まぼろしのくに




 金属棒を振り被り正面から駆け寄ってくる相手の腕に拳を沈め、骨が折れる感触が伝わるのを確認するのと同時に背後から忍び寄っていた相手の鳩尾に踵を見舞った。暫くは意識が戻らないだろうその相手を放って視線を正面に戻すけれど、先ほど腕を折られた男はまだ向かってくるだろうと思っていたのに戦意を失い呻くのみで一気に興が削がれた。もっと楽しめるかと思っていた三上はその不満をぶつけるようにして頭を殴って倒してから静かになった路地を見渡す。路地を埋めるのは確かにたくさんの人間であるのに、そこに動くものはもう何も無い。隣接する建物の排気口やエアコンの室外機の唸りを上げるような音に僅かに呻く声も混じっている。饐えたような匂いがそこに充満する蒸した空気を余計に嫌なものに変えていた。
 唐突に三上はこんな空気を一秒も長く吸っていたくないと思った。夏休みも後半に入った学校に戻り、誰もいない校舎の静謐さを味わいたい。暴力衝動を満たす運動による興奮が冷めた所為だろうと冷静に分析した三上は大して乱れてもいない服装をあえて整えた。
「河野」
 呼び声に応じて路地に姿を見せた河野は制裁を受けた体格の良い高校生の一団が酷い怪我を負って路地に伸びている光景を見渡した後もいつものことと特に感慨を見せず、ただ主である三上の言葉が続くのを待っている。
「明日から一週間くらい居なくなるけど、何かあったら君で対応して。急用以外で連絡は入れないように」
「了解しました。それで、どちらへ?」
 自らの意思だけを頑なに貫き、気ままに生きる三上が姿を消すことは珍しくない。大抵その間は河野や他の委員が代わりとなって動くのだけれど、さすがにそれが一週間となると滅多に無いことだった。歩き出しながら三上は続ける。
「さあ、まだ決めていよ」
「……戸倉さんですか」
 察しの良い河野の言葉に、そんなにも自分の行動は分かりやすいのかと三上は小さく笑みを漏らした。夏休みも残り一週間と少し。どうにも先日から落ち込んだ様子の戸倉を連れてどこか旅に出ようと思っていた。
「どうやら長野が盆には忙しくてできなかったからって今頃母親と帰省しているらしい。それで彼、ひとり残されて寂しそうだからね」
 夏休みにも関わらずそれまで毎日のように彼の最初であり、恐らく彼の認識では唯一の友人である長野の許へ出かけていた戸倉は、だから唐突にすべきことを失って途方に暮れているのだ。何だか妙に幸せそうな表情をして勝手に何事か納得しているらしい河野の様子はどこか面白くないけれど、今はそれを気にしている場合ではないとこの場の処理を任せて三上はひとり路地を後にした。
 先ほど河野に語ったのはあくまで安易で楽観的な推測であり、希望的観測でもある。その同じ思考で、戸倉の落ち込みの原因は別にあると三上は思っていた。
 そろそろ戸倉は気付き始めているのかもしれない。この半年、三上が与えてきた環境が自分の望む方向とはまるで違っていたことを。急いて事を運ぶと戸倉の気質上、反発されるだけだと分かっていたから、殊更ゆっくりと、気付かれないように、実に慎重に事を運んできた。戸倉がそうと気付いたときには、もう手遅れで三上から離れられなくなっているように願いながら。
 今はまだ駄目だ。戸倉がどちらを選ぶのか分からない。少なくとも気付いたからといって簡単に元の木阿弥ということだけは無いだろう。しかし今までのように大人しく傍に居てくれるとも限らない。
 さて、戸倉は気付いただろうか。今朝の様子のおかしさが、長野と暫く会えないが故のものであれば良い。そうではなく、己の今いる場所が望むものと違うことに気付いたのであれば、そこで戸倉が出す結論は何だろう。三上の示した場所を心地良いと選んでくれるのなら今日帰る家に戸倉は居るだろうし、それを振り切ってまで元の場所に戻ろうとするのならもう家には居ないだろう。
 様々な可能性を考えるうちにも歩いていた三上は自分が足を止めたのに気付いた。知らないうちに足は目的地に向かって道を辿り、そして到着したのだ。頭を上げたそこは学校の校舎が佇んでいるのではなく、自分と戸倉が一緒に暮らす家があった。確かめるのだ、と足を踏み出す。
「ただいま」
 声を掛けてもしんとした静寂しか返ってこない。昼過ぎの太陽が照らす屋外との対比で余計に薄暗い廊下を渡り、部屋をひとつひとつ確認して歩いた。どこも静かで、誰も居ない。
 戸倉は出て行ったのだ。
 そう結論を出した三上は誰にとも無く頷いた。
 目の前に二つの選択肢が示されたとき、戸倉はより厳しい道を選ぶだろう。そういう戸倉だからこそ、三上は好きになったのだ。だからこの選択は三上が選択したのも同じ。
 戸倉は出て行ったのだ。
 改めてその言葉が、その事実が三上の胸に重く圧し掛かる。分かっているのに、そういう戸倉だからこそ好きになったはずなのに、三上の胸は戸倉の喪失をどんな理由があっても認めようとはせず勝手に苦痛に悶え取り戻すのだと騒ぎ暴れて今すぐ行動すべきだと訴える。頭で理解していることが心で納得できない。
「仕方ないね」
 この瞬間から旅行に充てるかもしれなかった一週間は戸倉を連れ戻すための時間に変わった。それも良い。これは新たな関係へ以降するための、いずれ踏むべき道のひとつだ。



