まぼろしのくに




 みるみるうちに日は翳り目に映る景色すべてがその鮮やかさを失っていく。深い森の中、それも山の傍らにある所為で日が落ちるのが早いのだ。わざわざ屋敷から離されたということはあの時そこには手がかりとなる情報が確かにあったのだろうし、そしてまた離されていたその間にすべて片付けられてしまっただろう。それでも、と屋敷に戻った三上たちは、座卓に並べられていた茶も敷かれていた座布団も先ほどまで置いてあった荷物も、そこに人がいたという形跡のすべてがなくなっているのを目にするだけだった。予想どおり徹底的に証拠が消されているのを見てこれ以上屋敷を捜索しても無意味だろうと見切りをつける。折角手に入れた情報を自らの軽率な行動で水泡に帰する結果になってしまったことは痛いけれど、だからといってこれ以上敢えて無駄足を踏むような馬鹿な真似はしない。
 さて、ではこれから何を手がかりにどう動けば良いのか。こういうときこそ冷静に、そう言い聞かせた三上は、動いて手がかりが得られない状況になったのだから思考で得るまでだと立ち止まって思考に専念することにした。聞けばそれまでは幸太と共に自由に行動できていたようなのに、まるで予見などしていなかっただろう三上が来た所為で戸倉はどこかに隠されたのだ。しかし、いったいどうして。ただの旅人であるはずの戸倉を同じく旅人である知人が訪ねてきたからといって隠し、嘘を吐いてまで会わせない理由は、いったいどこにあるのだろう。戸倉の問題か、或いはこの村が抱え持つ問題か。
 そういえば村長は今この村が祭りの最中だと言っていた。そして一番の鍵となるのは幸太が聞いたという生贄という無視できない表現だ。まさか現代の日本において本来の意味での生贄というものは存在しないだろう。周囲から隔絶されたような村では古来の風習が色濃く残るところもある。本来の意味が失われてなお形だけ残ったそれをなぞり続け、そうして長い年月の間に別の意味が付けられ変質していっている。恐らくは祭りの中での生贄という言葉や形の残ったものに変質した意味が付けられた何かの役か符号ではないか、そう三上は推測していた。子ども相手にそういった迷信めいたことを話すのは、より従順に村に従わせるための手のひとつだろう。
 しかし、本当にそれだけなのか。殺される、と真顔で訴えたときの幸太の感情がこのとき三上の身にゆっくり沁みてきた。自ら望むだけでなく、そうでなくてもおよそありそうもないものに関わっているのが戸倉なのだ。
「ねえ、最後に彼を見たのは具体的に何時ごろ?」
「……時計、見てなかった、けど、二時から三時の間。鬼、じゃないや、兄ちゃんが来て騒ぎになったでしょ。あれで家に帰れって言われて別れた」
 三上が村に訪れたのは一時過ぎだった。それから襲い掛かってくる村人を倒して彼らが諦めるまでは十分程度だっただろう。その間に村に触れが回ったのだ。それから三上が村長の許に案内され、それから村を回る途中で幸太に会って話を聞き、この屋敷に到達するまで全部で一時間にも満たないだろう。
「その時はまだ、ここにいた……」
 この屋敷に三上が辿りついたとき戸倉がまだこの近くにいたからこそ村長たちはあんなに慌てて駆けつけてきたのだろう。ほんの少しのタイミングで捕り逃したのだ。
「ねえ、祭りの予定は知ってる? 生贄って祭りに関する何かじゃないの。だとすれば、祭りの流れによって居場所が分かるかもしれない」
「そっか! えっとね、……あれ、でも、そういえば、音がしないよね」
「音?」
