不可視の匣

Chapter 1 ; 冷たい春





 どこから屋上へ出ることができるのか知らなかったけれど、教室のある建物の中央に位置する階段は三年生の教室がある階からまだ上に続いているので、おそらくそのまま行けば良いだろうとのぼっていく。突き当たりの窓から入る光が白い壁に反射して明るい階段室は横幅も広く、なかなか開放的な空間だった。突き当りを折り返して同じ分だけ上ると、そこは小さなスペースと鈍い銀色の鉄製の重い扉があるばかり。
 この扉の向こうに、本当にいるのだろうか。
 頭の中でくるりと一周したその疑問は、西野の言葉どおりにいるのなら嬉しいし、いなくても構わないという気持ちがちょうど半分ずつで、自分はとても冷静だ、と宝来は思えた。そうした気分のまま、躊躇うことなく扉を開く。
 空は完全に雲が覆っているけれど、薄い雲は真っ白に輝くように光っていて眩しかった。肌を打ちすぐに肺まで入り込んでくる空気はやはり冷たい。空気は冷たいだけでなく、やはり高い分だけ強い風となって吹き付けてくるので、屋上は寒いくらいだった。扉から出て左右に長く広がる屋上の前面と左手側には山とも森ともつかない木々の頭がこんもりと続き、右手側は近くには何も見えず、開けた視界にはずっと遠くに広がる平野と、その遥か向こうに霞むような朧な山脈が見えるのだった。
「相馬さ……、先輩、黒崎先輩」
 まるでその平野を眺め降ろすようにして右手側のフェンスに向かって座り込む二人の姿があった。何をするでもなく、ただ、のんびりと過ごしているようだった二人は、少し離れた位置からの宝来の呼びかけに応えるようにして振り向き、何かを話しながらゆっくりとその場に立ち上がった。雲越しとはいえ頭上から降る昼間の日光は屋上の白いコンクリートに反射して眩しさを増している。この位置からだと表情が分かりにくいな、と目を細めて調整しようとした宝来は、長く話し続ける黒崎と、それに答えるように笑う相馬を見て、更にその目を細めた。
 切実な祈りも、
 激しい怒りも、
 目の眩むような絶望も、
 そこには欠片も見当たらない。
 そんなふうに、まるで絵にかいたように友人と笑って過ごす学校生活を楽しんでいるなんて嘘だろうと胸のうちに燻る激しい感情そのままに叫んでしまうところだった。ゆっくりと息を飲んで、静かに細く吐きだす。そうすることで感情を流し、堪えるしかなかった。これは本当の自分の気持ちではないのだ、と自覚している。まるで相馬が明るい学校生活を送っていることを、相馬が幸せであることを否定するような気持ちを持っているわけではないのだ。ただ、一瞬でもそんな時間を持つことが出来る相馬と、それを共有することの出来る黒崎に対する嫉妬が生み出すものなのだ。
「じゃあ、俺は行くけど……」
 は、と気付いたのはそうして黒崎が声を掛け、宝来の肩をぽんと軽く叩いてからだ。感情を整理するのでいっぱいで気付かなかったけれど、いつの間にか黒崎が歩み寄ってきていたのだ。相馬は、と思えばその姿は最初と変わらず、フェンスに凭れてこちらをじっと見ているようだった。用があるのは相馬の方なのに、と思った瞬間、肩を叩いた黒崎の手が強い力でその肩を握るのだった。
「気を利かせてやるって言ってるんだから、そんな顔して睨むなよ」
「あ……、すみません」
 とても人好きのする笑顔を浮かべているのに、肩を掴む黒崎の手は変わらず痛いほどの力だ。答えてもその力も笑顔も変わらない。まだ話があるのだろうと思うのだけれど、掴まれたままなのが嫌で、宝来はとりあえず外してもらおうとその手を払おうとした。
 しかし宝来は動きを止める。
 勘が、駄目だと告げていたからだ。
 危険な相手だと。
「その代わり、妙なことしたら、許さないからな」
 声音はそう変えず笑顔も崩さないままで、向き合う相手にその動きを止めるほどの圧力を与えるのだ。これは相当場慣れしているな、と感じた。それは先ほど西野から聞いた情報とも齟齬しない。しかしそれが分かると宝来は余計に腹立たしく思えて仕方ないのだ。
 許さない、だって?
