好奇心は刺激されたけれど、この息苦しさの中にいることに戸倉はもう耐えられなかった。別に歓迎されるとは思っていなかったし、疎外されることも慣れている。この排他的な村には余所者が泊まるような施設など無いだろう。危険だとは言われるけれど森に戻って野宿したって構わないし、寧ろ最初からそうするべきだったと戸倉が口を開こうとすると、背後から抱きかかえるようにして両肩に手を置いた桐谷が先に宣言するような強さで言葉を放った。
「この子は僕が連れてきました。掟に従っているから問題ないでしょう。僕の家に泊めます」
 まるで森に囲まれているように、自然に呼吸が深くなる。吸い込んだ清涼な空気は全身を洗い流して新たに作り変えてくれるようだった。
「……招いたなら、良いだろう。ただし泊まる場所は別のものを用意させよう」
「どうして、ですか」
 自分の意見はすべて受け入れられると思っていたのだろう、桐谷は意外そうに村長を見返す。別に桐谷の家に泊まりたかったわけではないけれど、泊まる場所を指定されるとは思わず戸倉も首を傾げた。
「ちょうど空いた良い家があってな。うん、そちらもすぐに掃除させよう。それが良い」
「村長」
 簡潔に話された理由はわざわざ空き家をまた人が住めるほどに整えるというもので、自分の家にという桐谷への反論にしては随分と弱いものだったけれど、そこまで距離を詰めたくは無い桐谷の家に邪魔するよりはましだと思った。
「いや、空き家があるなら、オレはそっちの方が良い」
「佐久君……」
 困惑したような声は顔を見ないことで無視をする。ここまで親切心で連れてきてくれたかもしれないし、興味はあったけれど、だからと言ってここで深入りするのは危険だと思った。慎重に見極めなければ足場を失ってしまうだろう。三上のときにそうだったように。
「では決まりじゃな。二人とも、私についておいで」



 その日は深夜まで宴会だった。半ば連行されるように辿りついた村長の屋敷では、早速とばかりに大きな一枚板のテーブルの端から端まで所狭しと大皿料理が並べられ、次から次へと酒が振舞われた。特に話題を振るわけでもなくただ穏やかな笑みを崩さない桐谷に対して村長はあれやこれやと話を続ける。それは自らの権威を誇示しようと躍起になることで逆にその小者ぶりを顕著に晒すいっそ哀れな様子でもあったし、特に意見を述べず泰然とした態度で微笑み続ける桐谷の機嫌を伺うようにも見えるその態度は哀れを通り越してどこか不気味でもあった。
 そうした一見すると楽しげなくせにどこか不自然な宴の最中、桐谷の隣に座った戸倉は自分はどうせ関係ないのだし、話も聞いていないというような態度で明後日の方を向いてさえいたのだけれど、そうしていてさえ新鮮な料理よりも居心地の悪さばかりを味わっていた。慣れない正座はすぐに諦めて足は伸ばし、食べることにもすぐに飽きてすることも無くただ時間が過ぎるのを待っていたのだけれど、そうして気の抜けた隙間にふと向けられる村長の品定めするような視線がとても居心地が悪いのだ。全身を舐められているみたいな気持ちの悪さ、嫌悪感に睨もうと視線を返すとすっと村長の視線は桐谷に戻って下卑た笑みを浮かべて話を続けるのだから怒るタイミングを逃してしまうのだった。泊まる場所さえ用意してもらえたなら早くこの場を去りたいという気持ちでいっぱいだった。
 ふと、いつの間にか隣に座っていた村長が手にした熱燗を戸倉の目の前に掲げていた。思わず目を合わせてしまった戸倉はすぐに視線を外したけれど、村長は構わず話し出す。
「そうそう、用意した家だが、人が住まない家で荒れて困るんだ。君さえ良ければそのまま住んで貰った方が助かるんだが」
「住むって……、俺、旅で来ただけで永住するわけじゃないし」
「まあまあ、そう言わないで、考えておいてくれ」



 ようやく辞するタイミングが得られたのは日付が変わったあとだっただろう。見送る村長の視線を感じつつも一切振り返らず、提灯を下げた案内人に続いて夜道を歩いた。夜でも外は花の甘い香りが漂っている。月が照らす景色は明るく、村の隅々まで綺麗に映し出しているみたいだった。闇を埋め尽くすように奏でられる虫の音がまた心地良い。先に桐谷の家の門に着いて、じゃあと先に進もうとした戸倉は腕を掴んでそう引き止められた。
「佐久君、大丈夫ですか。もう晩いですし、些か酔っていらっしゃるようですし、やっぱり今日くらい僕の家にいらしてください」
