まぼろしのくに




 小鳥のさえずりのような軽やかさを持つ笑い声に甘い花の香り。どこか幻想染みた音と匂いがまるで夢の続きのようで、目を開いた先の湿った闇の方が夢なのかとまた瞳を閉じようとした戸倉は、しかしそうしたことで眦に感じるものにやっとで目を覚ました。指で眦に触れ、濡れたそこが不思議でたまらなかった。内容はまるで覚えていないけれど、とても幸せな夢だったような、失うことを悲しむような、そんな余韻だけが残っているのだ。
「起きたわ!」
 知らない女の声に驚いた戸倉が身を起こすと、途端に頭が割れるような痛みに襲われた。そうだ、殴られてどこかへ運ばれたのだと思い出し、自分が今どこに居るのか確かめようと痛む頭を手で押さえて周囲を見渡す。
「どこだ、ここ……」
 いったいあの女の子は何だったのか。いきなり目の前に現れて、人を油断させて殴り倒して。そして連れ込まれたここは、見渡す限り薄暗くて判然としないけれど、湿った匂いはあまり人工的なものを感じさせない空間だった。ふらつく頭を抱えたまま立ち上がって壁らしき場所に近寄り触れると、ざらりとした岩の感触があった。薄暗くて全体が把握できないけれど、どうやら岩でできた空間に居るようだった。洞窟だろうか、と戸倉が最初に触れた壁に沿って歩き出そうとすると、急に目の前が明るくなった。
「まあ! まだ歩いては駄目よ」
 姦しいばかりだった先ほどとは違う女の声だった。どこか優しさを思わせる、ゆったりとした口調。しかしこの声も戸倉は知らない。
「……っ、お前、誰だよ!」
 手に古めかしい燭台を持った女はどこかの角から曲がって来たようだった。明かりに焼かれて一瞬視界を失った戸倉が目を細めて何とかその視界を取り戻すと、自身が持つ柔らかな橙色の明かりに照らされた女の身に纏う和服の華やかさがまず目に入る。その華やかな色彩に、そうだ、祭りだったのだと思い出した戸倉だけれど、どうにも最初に見たときと感じが違う。
「私は三番目。それよりあなた、怪我をしているのよ。横になってなきゃ駄目」
「……っ、大丈夫だ。なあ、ここ、どこだよ」
 確かに頭は割れるように痛い。しかしどことも知れない場所で知らない人間が傍にいて横になるなんて無防備な真似はどうしてもできなかった。
「……あなた、何も知らないでここへ来たの?」
 感情を隠すように空いていた片手で口元を覆った女は、しかしその大きく見開いた目で感情を表してしまっていた。親しみ、驚愕、そして憐れみ。そんな顔で見るな、唐突に沸いてきた苛立ちに戸倉はそう叫びたい衝動に駆られた。ただその衝動に耐え、女の感情の波が落ち着くのをじっと待つ。
「何をしているの」
「姉さま」
 感情に揺られ声も出せなかった女が答えを口にする前に、新たな女が出現した。二人とも十代前半か後半くらいの、いずれも整った顔立ちの女性ではあったけれど、少なくとも姉妹のような類似は見えなかった。  疑問を発しようと戸倉が口を開いた瞬間、その向こうから更に女がやってくる。どの女も同じように華やかな色彩の和服に身を包み、長い髪を丁寧に結い上げていた。
 ひそひそ、女だけで話しこんでいるのをじっと耐えて待っていると、二番目に現れた女性が代表するように微笑みながら近寄ってきた。
「何も知らされずにここに連れてこられたのでは、随分不安だったわね。でも大丈夫よ。私たちがいるから安心して」
「……あんた、誰だ? それから、ここは、どこなんだよ」
「私は二番目。ここは神の花畑、或いは宮ノ下と呼ばれる場所よ。今日は花畑に花が降ってきたから、もしかしたら新しい子を授かるかもしれないって思ったけど、本当だったのね。しかもはじめての男の子。嬉しいわ」
 暗闇に慣れた目にもただの洞窟にしか思えないのだけれど、だとすれば花畑とはまた随分皮肉に思える名前の場所だった。
「……さっきから、三番目二番目って、何の番号だよ。名前、聞いてんだけど」
