まぼろしのくに




「おはようございます!」
 心臓を拳で打ち、ひっくり返されると思うような快活な声によって意識を覚醒させられた戸倉は、開いた目に映る光景も自分が置かれた状況も分からないことに自分が何によって目覚めさせられたのか忘れるほどに激しく混乱し、反射的に身体を起こして身構えていた。素早く視線を周囲に遣れば、障子越しにやわらかく注ぐ朝の光が傷みの少ない綺麗な畳に静かに落ちている。ここは、と何か思い出せそうになった瞬間、三方を囲む襖のひとつが開き、戸倉の緊張感は更に高まる。ひょこりと覗いた顔は見覚えのあるものだった。
「いた、佐久君」
 畳に片膝をつき身構えていた戸倉を見つけ、途端に嬉しそうに顔を綻ばせたのは桐谷だ。邪気の無い笑顔を見つめることでやっとで昨日眠りに落ちるまでの出来事を思い出した戸倉は、脱力するように肩から力を抜いてゆるりと息を吐き出した。そうした戸倉の様子に構うことなく大きく襖を開くと光と共に部屋に入ってきた桐谷は、その腕に抱えられていたものを重い音を立てて畳に下ろす。蔦で編まれたそれは大きくしなやかな籠だ。何気なく中を覗き込んでみると、そこには様々な野菜が入っているようだった。採りたてのようにどれもこれもが瑞々しい。
「空気入れ替えないと駄目ですよ」
 籠の中にある食材に気をとられていた戸倉が掛けられた声に振り返ると、障子を開け放った桐谷がその足で次々に襖を開け放っていく後姿が目に入った。瞬時に戸倉の脳に小さく痺れるような警告が鳴り渡る。
「あ、ちょっと……!」
 止めようと浮かせた腰も掛ける声も中途半端になったまま、どうして慌てて制止しようとしたのか遅れて自分で理解した戸倉は、同時にその拘りも諦めるように動きを止めた。
「何……?」
「あ、いや」
 流れ込む朝の新鮮な空気をあちこちの部屋に流し込んで気持ち良さそうにしていた桐谷がそうした戸倉の様子に気付いて不思議そうに振り返って問いかけてきたけれど、曖昧に返して誤魔化した。もう遅い、そう思ったのだ。寝入る前に感じた不審な気配。朝になったら部屋を確かめてみようと思っていたのだ。何かが入り込んでいたのなら、その痕跡を見つけられるかもしれないと思っていたけれど、こんなに豪快に開け放たれた後では何も分からないだろう。諦めた戸倉は溜息を吐き、改めて口を開いた。
「……で、朝っぱらからいったい、何しに来たんだ」
「ああそう。食べ物、持っていなかったと思って。朝食を」
 そう言って指し示す先には先ほど畳の上に無造作に置かれた野菜がある。昨日戸倉が何も食べ物らしきものを持っていなかったのに気付いて、わざわざ朝から食材を届けてくれたのだ。もともと食事自体に興味の無かった戸倉はそうした以前なら朝食なんて要らないとつき返していただろうけれど、この半年ですっかりその習慣が身についてしまっていて何となく素直に従う心地になってしまった。三上が、戸倉を変えたのだ。
「そういうお前だって、ってお前はそれ、どうしたんだ」
 久しぶりに村に帰ると言っていたのに、昨日はずっと一緒にいて何も購入していないのを知っているのに、そんな新鮮な野菜をどうやって手に入れたのだろうかと戸倉は首を傾げる。朝市でもあるのだろうか。
「起きたら家の前に置かれていました。供え物みたいな感じかな」
 あっけらかんと言ってのけるその言葉から状況を想像して、浮かび上がるその映像に思わず戸倉は吹き出していた。
「……供え物、って……、変なヤツ。っていうか、変な村だな」
「そうかな。お陰で、でも、帰って来るたびにこうして助かってます」
 何もせずに食料をもらえるのなら確かに助かるだろう。久しぶりに帰郷した村人が苦労しないようにと皆で助力する風土があるのかもしれない。何となく籠を持ち上げ予想外に重いそれにふらふらしつつしながら歩いていく桐谷について行くと、立ち止まるその背にぶつかりそうになって慌てて足を止めた。反動で投げ出すように籠を床に置いてしまったので、中身にあるかもしれないやわらかなものが無事か心配になる。
「でもここは……、ああ、やっぱり駄目か」
「え?」
 座り込んで籠を抱え、上に乗せられている野菜から順番に退けるように出していくと、案の定中から壊れやすい卵が出てきてどきりとしたけれど、上に乗せられた野菜が軽いものばかりだったことと、下に米がざっくり緩めに入っていたことで全部が無事だった。ほっと息を吐きながら何が駄目なのかと桐谷の視線の先を追うようにして向こう側を見ると、台所らしきその場所はがらんとして何も物が無い。足を進めた桐谷はすべての扉を開け、ガス台を確認してから溜息を零した。