 確かにアルコールを摂取した身体がまっすぐという感覚を失わせていたけれど、立ち歩きに支障は見せなかったはずだ。それでも桐谷に引き止められた所為で崩した体勢がその影響を匂わせたかもしれない。あのくらい大丈夫だ、というように桐谷の腕を丁寧に払い、笑みを見せながら手を振って見せる。
「んだよ、まだ言ってんのか」
「だってそんなふらふらで……、もしかして、昼に君を襲ったことで警戒してるんですか」
「……っ」
 提灯を持った案内人に聞かれないようにか、或いは夜の闇に潜む何かに聞かれないためになのか、内緒話をするように屈み込んで顔を覗き込まれるようにしてそっと囁かれると余計に昼間のことを思い出して戸倉は動揺した。瞳を覗き込まれただけでその冷たい手が今も這い回っているような気さえして、戸倉はふるりと身体を震わせる。酒の所為で確かにガードが下がっているのかもしれない。しかしそれもこれもみんな桐谷の所為だ、とばかりに睨みつけた。
「そういう顔されると……、困るのですが。仕方ないですね、では、くれぐれも気をつけて。何かあったら大声で叫んでください。近くですので、すぐに駆けつけますよ」
「大声って……、電話じゃねえのかよ」
 いったい何をそんなに心配するのだろう、と思いながらもそれを聞くとまた桐谷の家に誘われそうな気もしたし、何より話が長くなるのが面倒なので敢えてそこは聞かなかった。ただあまりの言い様に脱力しながらつい漏らした言葉に桐谷がまた律儀に返答する。
「ええ、さすがに電話まで用意は出来ません」
「じゃなくて、携帯があんだろ」
 何でこんな意味の無い会話をしているのか、と面倒臭くなりながらも戸倉もまた律儀に答えると、桐谷は何故か不思議そうな顔になるのだった。
「……携帯?」
「?」
 会話が噛み合っていない、と思うのだけれど、何が悪かったのか酔ったままの頭では分からない。
「あの、すみません。何を携帯するんですか?」
 まさか携帯電話というものの存在を知らないのではないか、という小さな着想を得た戸倉は、なおも不思議そうに見つめてくる桐谷にそれが馬鹿馬鹿しい発想ではないことを一秒、二秒と続く沈黙の末に納得するはめになった。この閉鎖的な村なら或いは納得できるのかもしれないが、桐谷は久しぶりにここへ帰ってきたというからには暫くは外の世界に住んでいたのだろう。そもそもここは電波が通じるのかと疑問に思った戸倉は後で確認しようとだけ決めて後はもう本当に面倒臭いと諦めることにした。
「……お前さ、いつの時代の人間だよ。まあいい、今日はもうほんと疲れたから」
 本当に面倒臭いのだ。そういう気持ちが言葉から伝わったのか、桐谷もそれ以上は引き下がらなかった。小さくすみません、と呟いてゆったりとした笑みで見送ってくれる。
「じゃあ、また明日」
「ああ、じゃあな」
 そんな約束みたいな言葉に迂闊に返事をして良かったのか。それもこの村の風習なのか戸倉が立ち去るまでは見送り続けるというような桐谷の様子に背を向けた戸倉は夜道を歩きながら僅かに不安になったけれど、酔った思考ではあまり切迫感も無くそれ以外の思考にすぐに埋め尽くされ忘れてしまっていた。



 案内された家は叫べば聞えるほど近いと本人が言ったとおり桐谷の家のすぐ隣で、分かれてすぐに門まで辿りついた。しかし隣とはいえ叫んだところで本当に声が聞えるとは到底思えない。その終わりが闇に紛れて見えないほど続いている塀もその大きさを窺わせるのだけれど、何より植木の陰に見え隠れする屋敷そのものが夜目にも見紛うばかりの大きさなのだった。門の前で案内役の人間は言葉も無く去っていき、ひとり取り残された戸倉は手にした提灯だけの明かりを頼りに門を潜る。そこから玄関まで結構長い距離があったのだけれど、どの位置からも家の全体像を把握できないのだ。