 思い当たる節を探し回ってもその姿を見つけ出すことは出来ない。憎らしいくらい晴れた空を仰ぎ、三上は嘆息する。掴んだ手がかりと言えば、最近戸倉が立ち寄ったという店で変わったものを購入したということ。たとえば寝袋を購入していること。たとえば黒髪のウイッグを購入していること。聞き込みをするときに目立つあの髪色を特徴にあげていた三上は、なるほどこの探し方では見つからなかったはずだと納得する。
 新たな情報はしかし決して事態を良い方へと動かしてくれない。寧ろ手詰まりになったと言っていい状況だった。あの特徴なしに探し出すのは困難だろうし、何よりウイッグを装着してまで身を隠そうと気を配っているのだから、簡単には見つからないだろう。まる一日歩いてそのことを実感した三上は、戸倉が本気で自分の前から姿を晦まそうとしているのだと理解するしかなかった。だからと言って諦めてなんてあげない、逆に思い知らせる良い機会だと三上は前向きに考える。
 電話を持ち上げ河野に掛ける。実は探し回って幾分もしないうちに三上の目的を察知した河野が「人を探すなら数が必要です。委員を使いましょう」と進言してきていた。委員とはすなわち三上を委員長とする委員会のメンバーで、その実この町を力で支配する組織だった。そのときは自分で探すことにこそ意味があるのだと思っていた三上は「必要ない」と短く切り捨てたのだけれど。
「……君が言ってた件だけど」
「戸倉さんですか」
 まるでこうして連絡が来るのを待ち構えていたようだと即答する河野に対して思う。勘が良いところは気に入っているけれど、これではまるで自分の方が愚鈍なようではないか。
「そう、どうやら単純に迷子になったわけじゃないみたいでね。黒のウイッグを購入している」
「了解しました。では、その方向で捜索いたします」
 言葉にしなくても、また、一度は断ったものなのに、河野は電話の目的が捜索の開始を指示するものだと疑ってもいないようだった。正しい判断に三上もそれ以上は口にしない。
 そうして委員を総動員して目撃証言を募ると、さすがにひとりで歩くよりも情報は多く集まった。幾ら髪を目立たなくしたとしても、隠しようの無いあの顔立ちでは誤魔化せない。すっかり暗くなったころまでには凡その足取りが掴めた。
 しかし駅で切符を購入していたのを最後にその証言は途切れてしまう。電車に乗って移動したのなら、行動範囲はもう捉えきれないほど広くなる。近くで降りたのか、遠くまで行ったのか、どの方向へ。どこで降りたのかまで探ろうと思えばもう委員の頭数では無理だ。
「手詰まり……? まさか」
 三上はゆっくり口元を笑みの形に引き結ぶ。どんな状況でも見失うわけにはいかない。見つけるまで探すだけだ。
「これからだ」



