まぼろしのくに




「待ってくれ、話をっ、話をしようっ」
「……僕の話を聞かず最初に手を出してきたのはそっちだよ」
 誰もいつもこうだ、と三上は心底うんざりする。己の強さを過信してこちらの話など聞かずに襲い掛かっておきながら、いざ仲間が次々に倒され自分たちの負けが確定しはじめると途端にその態度を翻し、卑屈に命乞いを始めるのだ。意識がなくなる直前まで三上に勝つ可能性を捨てずに強気にぶつかってくるのも、何度打ち負かされても変わらない強気で、なおも爛々と輝く瞳で向かってくるのは戸倉だけだ。迷いを持ちながらも己の信念を貫き三上を射抜くその瞳の美しさを想い、三上はうんざりとしていた心地を宥める。
「悪かった。謝るから、だから、もう収めてくれ」
「……仕方ないね」
 聞く必要の無い懇願を敢えて受け入れるのは三上にも心情的な余裕がないからだ。暴力衝動を僅かにでも満たされるとはいえ、こんな弱い相手に構っているよりも先に進むべきだと分かっているからだ。まだ、戸倉のことを聞いていない。
「じゃあ、その話とやらをしようか」
 にこりともしないで促す三上を恐怖の視線で見つめた男は「村長に合わせる」と痣だらけになった身体を引きずるようにして歩き出した。村長というならこの村で一番偉いのだろう。ひとりひとりに戸倉らしき人物をこの村で見なかったか確認して歩くより、そちらと交渉して効率よく捜した方が早そうだと考えた三上はその後をついて歩く。
 道の左右に昔ながらの質素な家が並び、そこから裏手に回る道はあるけれど、見る限りそう奥のない実に小さな集落だ。家々の玄関にはそれぞれ生花や手作りと思われる拙い原色の布飾りが掲げられ、家の造りの質素さに似合わない華やかさを持ったそれらの組み合わせがどこか異質な雰囲気を作り出していた。昼間だというのに外を歩く人の姿は無い。ただ、そこに潜む人々の視線すべてが自分に向けられていること、そこにあるとても友好的とは思えない深い憎悪に満ちた感情が薄い家の壁をとおして伝わってきていた。すべての他人に認められる人間でなくともいいと思い、またそうなってきたし、それなりに憎まれても仕方ない所業をしてきた自覚もあるけれど、少なくともこの村と関わったことはない。
 それなのに何故なのか。森の中にあった痕跡を頼りに進み、開けた視界の先に集落が見えたときには楽しそうに村人が騒いでいる姿が目に入った。しかし現れた三上を目にした途端、穏やかに微笑んでさえいたその表情が一変したのだ。何の威嚇も手出しもしていない、ただ戸倉のことを聞こうと口を開こうとしただけで襲い掛かられた。
 そういえば携えた地図にこの村は載っていなかった。この現代で認識されていない村があるとは俄かには信じがたいけれど、村に入ったものにこうして普通の村人が無作為に襲い掛かって来るのだから、そうしてまで秘密を守ってきた余程閉鎖的な村なのだろうと三上はひとまず納得しておく。
 森の中にあった痕跡が本当に戸倉のものだったのなら、彼もさぞ苦労しただろう、そう思った三上はすぐに疑問を覚える。いきなり集団で襲われるという事態は確かに普通なら苦労する事態かもしれないけれど、三上だけでなく戸倉もその普通に該当しない。そうした事態に日常的に遭遇していた戸倉も慣れているはずだ。先ほど三上を襲った程度の相手なら、そう苦労することもなかっただろう。
 だったらどうして、先ほど三上を襲った村人たちは無傷だったのか。或いは戸倉はこの村に来ていないのか。思わず足を止めそうになった三上は、その前を歩いて案内していた村人が先に足を止めたことに気付いて視線を上げた。考えるうちにそれまでの質素な造りとは明らかに違う、手の込んだ意匠の大きな家にたどり着いていたようだ。門の中央に構え苦渋の滲んだ瞳で三上を見据える人物こそこの村の長なのだろう。