 こんな風に自分を威嚇するくらいなら、どうしてその時に相馬を守れなかったのか。暴力沙汰を起こしたのか巻き込まれたのか、そういった状況は分からないけれど、怪我をする前に何とかできたのではないか、と今更言っても仕方ないことを考えてしまうのだった。
 しかし怒りに任せて反論したら駄目だ、と自身に言い聞かせることで冷静さを取り戻した宝来は、今度はしっかりと黒崎の手を払い、何も感じていないというようににこりとやわらかく微笑み返して首を傾げた。
「妙、とか、許さない、と言われても、何を言われているのか分かりません。……ですが、そういう穏やかでない言い方は無駄に敵を増やしますよ。それがあなたに対するものだけで終わるのなら、俺も別に構いませんが」
 何に自分は威圧されたのだろう、自分に足りないものは何だろうと、話しながらも黒崎をじっくり観察する。身長はそう変わらない。体格は宝来の方が若干恵まれているくらいだけれど、それでも黒崎には相変わらず迂闊に気を抜けない何かを感じさせるのだった。
「分かった。今はいいけど、また俺ともお話、しようか」
 こうした適度な圧力は、宝来にとっては嫌なものではない。過剰ではないのなら、寧ろそれを跳ね除けようと自身の気力が満ち溢れるくらいだ。だから普段ぼんやりしていることの多い宝来だけれど、今は、はっきりと告げることが出来る。
「必要ならいつでも」
「いい度胸してるな。……ほら、相馬が待ってる。行けよ」



 針金を絡ませて作られたその網が無ければ、いっそ屋上から飛び降りようとする瞬間のような光景だ。自然に倒れこんだようにしてフェンスに前面から凭れかかる相馬の後姿を見て、ふとそんなことを思うのだった。今は背を向けられているために表情が見えない所為で、初めて会った日に見た、自分が危険を回避したあとの相馬の表情を想像するからかもしれない。
 あと大きく一歩足を踏み出せば届くという位置で一度足を止めた宝来は、しかしそれほど近くに行ってもまるで相馬が動く気配が無いので、自分の存在を知らせるようにゆっくりと足を踏み出して隣に立ってみた。冷たい風に吹かれる相馬の横顔を見て、その視線の先を同じように追ってみる。フェンス越しにほぼ真下あたりに見えるのはグラウンドだ。長い昼休みの後半を利用して円形になってボールを打ち合ったり、楽しそうに駆け回っている姿が小さく見て取れる。なんだか久しぶりに見る光景だな、と思った。
「この高校、朝が早くて昼休みが他所よりも長いだろ。朝が遅いとそれだけ遅くまで寝てるだけで、学校に来てから授業が始まるまでの時間は、ここみたいに朝が早いのと、たぶん、変わらない。そうして起きてから授業が始まるまでの時間は一緒なのに、昼休みが余分に長い」
 唐突に話し始めた相馬が何を考えているのか気になって、顔を動かさずに眼球の動きだけでちらりと確認した宝来だけれど、グラウンドを見下ろすためにやや伏せられ翳った瞳からは何の感情も窺えなかった。
 しかし、空気の冷たさを気持ち良く感じるほどに自分の心が温かいことに気付く。
 宝来はこうやって話をしたかったのだ。
 他愛の無い内容でも話を交わすだけというのが幸せなのだ、と唐突に気付いた。
「この高校の変則的な時間をつくった本来の目的は、一見すると少し長い昼休みというだけのこの自由な時間を、それぞれがどう使うのか、というところにあると思うんだ。おそらく早起きすることが大切、なんてその副産物に過ぎない」
 それにしても訥々と続けられる相馬の話は「他愛無い」と言うには些か要点もまとまりもありすぎるようだ。目的を推察するどころか、宝来には他の高校より朝が早いとか昼休みが長いという認識もあまりなかった。おそらくは今、教室で新しい学校での新しい人間関係に馴染もうと、昨日であったばかりの同級生たちと仲良く話を弾ませているだろう高槻たちも、眼下で楽しそうに駆け回る生徒たちも、そこまで考えていないのではないかと思う。