 どうやら毎年の祭り初日の様子と違うようだった。確かめるために屋敷から中央の通りまで出てみると、幸太は匂いを嗅ぐようにして鼻を上げて周囲を見渡す。通りに人の姿は無く、家々の軒先に鮮やかな色彩の布が飾られている他は祭りの気配は無い。これは三上が来たときからこうだった。改めて不思議そうに見つめる幸太の姿に、これが普通ではなかったのだとはじめて三上は知った。人の姿は無いのにその狭い村には人々の気配が、念が立ち込めている。今にも破裂し溢れ出しそうなその念は、祈りであり、恐れであり、不満であり、納得できていない何かに対する叫びのようだった。それら負の感情が渦巻く中に立ちながら、三上はそれらすべてを切り捨てる覚悟で睨みつける。
 村が歪んでいるからこんなに負の感情が溜まるのだ。その恐れを捨てるため、不満をぶつけるためのスケープゴートにしようと旅人として辿りついた戸倉が利用されようとしているのなら、三上はそれを許すわけにはいかない。絶対に阻止する。
「そういえば今年は最初から変だった。でも、生贄のある祭りは十年に一回で、僕、今まで見たことなかったから分からないんだ……。何か、特別な儀式があるって聞いてるけど、だからかな」
「特別な儀式」
 いかにもそれが怪しい。生贄として戸倉が何かさせられるというのなら儀式が行われる場所を捜せば良いのではないか。幸太はそれを知らないというけれど、儀式というからには神社かどこかそれに類する場所だろう。
「神社? うーんと、そんな名前の場所は無いよ。それが特別な場所っていうのなら、この屋敷か、村長の家か、やっぱり山のお宮様かなあ」
 見上げるように空を仰ぎながらその瞳の奥で思考するように何も見ていない幸太の言葉を聞きながら、背にした屋敷を振り返ってみた。山を背にしたその屋敷は他より更に暗く、荒れた庭の木々が垣間見えるそこは鬱々として見える。
「確か、いつもホヅヌ様の役をする人が村長の家で宴会してるみたいだから、たぶん、そこじゃないかな」
 村長の家ならこの村に入った直後、三上も訪れている。なるほどこの屋敷から連れ出して次に向かおうと思ったとき、一度確認したと思っている場所なら二度は見ないと匿うのに丁度良いかもしれないと三上も思えた。というよりこの小さな村で、他は同じように小さな民家ばかりなのだ。三上がそう納得していると、そうだ、と何か思いついたように幸太が顔を上げた。
「そうだよ、今年のホヅヌってあの人じゃない。あの人なら、佐久兄ちゃんのこと知ってると思う。知らなくても、村長はあの人に弱いみたいだから、きっと何とかしてくれる」
「……佐久。……あの人って?」
 確かに今、佐久、と言った。
 三上はその一瞬、何も出来ずにただ拳を震わせていた。
 ここで戸倉は名乗っていたのだ。やはり昨日ここに来たのは戸倉だったのだ。名前を知っていたのなら早く言って欲しかった。聞かなかった三上が悪いのだけれど。そう、最初に名前を聞くべきだったのだ。しかしどうせ幸太からしか話は聞けなかっただろうし、聞いてこうして動いている途中なのだから結果は同じ。ただ三上の動揺が少し遅く訪れたというだけ。しかし今はそれを詮議するよりも他にすべきことがある。あの人、というのは誰なのかと三上は睨むようにして幸太に詰め寄った。
「昨日、兄ちゃんと一緒に村に来た人だけど。兄ちゃんたちよりずっと大人の、もとともとこの村の人で、……え、知らないの?」
 やはり誰かと一緒だったのだ。ずっと大人、ということは学校の友人ではないということか。基本的に三上はそうした戸倉の交友関係に詳しくないけれど、あの警戒心が人一倍強い戸倉に一緒に旅するような大人の知り合いが居るとは思えなかった。
「名前は分かる?」
 とりあえず村長の家に行けばいるというのだから、足早に歩き出しながら三上は尋ねる。また幸太が懸命について来ている気配がある。
「桐谷って言われてた」