「鍋や包丁が無いどころか、火が使えないままだ。やっぱりうちへおいで」
 ひとりごちて振り返った桐谷は見上げる戸倉ににこりと笑いかける。確認するため売るように床に野菜を広げて座っていた戸倉は当惑して答えられないまま、腕を掴んで力任せに引き上げられた。落ちそうになったトマトを慌てて抱えなおす。
「待てよ、これ手分けして持って」
「それは君にあげる分。また後で食べて」
 そう簡単に言うと桐谷は戸倉が中途半端に抱えたままだった野菜を奪うようにして床に戻し、意図を理解できずに戸惑う戸倉の手首をしっかり掴みなおすと強く引きあげた。
「桐谷っ」
「何ですか? うちならすぐですし、何より調理済みです。最初からこうするべきでしたね」
「じゃなくて!」
 困惑しながら言い合ううちに引っ張られるようにして玄関を潜って過ぎると、来たときに通った門へと続く道を途中で逸れる。そのまま庭を横切って通用門のような小さな木枠を潜ると、そこはもう隣の桐谷の家の敷地だった。結論が出る前に到着してしまったのだ。開け放たれたままだった玄関扉から中に入るとやっとで桐谷は手を離し、客間に戸倉をとおすとどこかへ消えていってしまった。
「……」
 ここまで来たのなら仕方ないだろう。抗うことを諦めた戸倉は溜息を吐いて改めて周囲を見渡し、ここも久しぶりに家人が帰ってきているはずなのに綺麗に掃除され調度も整えられていると密かに感心した。人が住まなくなった家は荒れる。空気は淀み、そこにあるすべてのものが急速に色を失い枯れ廃れていき、さながら家という物質ではなく概念そのものが死に至ったかのように全体として荒れている様を醸し出すのを何度も見てきたから、ここがそうした家と違うことが戸倉には良く分かる。昨日桐谷が帰郷したのも連絡もなく唐突だったようなので、帰ってきてから村長の家出持て成されここへ来るまでの長くもない間に村人の手で片付けられたのだろう。もしかするとそうしてくれる血縁者でも居るのだろうか。
「お待たせしました」
 入ってきたのとは違う襖ががらりと開いて盆を手に桐谷が入ってくる。盆の上には質素ながら上品そうな朝食が乗せられていた。ふわりと漂う味噌汁の香りが戸倉の胃袋を心地良く刺激する。
「佐久君?」
「……いや、悪い」
 並べられた食事は二人分だった。桐谷は先に食事をしてから来たのかと思っていたら、まだ食べていなかったのだ。何とはなしに不思議に思いながらも、誰かと一緒に食事をとることに安堵している自分も居た。ひとりでいることには慣れていたはずなのに、いつの間にか他人といることに安堵するようになり、ひとりを寂しく思うようになったのは、これは弱くなったということなのではないか。三上は自分をどこへ導こうとしていたのだろう。そうして考え込む戸倉に気遣ったのか、食事中は会話を交わすことなく互いに黙々と静かに食べ終えた。
「宿と飯、……その、助かった。代わりに何かオレに出来ることないか」
「……一宿一飯の恩義、ですか。意外に律儀なんですね」
 基本的に戸倉は理由も無く借りを作るのは嫌いだ。何か返すことですっきりするのだし、すっきりしたかった。他者と関わったことをそうして忘れてしまいたいという根がその奥にあるのだと自覚もしている。だからあくまで自分の利己的な都合のために他人を利用しているのにすぎないというのに、偽善的なそれを律儀だと良い風に勘違いされるのはどうにも気が咎めるのだ。
「そういう、つもりじゃなくて」
「じゃあ、祭りに付き合ってください」
 良いことを思いついたとばかりにぱっと顔を輝かせた桐谷は楽しそうにそう提案すると、早速と言うように立ち上がって戸惑う戸倉を急かして立たせる。何か返そうと決めたばかりなので反論はしないけれど、促された立ち上がりながら戸倉は首を傾げた。
「……祭りって? ていうか、祭りに付き合うことが恩を返すことになるのか?」
 疑問を重ねる戸倉に「ついてくれば分かる」とだけ答え、実に楽しそうな笑顔のまま桐谷は外へと向かった。
 屋外に出ればまだ朝の空気が視界を焼く。先ほど桐谷の家まで歩いたときは昨日屋敷に入った通りからの道ではなく、二つの家屋を繋ぐようにして続いていた小道の間を抜けたので上も前も視界も庭に植えられた沢山の木々に塞がれていて分からなかったけれど、隔てる物の無い道に出れば降り注ぐ力強い太陽の光と共に昨日とは違う多くの人の気配を感じた。ここに来てからというもの家に閉じこもり余所者を恐ろしげに隠れて見遣る視線しか見ていなかった戸倉は、慌しく動きまわる皆の活気に満ちてみえる様子はどこもおかしなものなんてない普通のものであるはずなのに、普通だからこそどこか違和感を覚えてしまう。