 どうしてこの話を始めたのか分からないけれど、その理由も含めて内容自体も、宝来を楽しくさせるのには十分だった。
「時間の使い方を見られる、ということですか?」
 まるで長い独り言のように瞳を伏せながら語っていた相馬が、少し話し疲れたようにふっと息を継いだその小さな隙間に、宝来は縫うようにそっと言葉を忍ばせてみた。
 伏せていた目をぱちりと開いた相馬は体ごと宝来に向き直り、少し高い位置にある宝来の顔をしっかりと見るようにして顔を上げた。黒い瞳にはもくもくと空を覆う雲が映り込み、複雑な模様を成している。しかし惑わすような映る模様だけでない、相変わらずひとつのところに留まっていない、様々な感情の混ざる激しい瞳だった。
 もしかして試されているのかもしれない、と僅かに思う。
 何を試されているのだろう。
「使い方自体を見られているのではない、と思う。推測だけど見られるのはその結果だろう。昼休みの余分な時間は一日だけならほんの十五分程度のことなんだけど、それが一週間、一ヶ月、一年、そして三年とつづくと、その総時間はどれだけになると思う? 何が出来るかな」
「確かに三年分の十五分を合計すると、結構な時間になりそうな気がしますけど、でも、一日で見たら十五分。ぼんやりしていたらそれだけで何も変わらず毎日が過ぎそうですね」
 答えるように話しながら、自分はそれをどう使うだろうと想像してみる。長すぎると感じながらも結局は何もせずに弁当を食べ終わったらだらだら昼寝でもするのではないか。
 しかし、もし、こうして相馬と話すことが出来るのなら。
 毎日の十五分は、とても有意義な時間となるだろうと想像できる。
「……相馬先輩は、その時間をどう使ってるんですか?」
 思わず聞いてしまっていた。しかし途中でその答えを既に自分は知っていることに気付いていた。先ほど西野に聞いたばかりだったのに、先ほどそれを目にしたばかりのはずなのに、どうしてそれを忘れることができたのだろう。
「何も考えないで、ここで黒崎とぼんやりしている」
 予想に違わない答えではあるけれど、迷うこと無くそう答えた相馬が何だか楽しそうな表情をしていたので、宝来は少しだけ悔しくて、言わなくてもいいことを口にしてしまっていた。
「それが、大切なんですか?」
「少なくとも俺にはそうする時間が必要だった」
 これではまるで相馬を批判しているようだと思い、口にしてすぐに後悔したけれど、表情ひとつ変えずにすぐに答えを返してきたのでひとまず後悔は保留にする。少なくとも自分には、だなんて、なかなか微妙な表現だと思った。
「……黒崎先輩は、そうじゃないと思ってるんですか?」
「どう、かな。黒崎が俺のためにいろいろ無理をしている、とは、いろんなところからよく言われるけど」
 語る相馬の口の端が僅かに上がる。そう言われたときの記憶を思い出しているのだろう、強く宝来を見据えていた瞳はいつの間にかどこか違う場所を彷徨っていた。相馬は笑っているのかもしれなかった。しかしそれは昨日見たような純粋な笑みとは全く違う。楽しくない笑みだった。それを思い出させたのは他ならない自分自身なのだ、と気付いた宝来は慌ててそうではないのだと口を開いた。
「あ、いえ、俺は」
 それではまるで黒崎が善意でやっていることで、相馬が悪い人だと言っているようではないか。しかし西野の言葉を思い出すまでも無く、そう周囲から見られやすい状況であるということは朧に理解できるので、宝来は余計に腹立たしいのだった。
「俺は、そんな風には……」
 あれは黒崎が望んでやっていることだと、自分はきちんと分かっているのだと、それを伝えたいのに、どうしていいのか分からない。腰に手をあてて項垂れたり、口元を手の甲で拭うようにして目を反らせてみたりと自分でもおかしくなるくらい妙な挙動をしていると、自然に息を吐き出すようにして相馬が笑うのだった。ほんの少しだけ、ひっそりとではあるけれど。