 それから幸太は昨日から今日まで主に桐谷が来たことで起こったことを話してくれた。村長の指示で先ほどの屋敷が綺麗に掃除され、その間に村長の家で祭かと疑うばかりの盛大な宴が繰り広げられたのだとか。そして今日、祭りの初日。半年かけて決められる祭りで一番重要な役をいきなり帰ってきたばかりの桐谷に変更すると村長が決めたのだという。異例の事態に村は騒然となったけれど、村長の決定に逆らえるものはいない。そして村の憤懣を他所に、祭りの最中は村長と桐谷は役の出番が来るまで村長の家で飲んでいるというのだ。理由は分からないけれど居場所が確実なので十分だ。あとは締め上げて問い詰めれば良いのだから。そして村に来た最初に村長の家で見た光景を三上は思い出していた。そこで少しではあるけれど話をした人物がいた。あれがもしかしたら桐谷ではなかったのか。戸倉はどういうつもりで一緒にいたのかと疑いたくなる、それは、あまり良い感じのしない人物だった。



 昼間は豪奢に見えた村長の家は薄闇に呑まれようとしている今、ただ不気味な黒い塊として目の前に現れる。それは或いは宴を開いていた昼間の雰囲気と、今、中から外まで溢れ出さんとしている恐怖の感情がそう感じさせているのかもしれない。
 その雰囲気の違いに何事か悪いものを胸に沁み込ませながら三上が正面からその家に入ると、中はもっと混沌とした空気に満ちていた。人が来た気配を感じたのか、どこからか女が駆けつけてきては三上を目にした瞬間まだ全力で逃げていく。その繰り返しだったけれど、混乱は三上が来る前からのようだ。右へ左への大騒ぎに構わず家の中に上がり、部屋をひとつひとつ確かめていく。宴が開かれていただろう客間に向かうと、調度品は破壊され、そこに綺麗に並べられていたはずの膳はことごとく倒され皿はひっくり返り料理は畳にばら撒かれて染みをつり、何もかもがこの家の中に漂う空気と同様に混乱し散乱したひと気の無いその部屋の奥に隠れるようにして村長がひとり頭を抱え蹲っていた。
「長?」
 追いついた幸太が怪訝そうに小さくなっている村長の許へ向かって呼びかけているけれど、近くで叫ばれても全く気付いている様子が無い。ただ畳にできた染みを執拗に見つめるようにして実際には何も見ていない目で下を向き、ぶつぶつと聞き取り難いひとり言を延々呟いているようだった。これでは既に狂人か廃人だ。
 何かがあったのだ。これは幸太がはじめて目にする数年に一度の特別な祭りだから、というわけではなく、本当に異常事態なのだろう。これは話が聞ける状態ではないと溜息を吐いた三上は、ふと、誰もが近寄ろうとしない中、一人の女が近寄ってくるのに気付いた。華やかな色彩の着物を纏い、手には布巾が握られている。この惨状を片付けようとやってきたのだろう。
「幸太君、どうしたの?」
「ねえちゃん!」
 びっくり目を開いた幸太はそう叫んでから三上を仰ぎ、本当の姉ではないけれど、両親を亡くした自分にいつも良くしてくれる人なのだと説明してくれた。
「こんな場所に来ちゃ駄目じゃない。もう、仕方の無い子」
「僕、今日からもう子供じゃないんだから」
 女の言い方が気に食わないと突っかかる幸太は、しかし膨らませていたやわらかそうな頬と顔をすぐに萎れさせ、視線を未だ蹲る村長に向ける。
「長、どうしたの?」
 その質問を幸太がしてくれて助かった、と三上はこっそり頷く。目にすれば逃げ出すほどに徹底的に拒絶されている三上が質問すれば、恐らくは悲鳴かそれに類するものしか返って来なかっただろう。
「これね、……今年のホヅヌ様と口論して……」
「あの人と? 何の話してたか分かる」