「祭り、か……」
「今日から三日間、お祭りなんです。今朝は子どもたちが山に向かっていて……、そろそろ帰って来る頃ですね」
 話すうちにも人波と共に騒ぎは村の端に移り、抱き合う親子の姿が遠くに見えた。抱き締められる子どもはすべて男の子で、手には何かを握っているようだ。
 家々の扉は開け放たれ、それぞれ用意した料理が誰彼と無く振舞われている。皆の身を包むのは色とりどりの衣装。家の外壁には不思議な装飾。先ごろ長野と見た祭りとはまるで雰囲気が違うのだけれど、これがここの祭りなのだろう。
「今日と明日、僕に付き合ってくれるなら、代わりに君が望むものをあげましょう」
 目にする光景耳にする音すべてが新鮮で、戸倉はすっかり辺りを見渡すことに夢中になっていた。それにさり気ない声の掛け方にもいつもの穏やかな話し方にも緊迫した空気や不穏な色など見えなかったので緊張や警戒を抱くこともなく、だから、声を掛けられたときも心は半分祭りの雰囲気に残ったままだった。何を言っているのだろうと半分だけの軽い心で振り仰いで、じっとこちらを見つめる桐谷の目と合って、そうしてやっとで戸倉の意識は緊張や警戒を取り戻した。口元は緩く微笑んでいるのにその目は少しも笑ってなんかいない。空洞に近いその瞳を見ているうちに、戸倉は取り込まれてしまいそうな恐怖を感じてそっと視線を外した。
「オレが、望む、もの……?」
 聞いてはいけない。
 そう思うのに勝手に口が開いていた。
 僅かに呼吸が苦しくなる。
 あれほど耳にしていた周囲の祭りの音が遠い。
 鼓動が、呼吸が、激しいそればかりが耳につく所為だ。
「君が向き合い克服したいと願うそれを、僕が、見極めてあげましょう」
 いったい自分が何を願っているというのか。
 そんなもの、ひとつしか、ない。
 どうして桐谷はそれを知っているのだろう。三上といることで見失いそうになっていたそれを見極めるなんて、昨日出会ったばかりの男がどうしてそれを。それよりも今までずっと戸倉が追い求めても手に入れられなかったそれを見極めるなんて、まさかそんなことが、本当に出来るというのか。
「だからこちらにいらっしゃい」
 一瞬何かが身体の中を蠢くような感覚が沸き起こり、何が起こったのかとぎこちなくしか動かない視線を必死に落とせば、体中に鳥肌が立っているのが見えた。空には高く日がのぼっているのに恐ろしく寒く感じて、自分を抱き締めるようにして両腕で身体を抱え込む。
 密かに仕舞い込んでここなら誰にも知られないだろうと安心していた心の中のその部分を遠慮も何もなく土足で踏みにじるようにして暴かれたようだった。なんて不躾な、と崩れかけていた意識を立て直して桐谷を睨めば、そうして反発されることこそ嬉しいというようにやわらかく微笑んで見守る桐谷のその空洞の瞳にまたぞくりと背筋を寒気が這い登る。
「なるほどこれは気位が高い。君は本当に構い甲斐がありますね」
「……っ」
 目の前にいるはずの桐谷の表情が急に真っ黒な影に塗りつぶされたように見えた。表情だけではない、その全身が、塗りつぶされたというより影そのもののようだ。ぞくりと恐怖に身を竦めた戸倉は、視界そのものが暗いのだと気付いて少しほっとした。気付かないうちに太陽が雲に覆いつくされたのか或いはとっくに沈んでしまったのか、と顔を上げて空を確かめようとした戸倉はそのまま平衡感覚さえ失う。
「ああ、顔、真っ青ですよ。少し休みましょうか」
「平気だ。触、んな……っ」
 急に振り仰いだせいで少し立ちくらみがしただけだろう。呼吸も浅く早くなっていた。少し休めば治る。そう思って、戸倉はそのまま近くに見えた木陰に寄りかかろうと思った。近いはずの木陰はしかし、今の戸倉には遠かった。



 知らず鼓動までも同じ周期に刻んでしまうような独特な調子をもつ笛や打楽器からなる囃子の音に、ぼんやりと意識しないまま戸倉は足元に落としていたその視線を向ける。村の中心にある通りには華やかな衣装に身を包んで踊り声を張り上げてうたう人たちの行列が流れていた。またその列の中心あたりでは小ぶりな神輿を子どもたちが競うようにして楽しそうに担いでいる。祭りが徐々に盛り上がりつつあるのだろう。