「ふふ。入った順番が名前になるの。それ以外のものは、外の村に捨ててくるものなのよ。それがここの掟。村とは違うの。あなたもここに来たからには従って貰います」
「……掟」
「だって私たち、神に仕える特別な役目を与えられたのよ。時折いらっしゃる神にうたを、踊りを、花を贈るの。楽しませるために存在を許されるのよ」
 その言葉に戸倉は息を詰まらせる。生贄、という言葉の中身がようやく理解できた気がした。
「じゃあ、あんたら、いつからここに……」
「さあ、覚えてないわね」
「私はつい最近よ」
 覚えてないと言った二番目と同意するように頷いた恐らくは一番目の女とは別に、勢いづいて三番目が最近だと嬉しそうに話し出した。
「生活はどうしているんだ」
「飲料にも洗いものにも利用できる水の流れがあるわ。食事もそれで出来るの」
「そうだわ。折角新しい子が入ったんだから、今日はご馳走にしましょう」
「何が良いかしら」
 それにしては火の気が無い、と疑問に思うけれど、久しぶりに見る新しい人間と話したくて、話したくてたまらないといった感じで女たちの会話に入っていけないまま忘れていった。



 調理場へは一番目と二番目だけが向かっていった。いつも二人で料理してくれて、自分はまだ任されたことが無いのだと悔しそうに言いながら、それでも三番目は新入りである戸倉の相手を任されたことが嬉しくてたまらないというようにあれこれ話しながら「花畑」を案内してくれた。或いは見張りではないかと疑ったけれど、ただ純粋に新たな話し相手が出来た嬉しさを見せる三番目に次第に抱いていた疑念は薄れていく。
「ここが花畑の、花畑といわれる所以よ」
 それは本当に花畑だった。
 燭台の明かりしか無い薄暗い洞窟内に、円形に開かれたその場所に、色とりどりの花が咲き乱れていた。どこか日光が入る場所でもあるのかと頻りに上部を見上げるけれど、ここは天井が高いのかどんなに目を凝らしても真っ黒な闇が見えるばかりだった。
「不思議でしょう? 私も最初はびっくりしたわ。これはね、神様のための花畑だから、こんなに美しく咲くのよ」
 こういう不思議があるのだから世の中は面白いのだ。誇らしげに語る女に頷きながら戸倉は改めて花に視線を落とす。最初に感じた良い匂いはこの花たちのものだったのだ。甘い、甘い、脳を陶酔させる匂いに、いつの間にかあれほど戸倉を苦しめていた頭痛も収まっていた。これも神の力なのかと戸倉はひっそり頬を綻ばせる。
「こっちに川があるわ」
 そして花畑の奥に水の流れがあった。暗闇に流れる水は漆黒にしか見えないけれど、手に掬えばそれが綺麗な水であることが分かる。光で照らすと辛うじて手前部分の水底が見えたけれど、奥に行くに従って深くなっているのか手持ちの明かり程度では何も見えなかった。流れを確かめると元は岩の隙間で、溜まったそれが流れていく先は深いたまりの底。
「潜っていって帰ってきた者は無いって話よ」
「……それって」
 こんなどこへ通じるとも知れない暗い水の中に身を投じる理由を、今の戸倉はひとつしか思いつけない。他にどうすることもできずに切羽詰った末の行動だろうと。
「私ね、ここへ入ったとき、どうしても村に帰りたくて、毎日出口を探した。泣いて叫んでも誰も返事してくれないし、血が壁にこびりつくまで壁を叩いてもどこも開かなかった。どこにも出口なんてなかった。だから、この水が流れていく先があるなら、もしかしたら村に流れる川と同じものなら、そう思ったの。あなたも今、同じこと、考えていたんでしょ?」
「他に、出口が、無い? だって俺が入ってきた場所は」
「無駄よ」
 明るい女たち、美しい花畑と様々なものに目を奪われていた戸倉は、ここへきてやっとで自分の身に起こった事態を本当に理解した。洞窟は閉じ込めるための房なのだ。
「嘘だ」