「いいえ。口論の間は外に出されていたから。でも、ホヅヌ様すごく怒ってて、村長はそれを宥めるのに必死だったのは分かったわ。まあ、でも、宥められずにこうなったみたいだけど。それにしてもこんなこと、はじめてよ。祭りでこんな、縁起の悪いこと」
 この部屋の惨状はその所為だったのだ。それにしても仲間割れとは。その理由も顛末も三上にはどうでも良いことなのだけれど、そこに戸倉が関わってくるなら別だ。ここに来れば手がかりが得られると思ったのに。
「はじめてって……、いつもは、どんな感じなの?」
「別に、村長とその年のホヅヌ様で儀式までの間飲んで騒ぐだけよ」
「そういえばさ、今年のホヅヌ様って、何でいきなりあの人になったか、知ってる?」
「それも分からないわ」
 うんうん唸りながら幸太は思いついたことを次々に質問していく。何より三上が知りたいのは戸倉の行方なのだけれど、幸太はそれよりも今回の祭りのことに興味があるようだ。言葉に出来ない焦れる気持ちを抑え、三上はただ目的の話題に触れられるのを待つ。
「じゃあ、生贄の年って、その生贄はどうなるの?」
「ごめんね、儀式に関わることは分からないわ。私たちが入れるのはこの家だけなの。儀式が行われる神聖な場所へは、女は入れないわ」
 儀式が行われる場所は別にあるのだ。ようやく目当ての情報に辿りついたのは良いけれど、ここではないというならどこだというのか。やはり先ほどの屋敷が怪しい。
「どうして」
「血の穢れを纏うからよ」
「?」
「まだ分からないわよね。でも、女はみんなそうなの。だから、儀式に携わるのはみんな男なのよ。だから生贄に関しても、まるで分からない。ただ、生贄にされた人が帰ってきたことは無いわ。だから、その話は禁忌なの。覚えておいて」
「それで、その、ホヅヌ様は?」
「それが屋敷の中にいらっしゃらないわ。また戻られるとは思うけど」



 祭りの話をする中で、幸太など子どもだけでなく大人に至るすべての村人にあまりに浸透している神のような存在に、三上はすっかり呆れていた。村長のあのすっかり怯えた様子も、その信仰の心の裏返しなのだろう。
「……それ、上手く騙されてるんじゃないの?」
「何だよ。……佐久兄ちゃんはすごいって言ってくれたのに」
「ああ、彼なら、言いそうだね……」
 蒸した真夏の空気とは違い、冷えさえ感じさせる尖った空気が森に落ち、木々を、草を、どこか侵しがたいものに見せている。辺りが闇に完全に同化するのも時間の問題だった。それでも三上は前を見据えて山を登る。しんと静まり返った空気を乱すのは前を行く幸太の息遣いだ。無理をさせている自覚はあったけれど、気遣っていられる状況ではなかったし、幸太もそれを分かっているからこそ弱音を吐かず一心に山を登っているのだろう。
「もう、すぐ、だよ」
「うん」
 結局村長の家で得られたのは、そこに戸倉も、そしてホヅヌ役としてそこにいるはずの桐谷もいないということだけだった。村長の家が儀式の場所ではなく、戸倉が泊められたという屋敷にもいなかったとなるなら、宮ではないかと幸太が言い出したのだ。知り合いの女性も曖昧にではあるけれどそれを否定しなかった。しかし闇が迫る山に子どもが登るのは危険だ、と女性は幸太を必死に止めようとしていた。
 それでもこうして幸太は三上を案内してくれている。力の限りに足を踏ん張り、子どもの足では歩き難い山を登っていく。道を聞いて三上がひとりで向かっても良かったのだけれど、何の目印も無い夜の山を登るよりも朝、宮まで行って来たばかりだという幸太に道案内を頼んだ方が確かに手っ取り早いだろう。しかし子どもが夜に歩くには相応しくない。それでも幸太は自分から行きたいと嘆願してきたのだ。自分が案内した方が早いから、連れて行って欲しいと。どうしてもと訴えるその剣幕は、戸倉と一緒にいた時間は短かったようなのにここまでするのか、と正直三上が困惑したほどだ。しかし自分にとって都合が良いことではあるので敢えてそれを問うことで水を差したりはしない。