 見つからないままひとり家に戻った三上は、居ないだろうと分かっていながら実際そこに戸倉が帰っていないのを確認するとじわりと胸に苦いものが広がるのを感じていた。過剰に三上が与えたものによって暫く停滞していた戸倉の意識が一度動き出してしまえば簡単には帰って来ないだろうことは十分予測していたことだし、これは必要なことと割り切ってもいたはずなのに、実際にこうなってみると何故だか静かにショックを受けている。そんな自分を不思議に思うわけでもなく、三上はただ複雑な気持ちを噛み締めた。
 これが、喪失感というものなのか。
 いや、まだ失ったわけではないのにこんな感傷に浸ってどうする、と随分と弱気な自分を嘲笑って三上は前を見据える。一緒に暮らしはじめたころ、こうして遅くに戻ると戸倉は部屋の中で明かりも灯さず、部屋の端っこで何をするでもなくぼんやり座り込んでいたと思い出しながら、せめてもの手がかりにと戸倉が過ごしていた部屋に入って確認してみると、驚くほど何も無いことに改めて気付かされる。もともと部屋にあったもの、三上が与えたもの、僅かばかりの学校の品々、それだけが主を失っても変わらない落ち着きを持って部屋に残っているだけで、戸倉の個性を示すものはそこには無かった。残されていない、というよりもともとそういったものを持たない主義なのだろうけれど。
 半年とはいえ二人で暮らしてきたのだ。少しずつ、慣れてきていると思っていた。しかし、やはり戸倉の中には変えられない部分があったのだろう。
 一緒に暮らすようになってから、いろいろな顔を知ることができた。他人と長くいることに慣れていない戸倉を、驚かせないように、怯えさせないように、さりげなく距離を置いて接することからはじめた。もともと三上も他人に干渉したことなど無いから、そのすべてが手探りだ。根気強く、戸倉の意識に刷り込むように教えていこうと思った。
 まず驚いたのは、戸倉は気が向いたときしか食事をしないというか、食事そのものを忘れていることが多いことだった。学校に居る間こそは辛うじて昼に菓子パンを口にするようだったけれど、それは長野が居るからだろう。しかしそれだけでは栄養は足りるはずもないし、成長期の身体に肉がつくわけもない。何をやっているのか友人として傍にいる長野を責めたいところだけれど、恐らく長野は朝夕でしっかり食べているのだろうと思っているだろうし、何よりそうしてしまえば責任を感じた長野からの干渉が多くなってしまい三上の都合が悪くなる。
 食事をよく忘れるのは忘れたという気持ちがあるからだ。すなわち戸倉は食事が嫌いなのだ。
 そうして極端に食事を嫌う戸倉にその大切さを教えようと十分に栄養が取れるような料理を用意した。どうせ毎日自分の分を作っていたのだから、それが二人分になっただけなのに、戸倉は随分と驚いて、何だか申し訳無さそうな顔をした。悪いことをしているわけではないのだからそんな顔をする必要も無いのに、とそうした反応に苛立ちながら、また三上自身もどうして自分がこんなに苛立つ必要があるのかと自問した。
 そして得た答えはただ、戸倉に遠慮なんてして欲しくない、それだけの理由だということだった。
 そう、三上は戸倉に「教える」と言いつつ、自分もまた戸倉から得られる感情に学ぶことが多かった。一緒に居て得られる感情はその殆どがはじめて得られるものばかりだったのだ。苦悩することもあるし、苛立ち、怒りもするけれど、それらもすべて受け入れたいと思ってしまう。  だから三上はひたすら我慢強く戸倉に接してきた。他人と時間を過ごすことに、というよりも自分に慣れさせるよう夜は何をすることもなくただ寄り添って一緒に寝た。食事は必ず一緒に採るようにした。
 はじめはご飯も食べずにソファに丸くなって寝ていたり、三上が居てもふらり勝手に別の場所へ行こうとしていた戸倉は、毎日我慢強く同じことを言い決して食事をおろそかにさせずひとりで眠ることを許さない三上に対して不思議でたまらないといったように戸惑ってばかりだったけれど、ひと月も経つころには三上の帰宅にあわせて食事を準備していたり、布団の上で三上が来るのを待っていたり、あまつさえ早く寝ようと袖を引いて催促するようにもなった。ただいま、と言っておかえり、と返るようになったのもこの頃だ。
 その時間すべて、せっかく手に入れ積み重ねたそれを一秒たりとも失うわけにはいかない。ふと手が握りっぱなしだったことに気付いた三上が強張ったその指を一本一本解くようにゆっくりその手を解くと、中から携帯が転がり落ちた。定期的に戸倉の携帯に連絡を入れてみていたのだ。掛けるたびに電源が入っていないか電波の届かない場所にいるかのどちらかだと無機質な声が告げるばかりだったけれど。
 リビングへ戻った三上はいつも戸倉がするように明かりもつけずに部屋の隅に座り込んでみた。戸倉は寂しいと思ってくれないのだろうか、と流れるような緩慢な思考がそう呟きかけて、すぐに自分で否定する。たとえ寂しいと思ったところで、戸倉なら尚更、頑ななまでにそれを口にはしないだろう。寂しいと思うことを弱いことと捉え、他人にそれを晒すことを醜いことと思っているだろうから。
 しかしそれの何が悪いというのだろう。弱く醜い部分でもそれを晒せばいいのだ。衆目に晒せといっているわけではなく、三上の前でだけでなら、いくらでも。それは決して悪いことではない。