「確かめても良いけど、無駄に終わるだけだし、それに姉さまたちの不興を買うわよ」
 巻き添えを食うのは嫌だから、ほどほどにしておいてね、と忠告してくれる三番目は、今はもう村に戻りたいという気持ちが無いのだろうか。諦めて、そうしてこんな風に笑えるくらい、絶望し尽くしたのだろうか。
「みんなは、逃げ出したくないのか?」
「ここに居ることが幸せなの。ここで私たちは神に仕えるのよ。私たちのおかげで、村の人たちは平和に暮らせるの。立派な仕事でしょ?」
 褒めて、というような期待に満ちた眼差しに、しかし戸倉は頷くことが出来なかった。心底そう思っている、というような輝きを見せる表情にどこか狂気じみたものを感じて背筋が凍えるだけだった。



 久しぶりにこんなに張り切ったと女たちが自慢げに説明したとおりの美味しい料理だった。閉じ込められた洞窟内でどこからこんな食材を手に入れるのか、野菜ばかりでなく肉も魚もどれも新鮮で、目にも華やかなその料理は普段はそんなに大食ではない戸倉も、美味しかったからか口に合ったからか何だか幾らでも食べることができた。気付けば大量にあった料理がすべてなくなってしまっているほどだった。
「ごちそうさま。本当、美味かった」
「どういたしまして。ふふ、やっぱり男の子って食べっぷりが良いから見ていて楽しいわよねえ」
「そうよね。ねえ、明日は何を作ろうかしら」
 そうして時間を掛けて料理を堪能し、あれこれ話を聞いたあと、皆には疲れたから先に眠るといって先に部屋に戻らせてもらうことにする。  そうして嘘を吐き、親切な三番目の忠告に従い戸倉はこっそり洞窟内を捜索することにした。洞窟内は幾つも分岐した通路があり、そのうちのすぐ行き止まりになるような場所にそれぞれの部屋が割り当てられ、戸倉もそのひとつを自室として使用できるようあれこれ用意されていた。洞窟内は主となる通路自体が曲がりくねっているうえに幾つも分岐しているので、全体を把握するのには少し時間が掛かるのだ。
 しかし勘を頼りに進むうち、何とか自分が最初に倒れていた場所に辿りついた。触れた岩の形が特徴的だったのでよく覚えている。そこから先に続く道は、徐々に奥に細くなって見えるけれど人が一人とおるだけの幅は保たれているし、長く引きずられた朧な記憶からもそこから運び込まれたものと思うのだ。
 出口を探す必要がある。だって戸倉はこんな場所に閉じ込められるわけにはいかないのだ。
 帰らないといけない場所がある。
 こうなってはじめて戸倉の胸のうちに迫り来る思いがあった。
 よく分かったのだ。
 何が必要なのか、どうするべきなのか。
 どうしても譲れない思いがあることを。
 だから、まだ、諦めてはいけないのだ。
 手にしたささやかな明かりで壁を慎重に探りながら進むと、行き当たりに辿りついた。そこだけ手に触れる質感が違っている。これが扉だ、と思って戸倉の心が高鳴るけれど、どんなに明かりで照らし出しても指先の皮膚で触れて探っても、どこにも取っ手らしき引っ掛かりがない。ただ、岩との境目に僅かな切れ目が感じられるだけだ。ここが開くことは間違いないのだ。しかし某か掴む場所がなければ押すことは出来ても引くことは出来ない。試しに体重を預けて押しても勢いをつけてけりつけてもびくともしなかった。本当に扉なのかと、単に他と質感の違う鉄板が埋め込まれているだけかと疑いたくなる。
 もう一度、と明かりで照らしてみると、岩との境目が黒く染まっているのに気付いた。
 血だ。
 古びた血痕が、その色を黒く見せていたのだ。そう気付くと同時に、見知らぬ女の姿が見えた。幾つも、重なるように。絶望の表情を目にした戸倉に絶望の感情が重なる。ここに閉じ込められた誰かが戸倉と同じようにこの扉を見つけ、逃げ出そうと爪が剥がれ血が流れても構わず足掻いた様子が目の前の扉に重なるようにして戸倉の目に見えたのだ。瞬きひとつで消えたその幻に、戸倉はただ鳥肌を立てながら立ち尽くす。