 暫く動かずぼんやりとそうしたまるで異世界のような華やかながらも異様な光景に見入っていた戸倉は、その同じ空気の中に自分がいることが不思議だったし、とても同じ空気の中に自分が存在しているとも思えなかった。周囲にこんなにたくさんの人がいるというのに、この世界にひとりだけのような疎外感を覚える。しかし異端というならそもそも小さい頃から目立つ外見によって異端扱いされ疎外されていたし、身寄りをなくしてからというもの特にその扱いは容赦なく残酷だった。人が人に対してここまで残酷になれるものかと思うと今でもぞっとする。或いは人として認められていなかったのか。暴力の中に快楽すら見出しそれが普通のこととして続けられたことを、苦しむ戸倉を見ることを心底楽しいと笑って見つめていた人たちの、その笑いの中にあるすっきりとした表情を、一生戸倉は忘れないだろう。
 それは、誰より暴力の虜であり権化であるような三上のふるう暴力とはまるで違うものだ。日々派手に暴力をふるい恐怖の象徴ともいえる三上が何故そこまでするのか、戸倉はそのあまりにも圧倒的な様子をはじめて見たときから分かっていた。それは確かに暴力でありながら、戸倉の理想でもあったのだ。それまで戸倉を苛んできた暴力を払拭するための暴力。決して認められるものではないけれど、その意志は戸倉にとってだけは救いとなるものだった。
 それでも取り巻く環境は殆ど変わらない。長野という友人を得てその周囲の人たちも認めてはくれるけれど、それ以外では今でも自分と違うものを赦せず排除したいという意志をもつたくさんの人によく絡まれる。
 そのうえこの排他的な村では特に戸倉は異端だ。ただ、桐谷といた所為でそれが見えにくくなっていただけ。今こうして強く世界から拒絶されているように思うのは朝から一緒にいた桐谷が隣にいない所為だろうか。
 うたい踊り、祭りに興じるその同じ瞳でこっそりこちらを窺う村人の視線が冷たい棘みたいに肌に突き刺さる。あれが余所者、という声のない言葉が空気を介して伝わってきているのだ。改めて周囲を見渡せばその冷たい視線はあちこちから戸倉を突き刺している。祭りの熱気で昂ぶった村人の剥き出しの感情が、今にも襲い掛かってくるのではないかというほどの鬼気迫った敵意となって戸倉の周囲を取り巻いているようだった。自分を睨んでいるたくさんの村人を見回して、何だか鬼みたいな形相だ、と他人事のように思いながら、しかし鬼は自分なのだと思いなおす。この村で、戸倉だけが異質なのだから。そうしているうちに次第にこの祭りの目的が鬼を見つけ出し排除するためのもののように、鬼である戸倉を炙り出すための祭りのようにも思えてくる。
 そういえばいつからひとりだったのだろう。一緒に祭りを見ながら何か話をしていたように思うけれど、何か大切な話をしたような感覚だけ残っているのに、どうにも頭がぼんやりして内容を思い出せない。思えば何だか自分の思考も何故か途切れ途切れにしか辿れない。振り払うように頭を強く振った戸倉はそうして曖昧な記憶の違和をまた忘れた。
 それにしても進む行列は異様な世界の象徴だ、と繋がらない思考を意識しないよう努めるように強く、今この瞬間のものだけでも大切にしようようにと縋るように思考を追う。夏に地元の祭りに長野たちと参加したけれど、そのときの様子と今目の前で繰り広げられる祭りはまるで違う。あのときは男性こそ殆どがいつもどおりの格好だったけれど、女性陣は花柄模様の綺麗な浴衣に身を包み髪を結い上げ、道の端には屋台がずらりと並んであたたかな光で周囲を満たし、そこかしこに美味しそうな匂いを振り撒いていた。道路には埋め尽くすほどの人出があり、初めて祭に参加した戸倉はこれが祭りなのかと、凄いと確かに感動したけれど、そこにはこんな異世界のような異様な雰囲気は少しも無かった。その感動を、同じ空気を自分が味わっていると実感できたし、見えている道を自分の足で歩いているとまだ感じられた。それが、ここにはまるでないのだ。同じ祭りであってもここまで違うものなのか。この違いは何なのか。  そう、そもそもここは本当に同じ日本なのだろうか。或いは今まで見てきたものすべてが目晦ましの掛けられた日本の姿で、こここそが本当の日本なのではないか。普段は人の目から隠されたその秘密の儀式の渦中にうっかり迷い込んでしまっただけなのかもしれない。
 どうして良いのか分からなくなってきた戸倉は目を閉じ両手で耳を塞いで自分を拒絶しようとする世界を自分から拒絶しようと試みた。しかし打ち鳴らされる太鼓の音は目を閉じ耳を塞いでも直接心臓を揺さぶるように感じられる。自分の反抗など大きなこの存在の前では矮小で無意味だと思い知らされるようだった。