 そう思ってから、ふと、そういえば今まで楽に息をしている相馬を見ていないな、と気づいた。
「いや、いいんだ。確かに黒崎は無理してると思うよ。それは事実だからどう思われてもいいけど、ただ、これは黒崎と俺とのことだから、他人に余計な口出しをされたくもない」
 相馬にとって黒崎はやはり特別な人なんだと思うと胸の辺りが少しだけ苦しかったけれど、やはりこの人は自分の信じるもののためには無関係で好奇心旺盛な周囲の言葉を跳ね除けてしまえるのだと、自分の直感は正しかったのだと、そう考えると宝来は嬉しくなってきた。強い力の篭った瞳でそう言い切ることの出来る相馬に、何度も頷きたいような、無茶苦茶に抱き締めたいような、妙な衝動が沸き起こって来るのだった。
「どうして相馬先輩はこの話を俺に?」
 たくさん話を聞けることは嬉しい。しかし相馬にとって宝来は昨日初めて会ったばかりなのに妙に話しかけてくる、得体の知れない新入生でしかないはずだ。はじめの方の時間に関する話も面識の薄い相手にするものにしては不思議だったけれど、それ以降の話は他人に語るには深すぎるのではないのだろうか。聞かれたら誰にでもこんなに正直に何もかもを答えるのだろうか。それではあまりにも無用心だと、自分が喜んだことは棚に上げて心配になってきた。
「……少し、聞きたいことがあるから、かな。どう聞こうか迷ってた」
「何ですか?」
 予想外の返答は宝来を緊張させた。まさか相馬の方から話があるとは思っていなかったのだ。どんな話なのか全く想像できない。もしかして黒崎は気を利かせたのではなく、その為に場を外したのかもしれない。
「いや、先に用事があったのはそっちだったよな。用件は?」



「俺にとって相馬先輩は、昨日、初めて会ったわけじゃないんです。今年の春休み、三月の中旬なんですけど、俺、相馬先輩を見ているんです。H湖の湖岸にある歩道を、ひとりで走っていましたよね?」
 簡単には終わらない話を、いったいどこからどう始めれば聞いてもらえるのか、どう話したら分かってもらえるのかとずっと考えていたけれど、そうした唐突な話を相馬が先にはじめたことと、ある程度長く話して会話に慣れたことで、案外何も考えずにそうして時系列のままに話し始めることができた。
「……それが?」
「歩道から芝生の土手をあがったところに、自転車がとおれる道があるんですよ。俺、そこを何気なく自転車で走っていて、暫くして走ってる相馬先輩に気付いたんです。そのときはまあ、全く知らない人が走ってるという認識しかありませんでしたが。同じ方向だったから、なんとなく追う形になって。ペースは速いのに、腕の動きがぎこちないのが気になって見ていたら、ちょっと、見逃せないことがあったんです」
「……」
 はじめは何のことか分からないという表情をしていた相馬が、ふと思い当たったようにその表情を変える。それまで僅かな変化がありながらもおおよそ雲越しの春の日差しのように冷たさを含みながらも穏やかだった表情がごっそり落ちてなくなって、剥きだしの激しい感情が露になる。深い傷を覆うこともしないまま強い怒りを宿す瞳がきれいで、それが直に向けられる痛みに宝来はうっとりと微笑んだ。相馬の感情を観察するようにじっくり間を置いてから、ゆっくりと続きを話し始める。
「俺が説明するまでもありませんよね。相馬先輩、わざと、危険な場所に、足を踏み出していました。足元を見ないまま、まっすぐ前を向いて。危ない場所だって明らかに分かっててやってた感じでした。あのまま湖に落ちてもおかしくなかった。まるきり命を賭けて、何かを試すみたいに。俺、びっくりして自転車を土手に投げ捨てて走り降りたんですよ」
「知らない」
 硬い声で拒絶するように言い切る相馬だけれど、それはきっと嘘をつくことが出来ないからなのだろう。宝来が指摘した部分を、否定しなかった。知らないというのは駆け下りた宝来に気付いていなかったということだろう。そんなのは最初から分かっていたのだ。あれだけ無防備に自分の中に意識を集中させていたのだから、駆け下りた勢いのまま湖に突き落とすことだって簡単に出来ただろう。周囲の様子に構う余裕なんて微塵も無いほどに追い詰められていたのだろうから。
