まぼろしのくに




「兄ちゃん、名前は?」
「佐久だ。お前は?」
「幸太。十歳になったんだよ」
 意気揚々と歩く幸太についていき話をしながら、戸倉は自分が十の頃は何をしてどんなことを考えていただろうかと思い出そうとしていた。ほんの数年前のことなのに何も思い出せない。ただ生きることに必死で、そして何もかもに否定されることに耐えられず自分から何もかもを否定することで精神の安定を得ようとしていた、本当に子どもだったことを思い出した。それでも生き抜いたからこそ長野に、そして三上に会えたのだ。感謝し、幸せを感じることは勿論、苦しみ悩むことだって、すべては生きていればこそ。長野に対しての純粋な感情とは違い、三上に対しては単純に感謝と言葉に変換できるほど、まだ心は凪いでいないのだけれど。
「この村ではね、十を越えたら大人の仲間にしてもらえるんだ。越えたら、っていうか、祭りで役目を果たせたらね」
「役目?」
「うん。今朝、お宮様に花を捧げてきた。それが役目。僕、ちゃんと出来たから、もう大人なんだよ」
「へえ。んで、そのお宮様ってのは何だ?」
 漠然と頷きながら実際まるで意味が分からず問いかけると、村の外の人間はやっぱり分からないのかと妙なところで納得した幸太は驚くほど細やかに説明してくれた。夜中の二時に出発すること。持っていく花の種類。山に生えている木と草の種類を目印にした、つまりは知識がなければまるで分からない地図を頭に叩き込んでひとりで危険な森に入ること。四時間も山を登ると辿りつく古びた洞とお宮。その奥にある闇の穴に花を捧げ、決まりの祈り文句を唱えて山を下りる。無事に村に帰りついた子どもが大人と認められるのだ。
 以前、宮に辿りつけず山を彷徨った挙句、村に帰り着いてきちんとやったと嘘を吐いた子どもは、大人と認められないばかりか村の人間から除外され、下働きで一生を終えなければならなくなったらしい。
 宮には誰もいないのに、どうして役目を果たせていないと分かったのか。疑問に思うより村人は子どもだけでなく大人に至るまで皆恐怖したという。その宮は神の休む場所で、祭りの日はそこに居るのだという。神が見ているのだ、と村人の恐怖はそのまま信仰の深さに変わる。
 それは話を聞いた戸倉も例外ではなかった。懸命に調べ、話に聞いた八百万の神が、ここではそれほど近く感じられるのだ。
「すげえ!」
 思えば最初から森と花に囲まれたこの村の雰囲気は違っていた。こここそ本当の日本で今まで見てきたすべてが嘘だったのかと疑うほどだった。祭りはその顕著な部分だ。この空気こそ戸倉が求めてきた神秘なのだと胸を躍らせ目を輝かせて幸太をみると、得意そうな顔でその気持ちが分かると頷いてくれた。
「でしょ。いつだって神様が見てる。教えに逆らわなければ幸せになれるって思ってる。でも、だったらどうして、あいつら僕のこと苛めるのに、罰を受けないのかな……」
 力強く話していた幸太の表情がみるみる翳り、力強く硬い砂の大地を蹴っていた足が止まりかける。
「幸太」
「僕も、村長に逆らった、から、罰、受けるのかな」
 俯き完全に止まった幸太の背を押して、戸倉は前を向いて歩き始める。間違っていないとしっかり伝わるように、ゆっくりと話した。
「違うだろ。きっと神様は全部見ていらっしゃる。幸太は悪くない。幸太が悪くないってことは、その命令を出した村長の方が間違っているってことだ。だから、幸太は罰を受けねえだろ」
 支えるように幸太の背に掛けていた手の負担が軽くなる。幸太は自分の力でまた歩き出したのだ。その顔を見ないで、気付いていないというように歩き続けながらそっと戸倉は微笑んだ。
「うん。僕、間違ってない」
「自分が正しいと信じるものを信じていろ。神様だって忙しいんだよ。そのうちお前を苛めたやつも、間違った指示しかしない村長も、そのうち罰を受けるんじゃねえの」
 殊更に軽い調子で言うと、今度は腕に負担が掛かって歩き続けていられなくなる。ぶら下がるくらいに強く腕にしがみつかれたのだ。とりあえず体格が勝っているとはいえ、たくましい幸太は意外に重い。
「っおい!」