 襲い来るのは移された恐怖と絶望だ。無言のまま暫く立ち尽くしてその感情と戦っていた戸倉は、深呼吸してその恐怖を打ち払う。
 素手で無理なら何かこじ開ける道具を探せば良いのだ。一旦通路を戻り、三番目か誰かにそれを聞こうと思った。或いは手伝ってくれるかもしれない、そう期待しつつ明かりを手に足早に通路を進むと、割り当てられた自室の近くに人影があった。薄暗い視界の中でもここで出会った女たちではないと分かるその姿に、また妙な幻ではないかと戸倉は身体を強張らせる。しかし洞窟に響いた戸倉の足音に気付いたのか、上げられたその顔を見ると戸倉は何ともいえない懐かしさに襲われた。
「桐谷!」
「佐久君、良かった」
 どうしてここに、と問う前に駆け寄ってきたその胸に優しく抱きとめられる。繰り返して無事で良かったと呟く桐谷に、心配してくれたのだ、という面映い嬉しさと、ここに桐谷が来たのなら恐らくは出る方法も知っているのだろうという安堵に戸倉は身体から力を抜いた。洞窟で目覚めてからずっと、心も身体も休まる間がなかったのだ。少なくとも桐谷は知らない人間ではない、そのことが、触れる優しさと出られる安堵と重なりこうも安堵させるのだろうとぼんやり戸倉は考える。そっと身体を離し、頬に手を添えられて促されるように顔を上げた。
「佐久君、君は、間違えてここに落とされたんです」
「間違い?」
「こんなつもりは無かった。本当に、信じてください」
 常に無く桐谷は困っている様子だった。詳しい説明が無いので分からないけれど、恐らく戸倉がここに閉じ込められてしまったことに責任を感じているのだろう。こんなつもりは無かった、と言うからには桐谷があの女の子を使って戸倉を殴らせここに連れ込ませたわけではないのだろうけれど、或いはいつのまにか離れていたことか、この村に案内したことから責任を感じているのかもしれなかった。
「いったいどういうことか、全く分かんねえんだけど」
「すみません。この村は、何ていうか、様々な掟があって。うっかりしていると勝手に解釈されたり勝手に何かされていたりするんです」
 とりあえずすべてが勘違いだったことは分かったけれど、話を聞いていると余計に意味が分からなくなってきた。怪訝そうに眉を顰めていると、気付いた桐谷は優しく微笑んで頷いてくれた。
「詳しい話は出てからします。取り敢えず早くここを出ましょう」
「ああ」
 やはり桐谷は出る方法を知っているのだ。促されて頷いたけれど、しかしいざ足を踏み出そうとした戸倉は思い出して足を止め、桐谷の服の裾を掴んで引き止めた。
「何ですか?」
「みんなにも声を掛けよう」
 以前にここに閉じ込められた女たちは、みんなもう村に戻ることを諦めたように明るい笑顔でここで暮らし、神に仕えるという自身の役目に誇りを抱いているようではあったけれど、それでも心の奥ではまだ戻りたいと願っているのではないか。少なくとも三番目が戸倉に語った言葉の端々にはその感情が見え隠れしているように思えた。
「それは……」
 しかし桐谷は困ったように眉を寄せ、女たちの部屋がある方へ足を向けた戸倉の手首を掴んで引き止めるのだった。
「止めた方が良い」
「何で」
 ここに他にも女性が閉じ込められていることを知らないわけではなさそうだった。しかし、では何故戸倉だけを助けに来てくれたのだろう。間違えだったから、という理由だけなのか。間違えでなければこんな洞窟に長く人を閉じ込めることが許されるとそう思っているのか。信じていたのに、と責めるように見つめる戸倉の瞳に桐谷は本当に困ったような顔になる。それでも、戸倉の手を掴む力は緩まない。
「理由はあとで説明します。とりあえず君の安全が……」
「ホヅヌ様!」