「先程は村のものが無礼を働き失礼したようだ。すまなかった。お詫びと言っては何だが料理を振舞わせてくれ。今日はこの村は祭りでな。ゆるり楽しんで行かれよ」
「料理にも祭りにも興味はないよ。ただ僕は、昨日か今日、この村に中学生くらいの子が来なかったか聞きたいんだけど」
 冷ややかに要求する三上に、それまで不服ながらも卑屈な笑みを浮かべていた村長の表情が強張った。そして脇に控えた若者に向かって一度頷いてから三上に向き直る。視線の端で若者の動向を追えば、更に別の誰かに何かを伝え、伝えられた者はどこかへ走って消えていく。やはり怪しい。戸倉はここへ来たのかもしれないと人捜しの話をした途端いきなり硬化した態度と対応、そしてそのとても友好的とはいえない雰囲気に触れ思った。
「……さて、尋ね人ですか。しかし、残念ながら、最近この村に外から来たものはおりません」
 食えない顔だ。そう思う。小さい頃からこういう嫌な顔をした人間を散々目にしてきた。忌み嫌い、そして闘うべき相手はこんなところにも潜んでいる。
「あなたの話はもういい。村の人全員に同じことを聞いて僕に報告して」
 そう指示して踵を返そうとした三上は本能的な嫌悪感に振り返る。喉元に手刀をつけられた村長は声も出せずに固まっていた。その手は引き止めるように三上に差し出されている。呼び止めるなら声を先にだすべきだ、とその喉に手を当てたまま促すようにして静かに問いかける。
「何」
「いえ、調べるまでの間、おもてなしを……」
「必要ないって言ったよね。僕は自分で勝手に捜すから、邪魔しないで」
 指示をしたのは単なる見せ掛けだ。こんな相手の話を信用するつもりはないし、その報告だって三上は信用しないだろう。信頼できる部下を欠いた今の状況では、自分の足で歩き、自分の目で見たものだけを信じるのだ。まずは、と三上は向き直った村長の方へと歩き出す。どこかへ行くかと思いきや近づかれて戸惑い触れられてもいないのによろめくその脇を泰然と過ぎ、この村で一番大きなその屋敷へ踏み入った。門や屋敷ばかりでなく庭も随分と凝った造りになっていて、玄関に続く道に敷かれた石までもが美しい。屋敷の中を一部屋一部屋確認していくと、庭に面した二間が襖を外して繋げられていて、中では宴会が繰り広げられていたようだった。上座には漆塗りの膳が置かれ、会席料理や酒が所狭しと並べられている。そしてそこには着物姿の大勢の女性がいた。祭りと言っていたけれど、飲食に女とあの村長は随分と好きなように遊んでいたようだ。宴会の真っ只中だったその女性たちは入ってきた三上を見るなり恐れるようにして左右に惑い、障子の向こうの縁側へ、また奥の襖の向こうへと逃げていく。逃げ出すのは大勢の女性ばかりではない、僅かに混じっていた男性も紛れるようにして逃げ出していた。村長の態度からしてもこの屋敷の人間だって話は聞くだけ無駄だろうと思っていたので追う気もなかったのだけれど、ふと、一人残ったまま面白そうに三上を眺めている人物がいることが妙に気に掛かった。ごく自然な様子であることが、何もかもおかしなこの村では逆に不自然だった。
「人を捜してこんな村までとは、なかなか可愛い人ですね」
 外の声が聞えてきましたよ、と青年は微笑んで三上を見る。人がいなくなり静けさを取り戻した空気の中でのその穏やかな笑いは、しかし三上にはその腹のうちで嘲笑っているようにしか感じられなかった。
「あなた、何か知ってるの」
「いいえ」
 残念そうな顔をするその青年が座っているのは、改めて見れば上座だ。この村では村長よりも上の立場があるのか。何かを含んだ笑顔を見せながら何も知らないと言うその青年から三上は視線を逸らし背を向けた。惑わされてはいけない。自分の足で捜し自分の目で見つけ、そして自分の手で掴むのだ。