「……結局、声を掛けることが出来なかったんです。自分の命が助かったことを確認するように過ぎた足場を振り返って見つめていた相馬先輩の、まるで助かったことを喜んでなんていなくて、ひたすら絶望の淵にいるような瞳を見たら、声が出なくて」
 なんて危うい存在だろうと思った。世界を滅ぼしたいと叫ぶのと同時に自分をこそ滅ぼしたいと叫ぶような瞳。不安定なのに前に踏み出していくその強さに惹かれたのだ。
「だから?」
 眦が更にきつくなる。その行動を責められると思っているのだろうか。或いはそれをネタに強請られるとでも。安易に「死にたかったのか」と問うことなんて絶対にしない。今はその傷を抉ることにどんな意味も無いと思うのだ。それよりも先にすべきことがある。
 そうして敵意と警戒心をむき出しにする瞳に睨まれながら、宝来は微笑んで答えた。
「友だちに、なりたいんです」
 後悔はしないと決めたのだから。



 どこかから甘い香りが強い風に乗って漂ってきた。すぐそこにある森に咲く花の匂いだろうか。いつの間にかフェンス越しの眼下に見えていた校庭の生徒達の姿は消えている。そろそろ長い昼休みが終わろうとしているのかもしれない。
 静かだった。フェンスの網目を潜る強く鋭い風の音だけが常に耳に響いているのを宝来は改めて意識する。
 相馬の沈黙は暫く続いた。ずっと答えを考えているのだろう。断ると即答しなかっただけで宝来としては満足なのだし、もうすぐ予鈴も鳴りそうだし、答えはいつでもいいとそろそろ声を掛けようかと思っていはじめたけれど、相馬の口が僅かに動いて話す気配があったのでそちらを待つことにした。
「……友だちって、何だ?」
 ぽつりと呟かれた声は小さく、鋭い風の音に掻き消されそうなものだった。しかし呟かれたその言葉は、長く相馬が考え抜いた後の答えなのだ。
「えと、友だちは友だち……、じゃなくて、一緒にいたり、いろんな話をしたり」
 またしても宝来にとって予想外の言葉に慌てて返答しながら、こんなふうに思いつきの軽い言葉では駄目だと思考を整えていくのに必死だった。
「友だちとか友だちじゃないとか、そういう肩書き……、に、何の意味があるのか、俺には分からない。そんなのに関係なく、気が合えば話をすればいいし、気が合わないなら話をしなければいいだけだろ。それでいいんじゃないのか。わざわざ、今から友だちになろう、と言って、それで頷いたとして、それでその瞬間から友だちなのか。心の中身なんて関係なくて、形が大事なのか。傍にいて楽に息ができることの方が、余程重要じゃないんだろうか」
 これは相馬の本当の心だと思った。まるで静かな怒りをぶつけるように訥々と語る相馬の瞳を受けて僅かに息を呑みながらも、本当にこの人は全力で生きているのだと感じた。そうして全力で向かわないとあっという間に死に捕らわれてしまうとでもいうように。宝来にしても決して安易な気持ちで友だちになろうと言ったわけではなかったのだけれど、伝え方には相馬ほどの真摯さが足りなかったのだと反省する。そこまで相手にする必要も無いはずの宝来の言葉に対して、真剣に考え真摯に答えてくれるのだ。そうした姿勢も勿論だけれど、何よりその考え方に宝来は深く納得したのだった。
「俺は、そういう風に考える相馬先輩が好きです」
 傍にいるのが嬉しい。
 考え方を知るのが楽しい。
 それが重要だと言ったのは相馬なのだ。
 次々と止まることなく溢れるようなこの気持ちが伝わるだろうか。
「だから傍にいたいと思います」
 伝わるといい、と思って精一杯微笑む。じっと探るように見つめるその瞳が、宝来の笑顔に嘘が無いことも見抜いてくれるだろうと信じて。