 それでも視界が塞がれただけの違いはある。自分を拒絶する視線から形だけでも逃れた戸倉は次第に落ち着きと安定した呼吸を取り戻していった。ただ、ひとつ消せずに残された音がいたずらするようにまた戸倉の記憶から似たような過去を掘り起こしてはその脳に映し出す。それは少し前の祭りの記憶だった。この夏に参加した祭りの記憶は戸倉にとってきらびやかな楽しさの象徴でもあり、またじっとり尾を引くような後悔の残るものだ。
 皆で行こうと長野に誘われてはじめて見た祭りは予想していた以上に楽しいものだった。はじめての自分だけそう感じたのではないようで、その空間の中いるすべての人々の顔にそうした楽しく幸せな気持ちが溢れてい見えたし、そこに他の、たとえば畏怖など負の感情は微塵も見えなかった。温かな色合いのあかりの中をいつもより少し興奮したような笑顔を浮かべて祭りを楽しむ人波に混じってあちこち歩いて回る中で、美味しそうな匂いにつられてあれこれ購入しては長野と分け合って食べ、金魚すくいや的当てがあれば対決して歩いた。そのすべてがただただ楽しかったし、最後の花火はとても綺麗でそれが終わったあとも余韻に浸るように、長野に帰ろうと促されるまでずっと夜空を見上げていた。別れ際にとても楽しかった、と長野に感想を伝えたその気持ちに嘘はない。
 ただ、そのふんわりと温かな気持ちは祭りのときずっとそうであったのと同じく、戸倉の心に満ちる前に冷たく凍りついては軋みを訴える。楽しく、幸せな時間を過ごしたことに何の偽りもないというのに、戸倉はそれを享受することに罪悪感のようなものを覚えて針で刺されるような痛みを感じてしまうのだ。脳裏にはまっすぐに自分を見据える何も受け付けない漆黒の瞳が映っている。別に当の相手は戸倉のことなんてそんなに気にしていないだろうと分かっているのに、どうしても三上のことが気になってしまうのだ。
 祭りの間もずっと三上は忙しかったはずだ。この日は特に忙しいと本人から聞いている。それなのに三上は一緒に祭りに行ってみないかと、そう誘ってきてもいたのだ。



 あれは祭りの二日前だった。静かすぎる室内にあってささやかでしかない空調の音すら耳障りに感じて少し機嫌が悪かった戸倉は、その頃の定位置であったリビングのソファに両膝を立てて抱えるようにして小さくなって座り、己の些か神経質すぎる苛立ちをやはり理不尽であると認識し、自分のそれを誤魔化そうと黙って耐えていた。
「どうかしたの」
 掛けられた声に顔を上げると、部屋の入り口に立った三上がじっと戸倉を見つめていた。手にしている磨かれた飴色の木で組まれた盆の上には、ふくよかな形に美しい文様の切り込みが入った透明なグラスが乗せられている。薄い緑色の中身がグラスの透明さと切り込みによって涼やかな濃淡を作り出していた。
「……別に」
 強がって答えながら差し出されたグラスを受け取る。水滴のついたグラスは冷えていて無駄な思考を諌めてくれ、薄く香るさわやかな匂いは苛立った感情までもを静めてくれた。ひと口含むと僅かな苦味が心地良く、知らず力の篭っていた身体が解けていくのが分かった。瞳を伏せ、細胞のひとつひとつがゆるりと解けていく様を思い浮かべて微笑んでいると、不意に頬に温もりが触れる。弾かれるようにして瞳を上げるとソファの前に膝をついた三上の眼差しが注がれていた。
「温かいものにするべきだったね」
「別に、これで良いけど」
 僅かな苦味のあるこの飲み物はそう得意ではなかったけれど、今はとても美味しいと思えた。それを伝えなくてはいけないのに、こんな言葉では決して伝えられていないだろうと未だ半年前と変わらない葛藤に苛まれていると、頬に触れていた三上の手はゆるりと肌を撫でるようにして動く。何より心が和むようなあたたかさだと感じた。
「身体がすっかり冷えてる。温度、下げすぎだよ」