 どこにでもありそうなこの村は、しかしやはり異様だった。単に外部との接触を嫌うにしても度が過ぎている。村長から何か言われているのか、それぞれ家に閉じこもったままの村人の視線はこの村に入ってきたときにも感じた嫌悪を更に強め、その緊張感が晴れ渡った青空の下、深い森に囲まれ自然の輝きに満ちた村全体を重く圧迫していた。村に入ろうとしただけで襲い掛かられたことは別にしても、人を捜しに来たといっただけで態度が硬化した村長及び村全体の態度は何かを隠していると思わざるを得ない。誰にも傷らしい傷がなかったから戸倉は来ていないかもしれないというほうに傾いていた三上の気持ちが変わったのは、そうしたこの村の雰囲気の豹変にあった。この村に迷い込んだ者はすべて殺されているとでも本気で疑いたくなる。
 それにしてもこの村には隠れるような場所が少ない。そもそも民家自体が七十あるかないかと少なく、入ればすぐある部屋に家族全員が固まっていて、また広くない家屋に置かれた物も少なく見通せるので、その家に戸倉がいないことは一目瞭然。一軒一軒の調査はあっという間に終わってしまうのだ。
 これは本格的に捜すなら河野を呼ぶべきか、しかし戸倉がいないのならそこまでする必要も無い、その判断に悩みつつ捜索を続けていた三上は、ふとこちらに向く今までにない視線を感じて意識を向けた。
 子どもだ。両の手は強く握られ恐怖を感じているようなのに、三上からまっすぐ逸らされない瞳には今まで見た村人にはない強さがあった。
「君、何か知っているの」
「うん。昨日、兄ちゃんより少し若い感じの兄ちゃん、来たよ。今はあっちにある、大きな屋敷にいると思う。さっきまで一緒だったのに、家に帰って黙ってろって言われたから……。僕、まだいっぱい話したかったし、一緒にいたかったのに。あ、でも捜してる人かどうかは分かんないよ」
「……そう。ありがとう、助かるよ」
 子どもは口を開くなりずっと溜めていたものを吐き出すように一気に言い切る。昨日同じ背格好の人間が来たからと言ってそれが戸倉であるとは限らない。しかし、これははじめて掴んだ手がかりだ。
「急いだ方がいいかも。この辺の大人みたい子ども扱いしないで話してくれたし一緒にいると楽しいし、とにかくすごく良い人なのに、何でか知らないけど大人はみんな意地悪するし、今だってこうして捜しに来た兄ちゃんから隠そうとするし……、理由を聞いても子どもには分からないって教えてくれないんだ」
 その理不尽さに憤慨して教えてくれたのだ。こうした閉鎖的な村は大体において結束が固い。そこで村全体の意向を裏切ることがどれだけ危険なのか、知らないわけではないのだろう。言いたいことを言い切ったその子どもの手がゆるりと解けていくのを見てそう思った。たとえば三上がここを出てその屋敷へ行けば裏切り者と疑われるのは真っ先にこの家の人間だろうし、それを誤魔化したとしても今まで一緒にいたというのだから間違いなくこの子どもは疑われるだろう。そして言い訳をしないだろうこの子どもは制裁を受ける。子どもだから、といって済む問題なら良いのだけれど。
 だからと言って三上が村の事情に口を挟む義理はないし、そのために来たのだから折角手に入れた情報はしっかり活用させてもらう。当の子どもだって言いたいことを言えたのだからそれで十分だと思っているからこそそれ以上の要求をしてこないし、三上に捜してきて欲しいから情報を教えてくれたのだろう。子どもながらにその心意気は気に入った。或いはそれだけ昨日やってきたという人間を気に入って、理不尽に引き離されたことが許せなかったのか。
「君、名前は?」
「幸太」
「僕と一緒に来るかい?」