「ありがとう、兄ちゃん」
 振り解こうと腕を振っても更に強くしがみつかれるばかりで離れようとしない。無駄に戸倉が疲れるだけだった。
「別に」
「良かった。外から来たのが兄ちゃんみたいに良い人で。僕、やっぱり間違っていなかった。だから神様がご褒美をくれたんだ。兄ちゃんが僕を助けてくれるんだ」
 違う、と戸倉は叫びだしそうな心を宥めるので精一杯だった。間違っても褒美と良い意味で受け取ってもらえるような人間ではないのだ。それでも助けてくれると喜び全身で縋ってくる子どものひたすらに純粋な思いを否定し、その希望を潰すことなんて出来なかった。出来ることなら助けてあげたい、そう思うのは至らない自身を抱える戸倉には傲慢な思いであるのかもしれないけれど、それでも、或いはこれは変われなかった戸倉に新たな変革を与える微かな希望なのかもしれない。少なくとも今はそう努力すべきだと、戸倉は縋り付く子どもの背を撫で、今自分に出来る精一杯の気持ちで笑いかけた。



 話しながら昨夜から戸倉が借りている屋敷の門まで辿りつくと、隣を歩いていた子どもが突然視界から消えた。振り返ると門に入る手前で足を止めていたのだ。
「ここ、入るの?」
 そう言って門を見上げるその面持ちはどこか神妙だ。子どもにそんな表情をさせる何かがこの屋敷にはあるのだろうか。そういえば村の家並みと比較してやたら大きなこの屋敷が空き家だったというところからおかしかったのかもしれない。どこの誰とも知らない旅人にこれほどの屋敷をやけに勧めたのは何か深刻な問題を抱えていたからかもしれないとその可能性に思い至り、戸倉は子どもに気付かれないようこっそり顔を顰める。
「何だよ、嫌なのか」
「嫌って言うか、……ここは特別な人が住む神聖な場所だから、入っちゃいけないって言われてて」
 なるほど信仰深いのだ。こんな小さな子どもが、と戸倉はただ感心して聞く。
「でも、入る」
 ひどく生真面目な顔でそう言った幸太の顔は大人びて見えた。心に何かを決めた所為だろう。敢えてそれには触れず、ただひとつ頷いただけで戸倉は門の中へと足を進めた。門から玄関まで続く石畳を殊更ゆっくり歩いていると、早足で追いついてきた幸太がすぐ後ろでひとりごとのような呟きを零しているのが耳に入る。
「村の家で入ったことが無いの、ここだけだったんだ。でも村長が兄ちゃんをここに住まわせたわけだし、その兄ちゃんが僕を招いたんだから、うん、入っても問題ないはずだ」
 懸命に考えながら答えを出そうとする幸太の言葉に何か引っ掛かりを覚えた戸倉は足を止めて振り返り、同じく足を止めた幸太にまっすぐ向き直って尋ねた。
「っていうか、神聖な場所って何だよ。得体の知れない俺に、ここに住めって、どういうことだ?」
 先ほど門を見上げて神妙な面持ちをした幸太の様子に抱いた疑問が再燃する。その必要も無かったのに、強引にこの屋敷に住むよう勧めてきた村長の意図が戸倉には分からなくても村人である幸太には分かるのかもしれない。
「それは、たぶん……、だってさっきあいつら、兄ちゃんのこと……」
「幸太?」
 考え込みすぎる所為か、まっすぐ向き合っているはずの幸太の視線は戸倉に向いているのに素通りしてどこか違う場所を見ているようだった。しかしそれはすぐに戸倉の上に戻ってきて、今度は困惑して戸倉に縋るようにして向けられる。
「兄ちゃん、どうしてこの村に来たの? ああ、でも選ばれたりしなければ……、僕、ずっと兄ちゃんと一緒に居たいのに、どうしたら……」
「待てって幸太。落ち着いて、もっと、俺にわかるように話してくれ。それと、俺がこの村に来たのは、桐谷に連れてこられたからだけど」
 そういえば桐谷はいつからいなかったのだろう。一緒に祭りに付き合ってくれと言っていたのに、いったいどこへ行き何をしているのか。
「あの人、今日は特別な役だよ」
「役?」
 説明によるとどうやら桐谷は今日の祭りで主役を務めるらしい。村長を司祭とした祭りの、一番重要な場面でホヅノという神様の役をする村人が必要となる。それは本来ならば村の男が春から競って一番強いものが手にする名誉ある役であり、今回もそうして戦いの末に勝ち取った村人がその役を務める予定だったのだ。