 無謀を諌める厳しい言葉も睨むように力の篭められたその瞳も、触れるあたたかな手とやさしいその動きの前ではどうしてもあたたかなものだとしか思えない。心配してくれている、のだろう。そう思うとどうして良いのか分からず戸惑うばかりだったし、同時に沸き起こるくすぐったいような嬉しさを読み取って目の前の厳しく繕っていた顔が徐々に綻び微笑を浮かべていくのに戸倉はどうしようもなく幸せな心地が満ち溢れ、またそれすらも読み取られているのだろうと思うと堪らなくなってそっぽを向いた。こんな小さなことでさえ戸倉の感情を大切に育てようとしてくれている気持ちが伝わってきて、大切にされていることが実感されて、どうにも面映い。もっとずっと、己の感情のみで動く、わがままで乱暴で強引な男だと思っていたのに、他人の意見なんて微塵も聞き入れないと思っていたのに、こんなに繊細な部分を持っていたなんて本当に卑怯だと思う。それに正しく理解してもらえる、ということがこんなにも嬉しいことだなんて思ってもみなかった。こんなのじゃ駄目だ、という気持ちが、焦りが、氷が溶け出すようにして消えてなくなっていく。自分の気持ちが簡単に緩んでしまうとは思わなかった。油断していた。
「まあ、僕には良い口実か」
 呟いた三上の手が離れていき、目でそれを追っていた戸倉はソファに座りなおした三上に抱き締められた。互いに身体を捻る体勢なのだけれど、ほっと息を吐き出したくなるあたたかさがささやかな辛さも忘れさせてくれる。僅かに三上が身じろぐ衣擦れの音のあと、ぴ、と音を立てそれきり静かになった空間に、設定温度を下げすぎた所為であれほどうるさかったのだと最初の不快感の理由を思い出して納得した。
「ねえ、今度の夏祭り、一緒に行こうか」
「……え?」
 凍えきった身体をあたたかなものに包まれる心地良さに緩い眠気に襲われかけていた戸倉は、唐突に切り出された思いも寄らないその提案にぱちりと目を見開いた。そうしても見えるものは精々三上の後頭部くらいなのだけれど。
「無理、だろ。それにオレ、長野と一緒に行く予定だし」
 だって三上はここのところ、それこそいつ眠っているのかと疑いたくなるほど忙しかったから、絶対に無理だと思っていたのだ。だから長野の誘いにも何の蟠りもなく頷けたのだし、そもそも三上と暮らしていることを秘密にしている戸倉には一緒に人目のある場所を歩くなんて、それは想像くらいはするけれど現実味なんてまるでないものだった。だから、すぐに拒否したのだ。
「そう」
 短く三上の表情は見えないから分からない。ただ、やけにあっさりとした答えだったことと、僅かに腕に力が篭められた気がするけれど、それだけだった。
 祭りの話はそれ以降一度もしなかった。
 しかし戸倉はその日からとても落ち着かなくなった。どうして忙しいはずのその日に一緒にと三上は誘ったりしたのだろう。形だけ誘ってみて断られたから安堵しただけなのかもしれない。そう思うと何だか寂しく思えたけれど、それにしたって断った自分の方が寂しいなんて馬鹿みたいだ。本当のことが知りたかったけれど、三上がもうその話をしない以上、拒否した戸倉がその話題を持ちだすのも躊躇われたのでどうにもしようがなかった。
 そう、どうしようもない。たとえばあんな人ごみの中を一緒に歩いたとしたら、嫌でも皆の注目を浴びただろう。別に嫌悪の視線なら慣れているから構わないのだ。ただ、どうしてあんな、まるで不釣合いなやつが三上と一緒にいるのだという、そういう視線を目の当たりにすることが嫌なのだったし、怖かったのかもしれない。それは自分の中の一番の問題を他人から突きつけられることに等しい。
 それにもし他の誰かと三上が一緒に祭りを歩いている姿を見たら、そう考えると戸倉の中に不安にも怒りにも似た激しい感情が吹き荒れる。それは言葉にすることの難しい、まだ完全に理解できない感情だ。ただ、それが嫌な気持ちであることだけは確かなので、だから、自分が三上と一緒にいることでそれを目にした他の誰かがこんな感情を抱くことになるのだと思うと、とても悪いことをしているような気持ちになったし、何よりそれが不釣合いだとしか思えない所為で酷く惨めな気持ちになるのだ。
 三上は良くも悪くも注目を浴びる存在だ。もし三上が目立たない存在であれば戸倉もこうは拘らなかった。しかしそんなものは三上春威ではない。そう思うと戸倉は知らず微笑みを浮かべていた。
 だから、そう、どうしようもなかったのだ。断ったその判断に間違いはなかった。しかし戸倉はその判断とは別に、一緒に祭りに参加しておけばよかったと今この時になってやっとで思う。この村の祭りを見て気付いたのだ。何もあの夏祭りだけがすべての祭というわけではなかったのに、どこか他所の夏祭りなら、誰も戸倉や三上を知らない土地の夏祭りなら、一緒にいても不思議は無かっただろう。いずれこうして離れて何もかもが無くなるのなら、まだ何も考えず幸せを享受していたあのときにしっかり堪能しておけば良かったのだ。すべて今更の話だけれど。



「おい、お前」