 どちらでも好きなように、と問うと、まるで考えていなかったように子どもは驚いて三上を見上げていた。家に帰っていろ、という村の指示に逆らうことは子どもの想像をはるかに超えるほど大きな重みを持つものなのだろう。もうこの村にはいられないかもしれない決断かもしれないけれど、それを促すことに三上は躊躇が無い。選ぶのはあくまで本人なのだ。
「……一緒に、どこへ?」
「彼に所へ。それまで僕が君を守るし、彼にも会えるよ」
「行く」
 即答した子どもに頷いて、三上は歩き出す。歩幅の違いで殆ど駆け足になりながら、幸太は文句ひとつ言わない。寧ろこれくらいプライドが高いのなら気遣われる方が嫌だろう。幸太には母親の記憶がなく、父親は二年前に他界している。それから一人暮らしをしているようだった。家の裏は広い畑があり、小さい頃から父親を手伝っていたので要領も心得たもので、ひとりでも生きていけるのだ。
「たぶん、あの兄ちゃん、このままだと殺される」
 そうして必死に三上の歩調に合わせながら、それまで緊張していた分を補うように、或いは緊張の度合いを更に高めたからこそ言うべき言葉を見つけ出せたかのように、幸太は先ほどの話の補足を始めた。家から村の大通りに出ることで三上と共に歩く幸太は村に篭った村人たちの疑問と、そして憎悪の視線を受けることになった幸太の言葉に、三上は思わず足を止めそうになった。
「……え?」
「だって贄って言われてた。それって、……つまりは殺されるってことだよね」
 先の続かない三上の様子に幸太はさらにその理由を説明してくれた。状況は逼迫している。しかし戸倉がそれを甘受するとは、三上には想像できない。どんな状況であれ理不尽なものには抗う人間だと、三上は信じている。
「ここ」
 急に駆け足になって三上より先に出た幸太が示した家は、確かにこの村では見ない広い敷地にあった。村の一律の家々は勿論、唯一大きいと思った村長の家より恐らくは大きい。
 さっきまで開いていたのに、と言いながら閉められた門扉に四苦八苦している幸太を押しやって扉を強引に押し開き、伸びきった庭木の陰を探るように見遣りながら玄関へと向かう。庭も屋敷も静かだった。村のどこを歩いていても感じられた憎悪の視線、向けられる嫌悪の感情がここにはまるでない。人の気配そのものがないのだ。
 しかし玄関から中に入ってさて室内を捜し歩こうと思ったところで慌てたように門からこちらに向かってくる気配があった。村長と村の屈強な男たちが、血相を変えて三上を追っているのだ。相手にする必要なんてないだろうと無視して先へ進む。敷地も広かったけれど屋敷も相当広く、捜すのは困難と思われた。しかし迷いなく進む幸太が知っているとその後を追う。
 それは玄関から入ってすぐの部屋だった。脇に置かれた荷物に三上は見覚えがないけれど、新たに購入したものだろう。こういうところで戸倉は抜かりがない。中央の座卓には二客の湯飲みと茶菓子が置かれたまま。何もかもが、中途半端に投げ出されている。そこに居た人間が意志に関わりなく、やむを得ず中座したという状況が残されていた。
「兄ちゃん! どこ行ったんだよ」
 大声で呼びながら次の襖へ向かっていく幸太の後姿を見遣ったあと、三上はそれを追わずゆるり振り返った。村長たちが追いついている。
「おや村長、彼、見つかったんですか」
 村長たちが捜していないことを承知で問いかけると、何かを言いかけて口を開いていた村長は慌てたように口ごもった。
「いや、……それは、まだ。今のところ、誰もそんな人物を見ていないということだ。……それより客人、どうしてこの屋敷へ? ここには誰も住んでいない。捜すだけ無駄だ」
「誰も住んでいない? ではこのお茶は誰が飲んでいたんでしょうね」
「……」
「それにあの荷物は旅行者の物。あの子を、どこに隠した」