 玄関先まで辿りつき渡されていた鍵を使って扉を開け、中に入るとそこは不思議な匂いが漂っていた。古を感じさせる、脳に直接刺激を与えられるような力のある匂いだ。明かりをつけ靴を脱いであがった戸倉はひとりだけの空間にほっとしたのも束の間、すぐにこの屋敷の広さにうんざりすることになる。一応これから泊まることになる家なのだから全体を把握しておこうと思い入った部屋から明かりを灯し戸締りを確認して歩いたのだけれど、一番近くの襖から入った畳敷きの和室の残り三方もまた襖があり、開いて先へ進んでも、また開いて進んでも開く先から新たな部屋が待ち受けていて、時折庭に面した回り廊のある障子やまた別の扉が並んで見える内側の廊下が走っているのにぶつかるのだった。一階建ての和風建築ということだけは確実だけれど、これは全体を把握するのには少し時間が掛かりそうだ、と判断した戸倉は朝から歩き続けた疲れに加えて昼過ぎからずっと桐谷と一緒にいたことによる緊張感、更には酔いも手伝ってすぐにでも眠りたいとこれ以上の屋敷の探索は諦めた。探索の途中で見つけた布団を抱えると最初に開いた部屋に戻り、その四方に外部からの侵入者に対する特殊な仕掛けを施し、それでひとまずは満足して布団を投げ出すように敷いてそこに倒れ込むようにして横になった。
「つ、かれたー…」
 それにしてもこの酷い倦怠感は何だろう。確かに朝から歩きどおしで桐谷に会ってからも緊張の連続、加えて滅多にしない飲酒とこの倦怠感を理由付けるのは簡単だけれど、戸倉も自分の体力は把握しているつもりだ。こんなことくらいで、という思いは強い。では他に何か理由があるのかと考えようにも強い眩みに思考が働きそうに無い。或いは鼻腔を刺激するこの屋敷のどこにいても感じるあの強い匂いがそうさせるのかもしれなかった。
 倒れ込むようにして布団の上に横になっていた戸倉はごろりと転がって仰向けになり、改めて高い天井を目に入れる。太い梁に木目の鮮やかな板、美しいそれらすべてが闇を孕み木目の隙間から何かが覗いていてもおかしくないとさえ思えて確かめずにはいられないとばかりにじっと見つめた。見ている先の模様が動くはずも無いのだけれど。それにしても何て静かな夜だろうと思う。そうして戸倉は感嘆しつつ、周囲の静けさ、どこかしら漂う神聖さを犯さないようにと吐き出す溜息から呼吸に至るまでを自然とひそやかなものにしていた。先ほど屋敷内を歩き回った際の立ち居振る舞いにしても、音を立てないよう気をつけることでいつの間にか品を保つのと同じような物腰になってさえいただろう。しかしそうして静けさ意識すると、何故か今度は自分を取り囲む世界を賑やかにさえ感じるようになった。風の音は無い。木の葉の擦れる音も無い。ただ競うように声を張り高に鳴く虫たちの音と、塗り込められたような漆黒に押し潰されそうだと思った。
 三上、とゆっくり噛み締めるように改めてその名を脳に描く。
 夏休みだというのに朝も早くから出かけていった三上もさすがにもう今頃は家に戻って、そして戸倉が消えたことに気付いているだろう。朝、出かけていく三上をいつものように見送ったときには、戸倉でさえもまさかこうなるとは、自分があの家を出て帰らないという選択をするとは思ってなかった。家を出なくては、と思い立ったらもう居ても立ってもいられなくて、着の身着のまま家を出てしまったのだ。そしてこれからどうしようかという見通しもまるで無い。ただ、ひとりになって考える時間が欲しかった。それにはこの閉鎖的な空間はちょうどいいのかもしれない。
 目を開いていればその隅々まで確かめずにはいられない不気味な闇は目を瞑ることで遮断し、自らの作り出した闇の中で戸倉はまた静かに深く息を吐き、吸い込む。強い匂いは次第に戸倉を落ち着かせていた。落ち着くというより頭の中が冴え渡るような清々しい感じだ。
 しかしそうして明瞭になった脳を働かせてこの半年のことを整理してみようにも、うまく言葉に表すことが出来ない。そもそも言葉にしたくないものを味わうために三上の傍に居たのだから当たり前なのだろうけれど、そうして半年の間存分に味わったものを整理しようとして、戸倉は失敗したのだ。だからここにいるのだ。こうして目を瞑って三上を思えば、その温かさに触れた、幸せな記憶ばかり甦る。
 三上は優しかった。
 この半年のどこを切り取ってみても、改めて驚くほどに何もかもが幸せな記憶ばかりだ。温かい食事を共にすることも、何も心配したり警戒したりする必要も無く穏やかな眠りに落ちることも、傍にぬくもりがあることも、他愛ない口喧嘩をすることも、ただ、何の会話も無く傍にいるだけの時間さえ。何も考えずに享受している間は良かった。その幸せが所詮他人でしかない三上が与えてくれるだけでは決して得られるものではないのだと気付いていない間は。しかし実際それは与えられるだけでは味わうことが出来ないもの、自らが積極的に幸せを感じようとしなければありえない時間だったのだ。