 不穏な熱を帯びた気配が周囲を取り囲むようにして徐々にその輪を縮めてきていることには気付いていたけれど、肌を焼くようなその危機感、嫌悪感を敢えて味わうように戸倉は己の閉じた瞼の裏側の闇を強く睨みつけるようにしていた。目を開いてそこにある現実を認識しろと訴えるのは果たして必要な警戒心なのか、それともこれが弱さの元ではないのか。まるで正反対のそれすら見失っているなんてどうかしている、と戸倉は己に対して辟易とする。
「何だ? 保護者がいなくなって寂しくて寝ちまったのか?」
「……贄の癖に可愛い顔して。ああ、逆なのか、可愛いから、選ばれたのか」
 保護者という言葉にひとり浮かんだ顔を、それに纏わる様々な感情が脳裏に浮かび来ることに耐え切れずとうとう目を開いた戸倉は、取り囲む人たちすべての表情が仮面に覆いつくされている異様でもありまた滑稽にも見える光景に僅かに胡乱な瞳を返す。仮面はどれも深く皺の刻まれた睨むように眦のあがった厳つい顔で、所詮は人の手によって作り上げられた表情でしかないその仮面を顔にした人たちに囲まれることは、しかし滑稽でありながらどこかしら不気味な圧迫感を戸倉に齎した。その仮面の下の表情が読めない所為なのだろう。しかしそこにある感情を読み違えるわけがない。向けられる憎悪、嫌悪、他者を傷付けることへの期待と、震え上がるような喜悦。
「ひとりで寂しいんだろ。夜までの間、お兄さんたちが遊んでやるよ」
 憎しみ蔑むようにそう言って上腕を掴む男の手を条件反射のように逆手に取って引き寄せ、膝で相手の足を外側から固定しつつ肩から身体を入れるようにして押すと体格で勝っていた相手は何も出来ずに倒れこむ。すかさず背後から羽交い絞めにしてきた男にはその勢いに逆らわず、腕を掴んで僅かに身を屈めて勢いを利用してそのまま投げた。倒れだ相手も投げられた相手も、どうして空を見上げて転がっているのか理解できていない様子だ。戸倉が今まで対峙してきた相手を思えば随分と呆気ない。或いは相当油断しているのか。売られた喧嘩は買う主義とはいえ、こんな弱い相手に本気は出せない。
 それにしたっていったい自分は何をやっているのか。こういう事態を招いてしまう自分に非があるのに違いない。即ちこういう状況こそ自身の弱さから脱却できていない証拠だ。気付けば周囲で恐る恐る喧嘩の様子を見守っていた子どもたちが恐ろしいものを見るようにして戸倉を見つめ、恐怖に身を寄せ合って動けずにいるのが目に入った。まるで至らないことに脱力するように身体から力が抜けていった戸倉は周囲のすべての感覚から遮断されていたけれど、喉への強い圧迫感により一気にまた現実に引き戻された。相変わらず祭りの音が聞えるけれど、先ほどより少し遠くなっているようだ。行列は移動している。しかし視線でそれを追うことは叶わない。動くことが出来ない原因を、喉の圧迫の正体を確かめようと指で触れると、肌に食い込む布の感触があった。どうやら布で絞められているようだ。そのまま引き上げられると足が地面から離れ、締め上げる男の力だけでなく自分の体重すら喉への負担となる。もがけばもがくほど喉が強く締め付けられる体勢だ。さすがにこれは苦しかった。このままでは殺される。
「駄目だよ、その人に手出したらいけないって長が」
「子どもは黙ってろ。告げ口したら、お前もただじゃおかないぜ」
 聞えてくる声はどれも切迫しているのに戸倉にはささやかな風の音と同じくらいにしか聞えてこない。苦しい、痛い、それだけしか考えられなくなる。視界が闇に呑まれ意識が途切れそうになった戸倉は、ふと喉の締め付けがなくなっていることに気付いた。或いは意識は途切れていたのかもしれない。気付いたら地面の上に横たえられていた。腕は頭上で捕まれ、肩は強く地面に押さえつけられ、足の上にも誰か乗っていて、自由になる部分はどこにもない。喧嘩の相手をしている間はどうでも良かったけれど、どの顔も不気味な仮面で覆われていることがだんだん怖くなってもいた。手首を痛いほどに掴む他人の手、腹に触れる他人の手の、やけに熱い感触が気持ち悪かった。
「そっち代われよ。俺、最近ご無沙汰でさ」
「まだだ、待てって……、お、起きたな」
 開いた視界いっぱいに不気味な表情の仮面がうつる。距離のある間には仮面にしか見えなかった穴の中に見開かれた瞳孔がその暗い穴の中に見えた。血走った瞳には狂気すら滲み、不気味な仮面よりなお不気味なものを感じさせる。