 しかし昨日になって桐谷が帰ってきたと知ると、突然村長がその役を交代させたのだ。こんなことはじめてだ、と語る幸太の様子から、これが異例の事態であると想像できる。その役の予定だった村人は当然のこと、それ以外の村人も今まで役をかけて戦ったすべてが無意味だったのかと反発した。誇りある役なのだから、納得いかないのも当然だろう。先ほど戸倉を襲おうとしたのも、村人ではないという排他的な意識も勿論あっただろうけれど、それとはまた別に、役を奪った桐谷と一緒にいたということで憎しみが増し、その鬱憤を晴らしたかったのだろう。
「この村では、どんな大人も村長の決定には逆らえないんだ」
「でも、だからってどうして桐谷に変更したんだ?」
 幾ら逆らえないとはいえ、その内心では村長に対する不満、不審が育ちはしないだろうか。実際にその煮えるような憎悪の色を間近で見ることとなった戸倉は不思議でならない。この村で誰も逆らえないというほどの強い権限を手にしているというのに、従順な村人にそこまで横暴な仕打ちをして行き場の無い憤りを募らせることが自分への憤懣に繋がると思わないのか。あるいはあれだけの憎悪、不審さえ跳ね除けられると思うほど村長の権限は絶対だと信じているのだろうか。
「分からない。でも昨日、あの人が来たときから変なことばかりなんだ。入っちゃいけないって言われてたこの屋敷の手入れをさせて住ませたり、重要な役をあげたり、今までこんな特別扱い聞いたことない」
「待て、そういえばあの屋敷に住んでもいいって、桐谷だけが特別扱いじゃないってことなのか。まさか、桐谷のもあれ自分の家じゃないのか」
「え? 一緒にここに住んでるんじゃないの?」
 それは違う、と説明しようとしたところで戸倉は異変に気づいて視線を上げた。やけに外が騒がしい。朝から祭りで賑やかではあったけれど、これは全く別の喧騒だ。思わず身構えるほどの緊張感、そこにある緊迫漂う雰囲気に戸倉は酷く馴染むものを感じた。己の住む世界はそうした生死を掛けるほどの緊張感の中にあるのだと改めて己の全身に語り掛けて確認する。
「何だろう、もしかしたらこれ」
 じっと喧騒が伝わる門の外を見つめながら何か心当たりがあるらしい幸太が話し始めると、ちょうどその門の外から大人が二人駆け込んできた。
「幸太!」
 入ってきた大人たちに鬼のような形相で詰め寄られ、強く名前を呼ばれた隣の子どもの身体がぎゅっと硬くなる。何か問題があるなら守るというように戸倉がその肩に手を置くと、はっとしたように顔を上げた幸太は強張っていたその表情に無理矢理ではあるけれど確かな笑みを浮かべ、大丈夫と頷いて戸倉の手を退けた。
「厳戒令だ。幸太、お前は家に帰っていろ」
 今まで村人が示してきたような排他的な素振りを見せないどころかまるで戸倉がいることに頓着せず、緊迫した面持ちでそう告げる大人たちに、その内容から何か察したのか幸太の眉間に皺が寄った。
「……鬼、なの?」
「そうだ。俺たちが守ってやるから、だから、家に隠れて、次の命があるまで動くな。いいか、声も出すなよ」
 ここに来てまた鬼なのか。いったい村人の指す鬼が何なのか、様々な要素が詰め込まれたその言葉の些細な違いを理解できない戸倉には分からなかったけれど、それでも現れた大人たちは幸太を守ろうとここまで知らせに来てくれたということだけは理解した。しかし幸太は動き出そうとする身体を押しとどめるようにして戸倉を振り仰ぎ、次いで大人たちを見上げて訴える。
「兄ちゃんは」
「だから、この村に含まれるうちは俺たちが守るって。いいから幸太、急げ」
 せっかく守ろうと腕を掴んで引こうとする大人の手を幸太は振り払おうとしている。
「行けよ幸太。良く分からないけど非常事態で、こいつらお前のこと守ってくれるんだろ。だったら俺のことはいいから行け」
「兄ちゃん」