「そう思うのなら、好きなようにすればいい」
 少し複雑そうな表情は完全に納得したものではないようだったけれど、それでも相馬は頷いてそう言った。納得できない部分というのはおそらくどうして宝来がここまで相馬に固執するのか、その理由にあまりにも飛躍している部分が多すぎて理解できない所為だろう。それは仕方ない。宝来にしたって全部は分からないのだから。
「ただし、俺は今のところお前と居る必要は感じないけどな」
 冷ややかな瞳でそう言う相馬だけれど、今は、と言うところが正直でどうにも微笑ましい。今は確かに相馬の中に自分の存在は必要なくても、そのうち認めてもらえば良いのだ。簡単なこととは思わないけれど、きっと認めさせるという気概は十分にある。
「ありがとうございます」
「……変わったヤツだな、宝来って」



「じゃあ次は相馬先輩の用件ですね」
 どんな小さなことだって相馬が自分に対して思うことがあるのなら気になるし聞いておきたいと緊張感に酔いながら問いかけると、相馬は忘れていたのか忘れていて欲しかったのか、少し困ったように僅かな間を置いた。
「なんだ、覚えて……」
 そのとき風の音だけしか聞こえなかった屋上に予鈴が鳴り響き、話しかけていた相馬の言葉を邪魔した。代わり映えのしない予鈴だけれど、屋上で聞くとびっくりするほど大音量だ。スピーカがどこか近くにあるのだろう。時間切れか、と思うと無性に寂しくなってくる。
「昨日、宝来がどうしてあそこで声を掛けてきたのか、理由が分からないから不思議だった。というよりも不審だった、かな。正直、疑っていた」
 急いで教室に戻れと言われるかと思っていたのに、予鈴が終わると相馬は何もなかったかのように続きを話し始めるのだった。相馬も余程、気に掛かることがあるのだろう。ほ、と安堵の息を吐きながら、疑われていたという言葉に首を傾げた。過去形であるのだから先ほどの会話でその疑いが晴れたのだと思うけれど、そもそもいったい何を疑われていたのだろう。
「宝来を信じる。そう決めたうえで、新しく聞きたいことができた」
「はい」
 信じる、と言われて嬉しさと共に緊張が更に高まる。真剣な相馬に応えるために、慎重に考えるのだと自分に言い聞かせた。
「昨日の朝、宝来に会う前のこと、実はあまりよく覚えていなくて。どうして自分があの場所に立っていたのかも分からないんだ。だから、宝来が知っていることがあったら教えてほしい」
「え?」
 確かに昨日は具合が悪かったように見えたけれど、それでもそこまで覚えていないということがあるだろうか。そうだ、だから相馬は自分でもそれが不思議で、不審なのだろう。その後に話しかけてきた宝来のことを疑っていたのかもしれないと思い至った。
「すみません。俺も、話しかけたあの木陰に立ってる相馬先輩しか見ていないので、その前のことは、分かりません」
 どんなに慎重に、真剣に考えても見ていないことは分からなかった。相馬の質問に答えられないことが残念で仕方ない。役に立てない自分を悔しく思った。
「いや、うん。謝らなくてもいいよ。見ていなかったのなら、いい」
 話はそこでお終いだった。宝来が何か口にするよりも前に、時間が無いから急いで教室に戻ろう、と言うなり相馬は先にたって足早に屋上から階段を下りて行ってしまった。次の約束どころかろくに挨拶もできなかった。思いに耽りながら急いで教室を目指す相馬の様子は、そうした声を掛けられる雰囲気ではなかったのだ。
 いい、と言って口元で笑って見せた相馬の、憂鬱そうな表情が忘れられない。
 自分のした行動を覚えていないというのは、とても不安なのだろう。
 とても気に掛かって、その日の午後、宝来は何もかもが上の空だった。









エムネムさんへ捧げます

2007/9/24 雲依とおこ




Copyright (C) 2007 Kumoi Tohko.All Rights Reserved. 無断転載、複製、使用禁止