「……知らん。荷物が何であろうと、ここへは、誰も来なかった」
 明らかな動揺を見せながら、それでも村長はあくまで知らないでとおすつもりなのだ。
「ではこの屋敷、誰も住んでいないというなら僕が買い取ります」
「な……、んだと……?」
 いきなり訪れた高校生がそんなことを言い出すとは思ってもいなかったのだろう。意味が分からない様子で問い返してからやっとで三上が言わんとしていることを理解したのか、慌てて首を横に振って、瞳孔を左右に揺らしながら言葉を選んで口を開いた。
「いや、駄目だ。ここの所有者と現在連絡がつかんので、交渉は出来ない」
 確かに所有者と連絡が取れないのならどうしようもない。どうせ村長の嘘だとは思うけれど、今の三上にはそれ以上どうすることもできないし、どうでも良いことだった。もともと屋敷の所有に興味は無かったし、所有がどうであれ三上は三上の好きなようにするだけだ。村長の慌てた様子を確認できただけで目的は果たせたといって良い。
「買取は諦めるよ。でもとりあえずここを調べさせてもらう。あなたはあなたの仕事をして」
 そう言って話は終わりとばかりに背を向けた。何を言っているんだと騒いだ村長はしかし三上がまるで聞く耳を持たないと知ると大きな声で愚痴を零し始めた。
「どいつもこいつも、好き勝手ばかり言って、私のいうことを聞かない。どれだけ私が苦労していると思って……」
 今まで閉鎖された村の頂点にいて何でも思い通りになり、逆らわれたことがなかった村長は、ちょっとした反抗が気に入らないのだろう。器が小さいこともそうだけれど、それに愚痴を零すことこそ何より見苦しいと三上は思う。ただ、どいつもこいつも、という言葉が引っ掛かったので、言及しておこうかと思ったけれど、振り返った先で村長はもう背を向け玄関に向かっているところだった。
 また次の機会にでも聞いておこう。そう思って今は屋敷の捜索に全力を傾けることにした。ちょうどよく三上が村長に捉まっている間にひととおりの部屋を走り回って帰ってきた幸太によると、予想通りではあったけれどどの部屋にもひと気が無かったらしい。報告を終えると今度は庭を見てくるとまたすぐに駆けて行った幸太のその判断の速さと的確さ、そして実際に実行に移すまでの速さに三上はこれなら河野を呼ぶ必要は無いと判断した。もともと一人で何とかするつもりだった。ただこうした広範囲にわたる単純な作業は人数を掛けた方が早いので、手足となる人物がいたほうが効率的なのも確かだ。判断力や行動力だけでなく村の事情に詳しいこともあり、今回の件で幸太は適任だった。
 つらつら思考を巡らせながら三上はあの早さで幸太が捜さなかっただろう場所を見て歩くことにした。まずはこの和室の隅に投げるようにして乱雑に脇に置かれたままの荷物を検める。中に詰められていたのはペットボトルに水と僅かばかりの食料に寝袋。飲料水の封が切られ五分の一ほど中身がなくなっている他はいずれも開封されていただけの手付かずの新品だった。それだけ確かめると故意に「自分」を隠そうと意図されている荷物をそれ以上探っても何も分からないだろうと諦め、恐らくは拠点としていただろう十畳ほどの部屋全体を改めて見渡す。置き方は乱雑だけれど最小限の物しか入っていない荷物、僅かな香りさえ残さない徹底した形跡の消し方から分かる警戒心の強さ。これだけの物でも、確かにここに居たのが他の誰でもない戸倉だったと信じられる。そう信じなければ、ここに来た旅行者が別の誰かで全然違う捜索をしているのかもしれないと疑えば進めないような気さえしていた。三上を置いて消えてしまった戸倉が、或いはここではない別の場所にいて、三上が来ないことですべてを諦め僅かばかりにも開いていた扉を完全に閉じてしまっているかもしれないと思うと、全身が震えを起こし皮膚の穴という穴から何かが流れ落ちていそうな覚束なさに襲われるのだ。座卓に置かれたままの湯のみに触れると湯気こそ出ていないもののまだ中の茶はあたたかく、座布団に触れるとそこには温もりが残っていた。本当に、つい先ほどまでここに誰かがいたのだ。一度瞳を閉じ、深呼吸をして三上はそうした気持ちを整え落ち着けた。まだ自分は戦える。この痕跡が戸倉のものと信じる、自分の直感を信じようと思った。