 それでも逡巡する子どもの背を押してやると、気をつけて、と言葉を残して幸太は大人たちに連れて行かれた。去り際、屋敷に入ってじっとしているようにと戸倉にも指示を残していった大人たちに従うわけではないのだけれど、他にすることもないので戸倉はそのまま屋敷の中でひとまず落ち着くことにした。思えば朝からずっと出たきりで何も口にしていない。朝、桐谷が持ってきてくれたものの中に、そのままでも食べられる果物があったはずだと思い出したのだ。



 庭から何か気配がする。人間のものとは違う何かだ。手にしていた林檎をテーブルに残し、戸倉は足音をたてないように静かに縁側に向かった。木々の生い茂る庭の中に動く影。
「……んだよ、お前か」
 それは昨日見かけた黒猫だった。
「来いよ」
 呼びかけるとまるで言葉が分かるのか一声ないて近寄ってくる。可愛いな、と和んで眺めていると、黒猫は急にその足を止め、視線を違う方に向けてそれからまた木々の間に消えていってしまった。急に猫の様子が変わったと怪訝に思い、その視線が向かった場所を探ろうとした戸倉は視線を向けるなりぞっとした。
 長く丈の伸びた草の中に女の子が立っていたのだ。年齢は十くらいか。整えたことが無いというほど乱れた黒髪は長く、腹は奇妙な膨らみを持っていた。そこに人間がいると分からなかったのはそれが奇妙な気配だったからだ。本当にこれは人間の女なのか、幽霊か、それとも鬼というものなのか。戸倉が息を呑んで見つめる中、女の子はその顔に笑みを浮かべて見せる。それがまた、ぞっとするほどに奇妙なのだった。
「誰だお前」
 声を掛けると、女の子はそれを合図にしたように近寄ってきた。庭を突っ切るようにして縁側から屋敷の中に入り込み、近寄るだけ奥に入る戸倉を追ってくる。いったい何なのだと戸倉が対応を躊躇っていると、女の子は部屋の脇にいつの間にか置かれていた四角い箱のあちこちを開けて中身を取り出し、見つめる先で茶を煎れて見せたのだった。もしかしたら桐谷の知り合いなのか。先ほど幸太が一緒に暮らしていると勘違いしたように同じ敷地内にいると思っていたとすれば、その可能性は高いだろう。しかしそうだとしてもやはり変だ。戸倉とは初対面なのだし、用事があるような素振りも無い。
「……桐谷なら、いないけど」
 一応そう言ってみるけれど、女の子はただ静かに部屋の中央の座卓に煎れた茶を並べて座り、反対側に手をそっと差し伸べるだけだった。言葉がなくてもそれが向かいに座って茶を飲めと言っていると分かる動作だ。桐谷に用事ではないのか。
 では本当にいったい何なのか。
 溜息を吐いて、しかし結局戸倉はその向かいに腰を下ろした。分からないものを放置するのは嫌いなのだ。徹底的に付き合ってやる、そう思いつつ、女の子が口にしないので戸倉も茶には口をつけなかった。そして、相手が黙ったままなので戸倉も無言のまま、ひたすら女の子を睨みつける。
 動じない女だ。そう思った。まだほんの子どもなのに肝が据わっている。内心そう舌を巻いていると、不意に女の子が動いた。今度は何をする気だと睨む戸倉の視線など意に介さず、静かに近寄ってきた女の子は戸倉の傍に膝をつき、戸倉の胸に手のひらを当てるとそのまま押し倒すように身を乗り上げてきたのだ。
「な……っ」
 まさか女の子にそんなことをされるとは思っていなかった。完全に油断していた戸倉は、しかし恐らくこの年齢ながら妊婦と思しき、それも自分よりも若い女をどう扱っていいのか分からず、力ずくでどけることもできない。慌てる戸倉とは対照的に、まるで純粋に微笑む女の子はそのまま顔を戸倉の胸に埋める。
「やめろって、お前! 腹に子ども、いるんだろ。もっと自分を大事にしろよ」
 これ以上は拙い、と怒ってそう言うと、顔を上げた女の子はただ不思議そうに戸倉を見つめるのだった。言葉が通じないのか、と苛立った戸倉は、しかし次の瞬間、言葉が通じていないのだと気付いた。そうだ、ひとことも声を聞いていない。或いはこの年齢で妊娠しているのもその辺りに原因があるのかと思うと自分が悪いことをしてしまったような暗い気分に陥った戸倉は、未だ不思議そうに見つめる女の子の肩をそっと押して退かせて立ち上がった。幼いころ散々味わってきた、弱者が強者の気まぐれの道具として、或いはその衝動を慰めるために良いように弄ばれるしかなかった記憶、今まで目を背けてきた過去の自分の屈辱を突きつけられた気がした。