 眩しいほどの白い光を放つ朝日に照らされる緑の田畑や森も薄く雲の伸びる晴れやかな青空も少しも三上の感情を変えることは無い。ただそこに何か手がかりが無いかじっと観察しながら三上は電車に揺られていた。朝一番に、最後に戸倉が目撃された駅で乗ったらしい電車が向かったのと同じ方向へ地図を手に闇雲に旅立ってみることにしたのだ。
 ふと、何かが気になり次の駅で三上は降り立った。何が気に掛かったのか考えていると、そういえば先月、同じような景色の映ったパンフレットを戸倉が羨ましそうに眺めていたのだと思い出した。
 もし戸倉がここで下りたのなら、同じ場所に立てば、同じ空気を吸えば分かるかもしれないという根拠の無い予感があったのだけれど、どうやらそんな便利な感覚は働いてはくれないようだった。
 それでも自分の最初の直感を信じて足を踏み出してみる。幸い目に入る範囲で道は一本しかない。三上の目の届く範囲で寛ぎパンフレットを眺めていたとき、戸倉は何を考えていたのだろう。そのとき三上は傍に戸倉が居ることだけで満足していたし、少し忙しくて何か言いたそうな素振りを見せながらも結局は口にしないで溜息に変えてしまう戸倉に何も追求しなかった。
 一緒に行こうと、一緒に行きたいと、そう思っていてくれたのだろうか。戸倉の思考を辿るように、その道を信じて辿る。



 黙々と思考しながら歩いていた三上がふとその耳に微かな水音を聞いて足を止める。周囲を見渡し、道の先を渡り森の中を流れる川を見つけると胸が高鳴った。
 知っている、と思った。
 これは戸倉が好きな景色だ。
 咄嗟に駆け寄った三上はまず道の左側に向かって慎重に周囲を探る。そこに何の痕跡も無いことを確認して僅かに落胆しかけたけれど、心を奮い立たせて道の反対側へと向かった。
 そこには、慎重に探るまでもなく、呆気ないほど分かりやすく人がとおった形跡があった。普段あまり人がとおらないのだろう草むらの中に、つい最近人が踏みしめたように潰されたあとがあったのだ。前方にある森の奥を見透かすように見遣っても薄暗さによって曖昧に色が沈むだけで何も分からない。地図を取り出し確かめてみるけれど、この先にはただ森が続くだけで何も無い。それは、戸倉だけでなくそれ以外の人間が入る理由も無いということだ。景色につられて戸倉がふらふら入り込んだという可能性の方が僅かに高いのではないかと感じて高揚する心のままに三上はその痕跡を追った。
 川沿いに続いていた痕跡はしかし一度川に寄るとそれ以降は徐々に離れ、森の奥へと続いていく。当てもないようにしか見えない痕跡を辿りながらいったい何を目印に進んだのかと訝る三上は、途中で草が広く薙ぎ倒された場所に出て困惑を深めた。ひとりではなかったのかもしれない。
 或いはやはり戸倉ではなかったのか。
 後者なら単なる無駄足だったと溜息を吐いて引き返すだけで特に構わないのだ。
 しかし、前者だったら、揺らぐ心を抱えた戸倉が誰かと旅を共にしているのなら、簡単には連れ戻せないかもしれない、少しややこしくなるかもしれない、そう予感して眉を曇らせた。










2010/2/9  雲依とおこ







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