 一生懸命説得しようとする桐谷の言葉に華やいだ声が被さる。はっとして振り向くと、手に明かりを掲げ持った二番目の姿がそこにあった。悲鳴のようなその声に、一番目、三番目と次々に女が寄って来る。その表情に、その言葉に、ホヅヌという言葉が桐谷を指すのだと戸倉は気付いた。そういえば幸太が祭りの重要な役なのだと、そんな話をしていた。
「ホヅヌ様、ようこそおいでになりました」
「宴の準備は整っております」
 それこそ女神のような微笑を湛えた女たちは、いつのまにか手に持っていた花を掲げて桐谷に差し出す。それから料理に新しい歌にと宴の準備が整っているという花畑へと促すけれど、次々に掛けられる言葉に、あれこれ差し出される貢物に頷きひとつ返す隙を見つけられずにいた桐谷はやっとで言葉を差し込む機会を得たようだった。
「すみません。あの、今日はちょっと」
「まあ、具合がよろしくないのでしょうか。では、寝所をご用意いたしましょう。宴は明日にでも」
 どうしても桐谷を持て成したいのだ、という女たちの気迫は、ここにいることに誇りを持っていると微笑んだときに感じたものと同じだけの根を感じさせた。戸倉の背筋を凍らせただけの、狂気ともいえるだけの気迫だ。それを傍で見ているだけの戸倉がそう感じるのだから、実際に向けられている桐谷はどういう気持ちなのだろうとその横顔を窺うと、ただちょっと困惑しただけのようにしか見えなかった。戸倉を前に困惑していたときと、少し、違う。
「待ってください。今日は、彼を連れ帰りに来ただけなので、構わないでください」
 いっそ冷たいとさえ取れる動作で周囲に群がってその手を引こうとする女たちを振り払い、それでも穏やかさを失わない声でそう桐谷が告げた瞬間、女神のような幸せな笑みを浮かべていた女たちの形相が変わった。
「連れて、帰る……?」
「な、何を仰っているのか、分かりません。駄目ですよそんなの。この子はもう、私たちの、弟なんですから」
 笑顔を湛えているつもりかもしれないけれど、女たちのそれはもう歪んでいて醜く、怖いほどだった。そうして戸倉の腕を絡め取るようにしがみついて引っ張ろうとする。しかし桐谷も掴んだ手を離さない。笑顔のまま睨みあう皆に囲まれ、徐々に状況が飲み込めてきた戸倉は己の浅はかさに後悔するばかりだった。
「この子は、あなたたちとは違う。間違ってここに来てしまっただけなので、元の世界に戻します」
 神とそれに使えるものというだけあって力関係は明確だ。理由はどうあれ女たちが桐谷を神だと思っているのなら、その桐谷の言葉に逆らえないだろう。あくまで傍観者でしかない戸倉はそう思っていた。
「ひとりでここから抜け出すなんて、許さないわ」
 しかし女たちのそれは、執拗というより執念のようだった。それは、あんなに楽しそうに笑い、外に戻るよりもここに居て役目を果たす方が幸せなのだと誇らしげに語った女たちの本音なのだろう。ここから逃げ出すことが出来そうな戸倉への嫉妬、何より必死に取り入ろうとしている桐谷に守られている戸倉への嫉妬、憎悪が薄闇の中で揺れる光を受け爛々と輝くその瞳の中に宿っていた。それらが怨念のように戸倉を圧迫、圧倒する。
「ねえ、ここに居るわよね」
 三番目の女に念を押すように言われて掴んだ腕に痣ができるくらいの力を篭められ、執拗なその瞳に睨まれた戸倉は金縛りにあったように動けなくなっていた。こくりと頷いたのが自分の意思だったのか女に動かされたのか自身でも分からない。ただ、その腕を振り払えないのは戸倉の意志だ。この女たちを放って自分ひとり逃げ出すのは駄目だという気持ちが生まれていた。
「そうよね。もう、私たちの弟なんですもの」
 そう言って頷くそこにはまた女神の微笑みが戻っているけれど、それは以前見たときのように美しいだけのものには見えない。今はぞっとするような恐ろしいものとして感じられるだけだ。状況を不利と取った桐谷もここへ来て仕方ないと諦めたようだった。
「一旦引きます。でも、必ずまた迎えに来ます」