 夜の闇の中を頼りない手持ちの明かりがふらり揺れながら照らしている。そうして暫く進んでいると、息が切れ無言になりながらも弱音ひとつ吐かず、足を緩めることすら無かった幸太が不意にその足を止め、三上を振り返って満足そうに、或いは誇らしげに微笑んで見せた。
「あれが、お宮様、だよ」
「……」
 それは深い木々に覆われた山の一部にぽっかり空いた穴のような暗い空間だった。既に完全に日が落ちている所為かと思ったけれど、手にした明かりを向けても近寄ってもその暗さは変わらない。ゆっくり近寄っていく幸太に並ぶようにして、触れるほどに近寄ることでやっとで見えたのは、小さくて黒い、いかにも宮造りの手によるものと分かる建物だった。
 しかし、中に人の気配は感じられない。
 入る前に既にそう落胆しながら両開きの扉を潜る。幸太が手にした明かりを掲げて内部を照らしているけれど、狭いその室内には遮蔽物が多く、中途半端に照らす所為であちこちにいっそう深い闇が存在していて気味が悪いほどだった。
「誰も、居ないね」
 確かめるでもないことを口にする幸太に三上は言葉も返さない。揺れる頼りない光で何か手がかりでもないものかと探すけれど、そこにあるものはすべて許からここにあるような、等しく古びたものばかりだった。
 ここも無駄足だったかと三上が落胆していると、ふと、風の流れを感じて顔を上げた。耳を澄ませば微かに何か動物の唸り声のようなものが聞えてくる。闇の中に不気味な咆哮は、しかし深い悲しみの色も含んでいるようだった。警戒しつつ何の音なのか辺りを見回すけれど、狭い室内に様々な遮蔽物があっては音源を特定し難い。
「あ、そこ、危ないよ」
「……何」
 幸太が注意を促したのは音のする場所を探して部屋の奥に近づいたときだった。足を止めて近寄ろうとしていた場所を目だけで窺えば、そこは岩で出来た祠のようなものがあった。どうやら音はその中から聞えてくる。更に慎重に仔細を確認すると、岩で作られている淵は完全な空洞を抱えるためのものだった。空洞が深い所為でそこをとおる風が不気味な咆哮のような音となって聞こえているだけなのだ。
「朝来たときに、その中に花を贈ったんだ。神様のところまで繋がる祠だから、入ったら帰って来ることが出来ないって」
「神の居所に繋がる」
 直径一メートルほどの空洞だ。どうやって作られたのか岩には繋ぎ目のような引っ掛かりが無く、暗いそこを指で探ってもとても滑らかな質感でしかなかった。
 それでも、ここが怪しい。神に繋がるということは、儀式の場所に繋がるということか、あまり想像したくないけれど或いは生贄が捧げられる場所ということではないか。
「入ってみる」
「え、無理だよ! 底が無いって、落ちたら帰れないんだって!」
 懸命にとどめようとする幸太を無視して三上は淵に足を掛ける。覗き込む中から風が吹き上げてくるのが分かる。まるで捧げられた生贄の怨念のような不気味な音となる風こそ、どこかに通じている証拠だ。
 この先に戸倉が居るかもしれない。
 今度こそ、という期待のみでまるで恐怖の感情など無い三上がそこへ踏み出そうとした瞬間、「駄目だって」と幸太に腰に抱きつかれバランスを崩した。
「でも、ここに彼が居るかもしれないよ。会いたくないの」
「……会いたい」
「だろう。僕は行って、連れて帰って来る。君はここで待っているといい」
「……」