 静かな和室、障子の向こうに見える午後の光が差す庭、それらを眺めて混乱した気持ちを落ち着ける。すると、そっと背を押されて思わず一歩足を踏み出した。振り返れば背に回った女の子がまたあの微笑を浮かべて、尚も背をぐいぐいと押してくる。どこかへ導こうとしているのだと気付いた戸倉は、そうして押されるままに歩き出した。
 廊下を過ぎて台所に入ると、朝に来たときは気付かなかった小さな扉まで導かれてそれを潜り、更に奥に続く部屋に入る。そこは貯蔵庫のようだった。高い場所に小さな明り取りの窓がある以外の一切の窓明かりが無い薄暗い部屋を見回していると、突然全身の毛が逆立つほどの衝撃に襲われた。
「……っ、お、まえ!」
 薄暗い視界が更に暗くなるのは後頭部を強く打たれた所為だ。そう気付くと途端に割れるような痛みに襲われる。必死に目を凝らした戸倉は、女の子が手に棍棒を持っているのを確認する。屈み込んで戸倉を見つめるその瞳と視線があった。殺すほどの勢いで人の頭を殴ったというのに、とても楽しい遊びをしている子どものように純粋な笑みを浮かべている。油断したのは確かだけれど、どうして、まさか、と思ううちに視界は完全に闇に呑まれた。あんな棒で頭を打たれたのだ。暫くは起き上がれないだろう。そう諦めた戸倉は、しかし辛うじて保っていた意識で現状を確認し続ける。抱えて運ぶことが出来ないのだろう、ずるずる床を引きずられているようだった。あまり感覚はない。
「兄ちゃん!」
 どこかで幸太が呼ぶ声が聞えてきた。答えなくては、と思うのに自分が話しているのか声が出ているのかどうか分からない。それから、何かとても懐かしい声が聞えた気がした。何故だか泣けてくるほどに懐かしく、愛しい声だ。
「三上……」
 意識が混濁しながら戸倉はひたすら夢とも現ともつなかい闇の中で三上を想う。



「いらない、じゃないよ」
 怒っているのではなく、困っているのか眉間に皺を寄せた三上に腕を掴まれている。これはまた随分前、空から何かが落ちてくるならそれは雪だろうと確信するほどに晴れて寒い冬の日の記憶だ、と頭のどこかで戸倉は冷静に思った。また、それとは別の過去をなぞるような思考で目の前の三上からどう逃げようかと思案している。
「勝手に食えば良いだろ」
「一緒じゃなきゃ意味が無い。君が食べないつもりなら僕も食べないよ」
「……何だよそれ、脅しのつもりか?」
 別に三上が食事を抜こうが戸倉には何の関わりも無い。脅しになんてならないと思って三上を見れば、じっと自分を見据える漆黒の瞳と視線が合い、思わずたじろいでしまった。
 何の関わりも無い。そう思っているはずなのに、どうしても押し通せない。自分のペースを他人によって崩されるのがとても嫌いなのだから、家にいる間の食事はすべて一緒に、なんて約束をするつもりなんて無かったのに。
 でも、几帳面な三上が食事を抜くなんて考えられない。三上の方こそそのペースを他人に乱されるのを嫌うはずなのに、どうしてそんな無謀な賭けのような主張をするのか。
「……仕方ねえな」
 自分の所為でペースを崩す三上、というのが何だか嬉しくて、しかし嬉しいと思う自分が何だかとても嫌な考えだと思ったので、戸倉は食事に付き合うことにしたのだ。だからこれは自分の名誉のためであって、決して三上のためではない。
「ありがとう」
 それでも、ただ食事を一緒にするというだけで三上はとても嬉しそうに微笑んだりするのだ。その微笑がどんな感情から齎され、どんな意味があるのかは結局分からないのだけれど、戸倉はただ、その顔を見ることが嬉しかった。その僅かな喜びが降り積もって、幸せを形作っていったのだ。頭部を強打され混沌とした意識の中で、淡く淡いとても幸せだった記憶に包まれた中で、戸倉はそう理解していた。










2010/2/9  雲依とおこ







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