「それまで精々みんなを説得してみるよ」
 強気に微笑んでそう告げると、ずっと困ったように眉根を寄せていた桐谷がふっと零れるような笑みを見せた。女に腕を取られたままの戸倉から手を離したので、そのまま行くのかと思っていると、ふと腕を引いて顔を近づける。
「……っ」
「君にだけ、教えておきます」
 頬を擦り合わせるようにして耳に口を近づけた桐谷は、そうして傍にいてじっと執拗に見つめる女たちにも聞えないような囁き声で戸倉の耳にこっそり出口を教えてくれた。
「それでは、また」
 にこりと微笑んで去っていく後姿に、女たちは両膝両手をついて見送る。そのため既に戸倉は解放されてはいたけれど、同じ場所から動かず桐谷が去っていく闇の先を見つめていた。
 桐谷が迎えに来るまで待つ必要は無い。
 ここから出るための術は得られたのだから。



「だから、みんなでここを出ようぜ!」
「まあ、この子ったら何を言うのかしら」
 しかし説得しようにも女たちは聞く耳を持たない。子どもが駄々を捏ねるのを優しくあやすようにしか相手にされないのだ。
「何でだよ。外に出たくねえのかよ」
「私たちはここにいるのが幸せよ。ここから出ようなんて、恐ろしいこと。私たちの可愛い四番目。ねえ、あなたにもいずれわかるわ」
 先ほど戸倉が逃げることにはあんなに嫉妬したのに、どうして逃げようと誘うとこうも頑なに抵抗するのか戸倉にはまるで理解できない。そう、女たちは戸倉の知らないそれぞれの掟に従い、長く生きてきたのだろう。考え方が違う相手に説得は難しいけれど、それでも自分の方が正しいと信じる戸倉は時間さえ掛ければ説得できるだろうと思っていた。
「さあ、馬鹿なこと言ってないで一緒に花畑へ行きましょう」
「そうよ。またホヅヌ様がいらっしゃるのだから、花冠を作りましょうね」
 そう言って手を引かれ、また暗闇に花の咲き乱れる不思議な空間に連れて行かれた。それは或いは戸倉が逃げ出すのを監視するためだったのかもしれない。まるで裏の無さそうな笑顔を見せる女たちが抱え持つ醜い嫉妬を知っている戸倉は、もうその笑顔を信じることなんて出来なかった。ただ、それを救いたいと、そう思うのだ。
 暫くそうして連れまわされ、やっとで解放された戸倉が与えられた部屋で一息つくと、微かな物音が入り口で聞えた。まだ監視されるのか、そう溜息を吐くと、こっそり呼ぶ声が聞えた。三番目の声だ。
「何だ」
 入り口に立ち、そう声を掛けると三番目はびくりと身体を震わせた。どうにも見えない何かに怯えているように見えた。
「あのね、私……、私、外に、出たい」
「!」
「姉さまたちは無理よ。何か、絶対に外に出たくない理由があるみたい。でも、私は外に思い残しているものがあるの。少しの時間でいいから、だから、私を一緒に連れて行って」
 姉たちに見つかれば絶対に引き止められるから、戸倉が一人きりになるのを待ってこっそり声を掛けてきたのだという。戸倉としては全員助けたかったのだけれど、全員を説得するのには時間が掛かりそうだと思うこともあり、先に三番目だけ助けておいたほうがいいかもしれないと考えた。
「分かった。行こう」
 出入りできるのは二箇所。ひとつは花畑の上にある闇だ。普段は手の届かない、光を当てると陰になりとても分かり難い場所から、一部階段状になっていて、そこから登ることができるのだという。そしてもうひとつが今、戸倉と三番目が向かう、先ほど戸倉が見つけた質感の違う壁がある場所だ。しかしその壁はやはり見せかけ。そこに意識を向けさせ、そのすぐ傍にある本当の入り口を心理的に隠すのだという。
 それは同じ場所の天井にあった。
 明かりを向けても見えないけれど、戸倉が土台となって三番目がその上に乗り、天井を調べたらすぐに見つけられた。また、普段は鍵が掛けられて中からはどうしようもないそこも、今は桐谷がこっそりあけていてくれる。目の前の壁にある血痕を見ればまた幻に囚われそうだと思った戸倉はそちらを見ないようにして、ひたすら外に出ることだけを考えた。