 あれほど引き止めていたのに固執する戸倉に会えるかもしれないと言った途端納得したらしい幸太の手を強引に剥がし、三上は闇に続く穴を見つめる。別に無策で穴に飛び込もうというわけではないのだ。手は考えてある。



「おや、本当にいらっしゃった」



 ざっと全身に鳥肌が立つほどの驚愕に打たれながら、しかし三上はすぐに穴の淵から離れ背後を振り返り体勢を整える。外の闇を四角く切り取る開いたままだった宮の入り口に、その闇を背にした青年が立っていた。幸太と言い争いをしていたことや穴に入ることに神経を向けていたとはいえ、決して周囲の気配に無頓着ではなかった三上が、声を掛けられるまで、ここまで接近されていたのにまるで気付かなかった。幸太が持つ明かりを受けるその顔は見覚えがある。この村に来たとき村長の家にいたのと同じ、気に入らない笑みを湛えた顔だ。これが桐谷という男なのだ。
「屋敷に行ったら、僕を探していた人がこちらに来たと聞いたから、まさかとは思いましたが。本当にこんな場所まで、ねえ?」
 ふわふわとした笑いと背にした闇を纏いながら桐谷はゆっくり室内に入ってくる。背後に伸びていく影が外の闇と交わっていくのがまるで侵食されているみたいだと思った。
「幸太君、おねえさんが心配していらっしゃいましたよ。早くお戻りなさい」
 怯えたように三上の足にしがみついていた幸太は、そうして声を掛けられてびくりと身体を震わせる。躊躇うように間をおいてから、それでも顔を上げて答えていた。
「でも、兄ちゃんが」
「佐久君が心配ですか」
 近寄った桐谷に屈み込んで優しそうな笑みを持ってそう声を掛けられ、幸太ははっとしたようにその目を輝かせた。
「! うんっ」
「彼なら大丈夫ですよ。村長が勝手なことをするので僕も柄にも無く怒ってしまいましたが、会いに行ったら元気にしていらっしゃったので安心しました」
 それを聞いて心底ほっとしたらしい幸太とは別に、三上は無性に気に入らない気持ちで襲い掛かっていた。信用してはいけない、と本能が訴えるのだ。しかし桐谷は意外に避けるのが上手い。また、かわすだけで向こうから手を出してこないのがいっそう三上の気を荒立てた。
「おっと乱暴ですね。良いんですか。僕を殺したら、彼は一生助かりませんよ」
「……」
 それは完全に脅しだった。優しい笑みの裏で、やはり桐谷は違うものを持っているのだ。それが残忍さなのか冷酷さなのか分かりかねるけれど、よくないものであることは確かだ。
「じゃあ、彼を返してくれるの」
「会わせてあげても良いですよ」
 まるで三上の持つ殺気を無視し、にこにこ微笑んでさえいる桐谷に、三上は更に面白くないと不満を募らせた。
「別に彼はあなたのものじゃない。その表現は、不快だ」
「そうですか。ではその穴に入ってみますか。しかし、こんな場所まで捜しに来て、挙句穴に落ちて亡くなられてしまっては僕も面白くありません」
「面白く、無い?」
「だから彼に会わせてあげるんです。まあ、佐久君はきっと、あなたに会いたくないと思いますけど」
 そんなはずはない、と三上は睨みつける。確かに三上と暮らしていた家を抜け出しこんな村まで辿りついてはいるのだろうけれど、だからと言って嫌われているとは思っていなかった。迎えに来るのを待っているだろうと。
 しかし何もかも戸倉の事情を知っている、というような余裕の笑みを浮かべる桐谷に、その背に負う闇が宮の内部に侵食してきたように、どうにも三上の胸に不安が沸いてくる。
「では、屋敷に戻りましょう」
 いずれ会えば分かること。
 それまでは何も考えないでおこうと三上は思った。










2010/2/9  雲依とおこ







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