「兄ちゃん!」
 他の部屋をじっくり見て歩いていると庭からの声を掛けられた。どこか焦ったような声音に何かが見つかったのだと三上は外へ向かう。
「何かあったの」
「足跡が」
 屋敷の内外をあちこち走り回って息が切れたのか興奮しすぎたのか幸太は言葉がそれ以上続かない様子で、それが自身でももどかしいのか三上が近寄ってくるのを確認すると、熱のような激しい光を灯した瞳で三上に頷きかけ背を向け走り出すことでこっちだからという意図を示してきた。自分よりも頭ひとつ分ほど低いその背について走りながら、走り抜ける荒れた庭を、そして子どもが走ることで示すその先を慎重に見遣る。足跡、という単語ひとつで三上は現在の状況を掴んでいた。詳しい説明なんて寧ろ時間の無駄になるだけだろう。玄関から出てぐるり屋敷を取り囲む庭は外からも窺い知れるほどに広く、池に築山、庭石に草木と手入れが施されていたときは見事な構成だっただろう日本庭園はしかし今は荒れ果て、土地の隆起や池だけでなく倒れた木や伸びきった枝が邪魔して走りにくかった。しかし、その広さは捜すのに不便であっても荒れ果てた様子は手がかりを得るのに決して悪い条件ばかりではない。子どもが足跡を見つけたように、普段人が入っていないそこはただ歩くだけでも決定的な手がかりを残してしまうことになるのだ。玄関を出てから前を走る子どもの先には人が行き来した形跡があったけれど、それは恐らく先ほど庭を捜していた幸太自身のものだろう。新たにそうして自分がつけたものでない足跡を知るのは、だから幸太だけなのだ。
「ここ、からの、あれ」
 屋敷の真裏に回った時点で足を緩めた幸太の先にそれはあった。ここまで続いていた恐らく幸太自身の足跡が途中で途切れ、引き返しているその少し先に、屋敷から外側へ一直線に続く足跡がある。屋敷の側を見れば勝手口と思しき小さな扉があり、その向かう先には塀の隙間に人がやっとでとおれるほどの木戸が見えた。
「僕、のじゃないから」
 先ほど村長とその取り巻きたちも、玄関から入ってきていた。他に人が出入りするような場所ではない。それらを鑑みればここを使った人間、その意図は限られるだろう。
 走り出したい気持ちを宥め、三上は慎重にその足跡に近づき屈み込んで確かめる。靴の形から分かるのは、確かに屋敷の側から外へ向かう足跡だということ、つけられたのはつい先ほどだということ、そしておよそ一人分のものに見えることと、何より走ったような間隔ではなく、落ち着いて、しっかりと歩いた足跡だということだ。外に向かっている足跡だというのならそれを追えばいい。この足跡が、三上たちがこの屋敷に来たことで抜け出したものであるのなら、もしかしたら追いつけるかもしれない。まだぬくもりの残っていた茶や座布団と、屋敷の中に人の気配が無かったこと、少し前に幸太がこの屋敷で昨日村の外から来た人間と話をしていたことを考えれば、必然的にこの足跡はその来訪者のものということになる。
 もしかしたら三上が追って来たことを知って、戸倉は屋敷を出たのだろうか。それは無い、と三上はすぐにその思考を中断させた。確かにふたりで暮らしていた家を戸倉が出たことは確かだけれど、そこに至る経緯は三上も想像できるのだ。だからこそ、追いかけてきた三上からまた逃げ出すようなことはしないと信じられる。追いかけてきたと知れば向き合うだろう。それが戸倉だ。