「開いた!」
「よし、そのまま先に上れ」
 先に唯一持ち出した手持ちの明かりをあげておく。洞窟はそれで殆ど真っ暗になっていた。開いた場所から出せるのは三番目にとっては伸ばした手の肘から先が精々のようだ。それでも戸倉の背に乗せた足でつま先立ち、必死に腕に力を篭めてよじ登って、何とか身体を押し上げることに成功した。
「大丈夫か」
「うん、平気。さあ、あなたも」
 そう三番目が上から腕を差し出すのを断り、戸倉は助走を付けて手を掛け、身体を揺らせて踵を掛け身体を持ち上げた。
 洞窟から上がった先はまた明かりも窓も無い、どこまでも暗い通路だった。まだここも地下なのだろう。
「行こう」
「うん」
 それでもここが外に、村に通じる道なのだ。自然微笑む三番目の手を引いて、小さな明かりを手に洞窟よりもずっと歩きやすい人工的な木製の道を進む。まっすぐ一本しかないので迷うことは無かった。
「外に思い残してることって何だ?」
「こっそり飼っていた猫がいるの。他に誰も知らないだろうし、私がいなくなってどうしてるか心配で」
 それはまさか戸倉が泊まらせてもらった屋敷でたびたび目撃していたあの黒猫ではないか。今走っている通路の先にある出口は恐らく戸倉が泊まったあの屋敷の台所なのだろう。あの猫は屋敷の周辺をうろうろしていた。もしかして三番目が猫を探しているように、猫の方も三番目を探して通じる道の近くであるあの場所にいたのか。確証がないので三番目には安易に安心させるようなことは言えないけれど、何となく再会できる予感に他人事ながら嬉しくなってきた。
「無事に会えるといいな」
「ありがとう。あなたも、外に会いたい人がいる?」
「……まあ」
 ふんわり嬉しい気持ちが伝播して、そうしてふわふわ浮かぶような心に浮かんだのは一人。
 会いたい。
 そう思うととても会いたくて仕方なかった。何でもいいからその声を聞きたい。洞窟に入ってから時間の感覚は曖昧だけれど、それでもまだ最後に会ったあの朝から三日程度しか経っていないはずなのに、もう随分と離れているような気がした。
「そう。大事なことだよね。やっぱり出て良かったわね。私も、あなたも、会えるといいね」
「そうだな」
 楽しそうな、哀しそうな声でうたうように紡がれたそれは、なんだか祈りのように響く、染み入るような言葉だった。



「階段がある。あれが、たぶん出口だ」
 話しているうちにだんだん外に出る安堵が身に沁みて言葉に詰まるのを必死に堪えながら、感動して言葉もない様子でただ頷く三番目の震える手を引いて、ゆっくり階段をのぼる。今度も上部に扉があったけれど、また鍵は外され、今度は階段で足場がしっかりしているので大変な思いをしなくて済んだ。手を掛けるだけで簡単に開けられた扉から、僅かな明かりが見える。
 そこは、予想どおり屋敷の台所脇にある貯蔵庫だった。三番目の手を引いたまま台所を過ぎ、廊下に出る頃には逸る気持ちのままに駆け足になっていた。
「やっとで、出た……」
 外は夜だった。月明かりが静かに日本庭園を照らし出している。黒猫はどこだ、そう思ったところで、三番目の手から力が抜けるのを感じた。
「どうした、見つけたのか」
「……っ」
 振り向くと女は頭を抱えて蹲るところだった。
 苦しそうな呻き声が聞える。
「おい!」
 別の箇所から猫の声が聞えた。
 視線を向けると黒猫が駆け寄ってくる姿が目に入る。
「おい、しっかりしろ。猫、あれだろ。来たぜ」
 蹲る三番目の背を落ち着かせるように撫でると、その手首を強く強く掴まれた。尋常ではない力に眉を顰める戸倉だったけれど、振り仰いだ苦悶に満ちた三番目の表情に言葉を詰まらせた。それは苦悶だけではない、後悔や、憎悪すら感じさせる瞳だ。そして一言も発することなく三番目は崩れるように倒れてしまった。慌ててその身体を抱え、声を掛けようとする。