 差し迫った命の危険は回避できたけれど、さてこの不本意で不愉快な状況からどう抜け出そうか、戸倉がそう思案していると、腹に触れていた手が性急に肌をなぞってはぞわりとするような感触を残していき服をたくしあげると胸の突起に触れた。摘まんで潰して弄ばれるとそこから身体の中心に向けて痛みとそれ以外の何かが綯い交ぜになった感覚が走って、思わず戸倉は息を詰めて身体を強張らせた。
「……何だ、こうされるのがいいのか?」
「もっとよくしてやるよ。なあ」
 どこかに隙があるはずだ。すべての感情をひとつにまとめて戸倉はその隙を探す。しかし自分よりもずっと体格の良い大の男を三人も相手に、それもこうなってしまってから逃れるのは容易ではないだろう。それでも祭りと言う異様な雰囲気に呑まれた男たちの、高まった嫌悪と憎悪のはけ口としてされるがままに暴行を受けるつもりはなかった。
 不意に、腰の辺りに乗り上げていた男の身体が揺らぎ、僅かに身を起こしたのか下半身の圧迫がなくなる。すかさず足を振り上げてその辺りにあった男の身体を蹴り倒すと、更に勢いをつけて腰を曲げるようにして足を跳ね上げ、上半身を拘束していた男たちをなぎ倒した。すっかり油断していたのだろう、戸倉はそれですべての拘束から解放された。ゆっくり立ち上がって睨むと、それぞれ腕や背中を痛めたらしい男たちが尻餅をついたままじりじり後ずさるのが目に入った。
「てめえら、最低だな」
 追い討ちをかけるのは簡単だった。しかし戸倉は逃げようとする男たちのプライドも何もない情けない様子に何だか見ている自分の方が情けなくなってきて、そのまま踵を返して歩き出した。行くあてなんて無い。もともとこの村に来るつもりすらなかったのだ。ただ、桐谷に誘われて、流されるまま祭りを見ているうちにこんなことになっていて。
 では、自分は本当は何をするべきで、何がしたかったのか。
 手の中にあるすべてを失って、
 そうして手に入れたかったものがあったはず。
「お兄さん、待って!」
 背後から掛かった高い声に混沌として走り出そうとしていた脳が止まる。戸倉の足は大通りから民家を通った裏通り、生活用水のために細く浅く掘られた用水路の脇に並んで植えられていた松の木々の脇を歩いていた。振り返ると先ほどの揉め事の間、少し離れて見ていた子どもたちの中の一人が走り寄ってくる姿が目に入った。呼び止められた声にはかすかにだけれど聞き覚えがある。村の男たちを制止してくれようとした子どもの声だ。
「俺に用か」
「うん。……ねえ、お兄さん、村の外から来た人でしょ?」
 立ち止まって待っていると、近くまで来た子どもはそこで止まるかと思った戸倉の予想を裏切り、勢いを戸倉の足にしがみつくことで殺してそのまま見上げるようにして話しかけてきた。この村に来てはじめてみた、とても純粋なものばかりを内包した何の曇りもない笑顔だ。
「そうだけど」
「すごい! 僕、外の人と話すのはじめてなんだ」
 今まで随分と物珍しい目で見られてきたけれど、それはどれも自分と違うモノを排除したいという本能、否定され拒絶されるようなものばかりだった。こんな楽しそうな瞳を向けられたこの村に来てからではなく、生まれてはじめてなのかもしれない。
「ねえ、外の話、聞かせて」
「……」
 見つめるばかりで答えない戸倉に焦れるように次々に言葉を発しながらも、決して呆れたり諦めたりしない。
「さっきも凄かった。あのおじさんたち、僕、嫌いだからたまにやっつけてやりたいって思うけど、まだ子どもだからぜんぜん駄目で……。お兄さん、細いのに、まるで相手にしてなかったっていうか、強いよ。強かった。おじさんたちがやられてすごくすっきりした。ねえ、僕に喧嘩のしかた、教えてよ」
 ふと、先ほど圧し掛かっていた男が不自然に隙を見せたことを思い出した。直感的に言葉を口にする。
「……お前、さっき、もしかして助けてくれた?」
「そうだよ! えへへ、って言っても、こっそり石をぶつけただけだけど」
 なるほど男はどこかに石をぶつけられて、それで戸倉から身体を離したのだ。素直であることは難しい。それを難なくやってのける子どもに、知らず戸倉も感化され素直になれるような気がした。
「ありがとな」
「うん!」
 座り込んで目線を合わせ、頭を撫でて礼を言うと子どもは嬉しそうに笑って頷く。そうして戸倉は久しぶりに空を見上げた。木々の多い村にあって重なり合う葉の向こうには、子どもの笑顔と同じくらい眩しい青空がずっと奥まで広がっていた。










2010/2/9  雲依とおこ







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