 余計な思考に浸りながら足跡を追い屋敷の木戸から外へ出ると、そこは表の通りとは違う鬱蒼とした森の一部だった。光が殆ど届かない薄暗いそこに足跡が続いている。それは屋敷を取り囲む塀を回りこんで表通りに向かうというものではなく、更に深く森の方へと続いていた。暫く進むと足跡は何十にも重なるようになり、また、軽やかな水音をたてる小川に辿りつくとそこから川をのぼるようにして足跡はまだ続いていた。周囲は他に何も無い、どこも同じにしか見えない深い森の中だというのに、何を目印にいったいどこへ向かっているのか。
 それから三十分も走った頃に、ようやく森に変化が訪れた。本当に小さな家があったのだ。森の中にぽつんと一軒、家と言うより小屋に近い。足跡はその中に入っていた。
「この家……」
 怪訝そうな幸太の顔は、何か知っているのか何も知らないのか分からない。それよりも三上はその中に踏み込む気持ちを抑えられなかった。  扉に手を掛けると鍵は掛けられていないようだった。こんな森の奥では来る者も無いのだろう。そのままノックもせずに扉を開くと、明かりも灯さない薄暗いというより殆ど闇の中に確かに人の気配があった。
「ねえ」
 どう声を掛けようか逡巡したのは僅かで、すぐにいつものように声を掛ければ部屋の奥の気配が震えた。怯えたようなそれが戸倉のものではないと、逸っていた三上の感情が冷えていく。
「ねえ、君、さっき、あの屋敷にいたんでしょ。何してたの?」
「……」
 それでも三上たちが赴いた頃にあの屋敷から出てきたことは確かなのだから、確認したいことがたくさんある。扉を大きく開いて中に踏み込んだ三上は閉められたままだった窓を開けていく。光の差し込む部屋の奥で蹲って震えているのは十代になったばかりくらいのひとりの女だった。怯えて顰められながらも目は細くつりあがり、髪は長く乱れたままで、腹は奇妙に膨れている。
「駄目だ、兄ちゃん」
「何だ」
「この子、言葉、知らないんだ」
 入り口から一歩も中に入らないまま、幸太はどこか怒ったような悲しいような面持ちで女を直視しようとしない。
「言葉を、知らない?」
「声が出せないし、こっちの言葉も分かってないみたい。村長のもので、だから、村長の言葉しか、聞かない」
 硬い幸太の言葉に三上もさすがに眉を顰める。どうして言葉が分からないのに村長の言葉は聞けるのだろう。二人の間にしか存在しない言語があるというのか。だとすれば、何か悪事を働く手助けとしては使うには随分と都合の良いことだ。他に意志が疎通できる相手もない女は村長の言葉こそがすべてだろうし、何をやったところで女がそれを外部に漏らすことはない。まずこの女は関わっているだろう。しかし聞き出すことが出来ないとすれば、と思ったところで三上はやっとで気付いた。
「しまった」
 足跡は一人分だったのだから、あの屋敷から続いていた足跡がこの女のものだったとすれば、三上が村長と揉め屋敷を捜索しようとしていたあの時、あの屋敷の中にまだ人間がいたのかもしれない。広い屋敷の中のこと、幾ら幸太が全部の部屋を回ったとはいえ部屋を行き来することでその目から隠れることも容易だっただろう。そして三上が詳しく探す前に足跡が見つかった所為で屋敷を出てしまった。女を囮に使って足跡をつけさせ、他の誰かが戸倉を隠そうとしていたのなら、確かに同じ空間にいたのだ。
 しかし今戻っても無駄だろう。屋敷を抜け出し森に入り込んだ時点で隠れていた人物は逃げる時間を得ている。
 そのための、これは、囮だったのだ。










2010/2/9  雲依とおこ







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