「……っ」
 しかし開いた口から言葉が漏れなかった。だって倒れた三番目には既に息が無い。またそれだけでなく、どれだけ手を尽くしても無駄だと分かる状態だった。若く瑞々しかった肌が一瞬醜く爛れたように見えたと思ったら、今度はみるみるうちにその水分を失い、頭から豊かな黒髪がばさばさ音を立てて抜け落ちる。眼窩は落ち窪んで真っ黒な穴に変わり、皺枯れた皮膚はその内側にある肉も腐敗して収縮し、しまいには骨に皮が張り付いくだけのまるで人ではなく枯れ木のように朽ちていったのだ。
 どうしてこんなことになったのだろう。
 ただ、外に出ただけなのに。
 出てはいけないとされた生贄が掟を破ったための呪いなのか。
 傍に寄った黒猫が必死に鳴き、朽ちて既に枯れて息も絶えているだろう三番目を舐めて癒そうとしている姿があまりにも哀れで堪らない。そうして言葉も無く戸倉が見つめ、どうしようもないまま触れた背は、しかし背骨だけの感触を伝えたきり、ぽきりと軽い音を立てて折れ、そして砂浜に風が吹くように粉になりさらりと流れて完全に消えてしまった。
 目の当たりにしたすべてに戸倉は混乱し、後悔していた。
 外に連れ出してはいけなかったのだ。
 だから一番目も二番目も頑なに外に出ては駄目と否定したのだ。
 そう、三番目は、戸倉が殺した。
 どうしてとか呪いだとか、まるで自分の所為ではないと責任転嫁してはいけない。だって戸倉が外に行こうと誘わなければ、今頃三番目はまだ洞窟の中で花を飾っては歌をうたい踊り、あの明るい笑顔で楽しく暮らしていけたのに。
 そうした三番目にあるはずだった幸せな未来を戸倉が潰した。
 殺したのだ。
 その事実が戸倉に重く圧し掛かる。
 この罪をどう背負って生きていけば良いのか。
 どうして良いのか分からない。
 もう一歩も動けない、そう思った。



「戸倉」



 それはずっと聞きたかった声だ。あまりにも懐かしく、今の戸倉には涙が出るほどに愛しい声だ。幻覚の次は幻聴かと緩慢に振り向いた戸倉は、門から駆け寄ってくる人影に目を奪われる。
「三上?」
 それは正しく、会いたいと願い声を聞きたいと願った存在だった。どうしてこんな場所に居るのだろう。背後の門付近には桐谷と幸太の姿もある。
「こんなところで何してるの。帰るよ」
 少し怒ったような顔を食い入るように見つめながら、頷きそうになる自身を押しとどめる。会いたい人がいるのか、そう聞いてきた三番目の嬉しそうな顔が過ぎって罪悪感に打ちひしがれる。罪を負うせいで、三上に会えた懐かしさも嬉しさもすべてが苦しさに変わるだけだった。
 そもそも三上の許から逃げ出さなければこんなことにはならなかった。この村に辿りつくことも、三番目を殺すこともなかった。弱さを克服できずに迷い逃げ出した、そんなどうしようもなく愚かな自分を、三上はちゃんと追って来てくれたのだ。
「戸倉」
 自らの愚かさを三上に知れることが怖いわけではない。ただ、今のまま、何も克服できず罪だけを増やしてしまうまま、三上の足手まといになるのは嫌だった。
「何でここまで来たんだよ」
「戸倉?」
「馬鹿じゃねえの、こんなとこまで。俺は行かない。帰るなら、一人で帰れよ」
 巻き込まないためには傷付けることしか出来ない。他にもっと優しい方法があるのかもしれないけれどこんな方法しか知らない戸倉は、珍しくその表情に傷を表す三上を目に焼きつけ、それから背を向けて全力で走り出した。振り返らないで走る背中に、ずっと、視線を感じ続けていた。










2010/2/9  雲依とおこ







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