 感じようとした、というのもまた語弊があるだろう。無意識のうちにも幸せを貪ろうとした、という方が近いのかもしれない。そしてそれを認識した途端、すべてを理解した戸倉は絶望に近い思いに捕らわれた。いつからか幸せの裏で息詰まるような苦しさが胸を占めるようになったのは独占欲だったのだ。これが好きという感情なのだと、今更ながらにやっとで分かったのだ。
 知識としては最初から好きという感情がどういうものか知っているつもりだった。しかし自分がそれを感じることがあるとは思っていなかったし、だからこそ安易に知りたいと言うこともできた。三上から告白されたときも、それを教えると言われたときも、戸倉はどうせ無理だろうと軽く高を括っていた。
 まさかこんな苦しみがあるなんて。
 何かを得る資格なんて無い自分が他人を求めてしまうなんて。
 まるで知らない間に自分が作り変えられてしまったみたいだった。ずっと求めていたものを、目指してきたものを、いつの間にか完全に見失っていた。抱えていた弱さを克服して一段階上の強さを手に入れるはずだったのに、今までよりもずっと脆くなってしまったような気さえするのだ。三上の傍は心地良すぎて、人間は実に弱く簡単に楽な方を選んでしまう生き物なのだから、あっという間に研いでいた刃は錆びて毀れる。それが良いことなのか悪いことなのかは別問題として、ただ戸倉はそれが嫌だと思うのだ。そんな自分が許せない。そうして固い気持ちでここまで来たにも関わらず、こうして三上を思い出しては会いたいと思ってしまう自分が、どうしようもなく弱く愚かなものに思えて苦しみのうちに絶望するばかりだった。



 先の見えない思考にまどろみいつしか夢とも判然としない闇に意識が落ちていた戸倉は、不意に何かの鳴き声に目覚めた。それはか細いすすり泣きのようにも聞えたし、野太いうめき声のようにも聞える、どちらにしても恐ろしい音だった。完全に目を開いて意識をはっきりさせた戸倉は暗闇の中で身体を起こすと明かりも灯さず、周囲を警戒しながら状況を探った。徐々に闇に慣れてきた目で腕に嵌めたままだった時計を確認すると時刻は早朝の三時半。縁側の方の端に寄ってそっと障子の向こうを窺えば外はまだ月明かりがあるだけの闇が広がっている。そうして暫くじっとしていたけれど、うめき声はそれ以降はまるで聞えない。気のせいだったのかと僅かに気を抜いた瞬間、戸倉の耳は今度ははっきりとした物音を捉えた。かたりと何かが鳴る音、こそこそ移動するような音。屋敷のすべては把握していないけれど、周囲の部屋は確認してあるのだ。泣き声が聞えたのは縁側がある方から少し右より、そして音が聞えたのは屋敷の内側からだ。戸締りに漏れがあったのだ。一度気になると戸倉はもうそれを確かめずには居られなくなる。どこか開いている扉があるから風が吹き込み、かたこと音がするのではないか。
 しかし詰めていた息を静かに吐き出して、戸倉は布団の上に腰を下ろす。すべて聞えないふりをしていなければならない。決して興味を惹かれて物音の源を探してはいけない。呼ぶ声に誘われて扉を開いてはいけない。どの道ひとりでこの広い屋敷の全部の戸締りを確認するのは無理なのだ。戸倉が次へ次へと部屋を確認している隙に確認を終えた部屋に紛れ込まれたら仕舞いなのだから。一度に全部が無理ならあとはもう自分の周囲を確認して、仕掛けを施したから大丈夫とそれで納得するしかない。それにこういう状況なら幾度も経験してきたため大きな不安は無い。
 すると見計らったようにまた泣き声やうめき声のような音が闇の中に流れ出す。しかし横になり目を閉じた戸倉はそれが耳から聞えてくる音なのか自分の頭の中で再生される音なのか次第に判然としなくなる。不穏な子守唄に包まれながら、溶け出すような意識が様々な情報を脳裏に映し出していった。
 ふと屋敷を中途半端に確認している際、庭を歩く黒猫を見たことを思い出した。何となく声を掛けたらふいと顔を逸らせて悠々と歩いて行ってしまったのだけれど、纏う色と毅然とした態度が何となく三上を連想させたのだ。物音は或いはあの黒猫のものかもしれない。どうしてそれを忘れていたのだろう。
 そういえば桐谷の姉はどこで神隠しにあったのだろうか、と思いつつも緩い安堵に浸るようにして意識は無くなった。
 長い一日だった。










2010/2/9  雲依とおこ







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