きれいな時間
intermission





 ぼんやりと暖かい昼すぎの空気の中を歩き、主の留守の間に合鍵を使ってアパートに入る。屋外の穏やかさとはまるで異なる暗く冷たい空気を払うように明かりをつけてカーテンを開けて行ってもどこかしら冷たさを感じてしまうのだった。それはおそらく必要最小限の物しか置かれていない室内のあまりにがらんとした様子から感じるのだろう。実家に住んでいるときに、まるで見知らぬ客が間借りしているように、いつ何があってもすべて捨ててしまっても構わないという状況で暮らしてきた感覚から、この部屋の主は未だ抜け切れていないのに違いない。
 仕方ない、とそっと息を吐きながら持って来た荷物を小さなダイニングテーブルに降ろした宝来は、そこら中の洗濯物を集めて洗濯機を回し、あちこち拭いて回って掃除機を掛ける。あとは洗濯物を干して一旦時計を見上げて相馬が帰るまでの時間を確認すると、持ってきた食材で簡単な料理を作り出した。少し遠くの大学へ通っている宝来だけれど、少しでも時間が出来ればたとえ相馬がいなくて も必ずここへ来て、こうして某か自分が来たという跡を残していた。
 この春から就職した相馬は、いつだって遅い時間に疲れて帰ってくるのだ。新入社員だから覚えることが多くて大変、と言うけれど、それにしても忙しすぎるのではないかと宝来は心配だった。早く帰ってくると良いのに、と思いながら作り終えた料理にラップを掛け、畳敷きの六畳間にごろんと横になる。もう一週間、会えていなかった。土日が休みの会社のはずなのに、どうして土曜に来ても会えないのだろう。仕事ではないのだろうか、と思いながらいつのまにかうとうとしていた。


 ふと玄関の方向からごそごそと物音が聞こえてきた。うとうとしているだけのはずがいつの間にか完全に眠っていたのだ。飛び起きた宝来は窓の外が真っ暗になっていること、時計を見るともうすぐ日付が変わろうとしていることだけを確認してすぐに玄関に向かう。どうしても相馬が扉を開ける前に玄関に辿り着きたかった。
「おかえりなさい」
「……ただいま」
 扉を開けた相馬が、迎える宝来を見つけた瞬間の顔が凄く好きだった。疲れて沈んでいたその表情がみるみる綻ぶそのすべてを見つめる。本当に嬉しそうに瞳を緩ませ、もう殆ど泣くのではないかと思うほどに安心した顔をするのだ。うっかり眠り込んでいる間に相馬が帰ってきていたときには見ることのできないそれを見逃したくなかった。
「俺、風呂いれてくるんで、先輩は先に食事しててください」
「嫌だ」
 動きが普段よりずっと鈍い様子から疲れの程が窺える。しかし慌てて風呂場に向かおうとする宝来の背には強く否定する声が掛けられた。おそるおそる振り向いて何が不味いのか確認してみる。
「先輩、どう……」
「お前と一緒じゃないと、食べない」
 そう言うと相馬はふいと視線を逸らせてしまう。もうこの人はどうしてこんなに可愛いことを言い出すのか、と宝来は誰にでもなく叫びたい気持ちで玄関に戻り、一歩も動かないその身体を抱き締めた。一瞬だけ戸惑った身体はすぐに宝来の腕の中で力を抜いていく。その首筋に鼻をすりよせながら、ふと宝来はそこに違和感を覚えた。ぴたりと動きを止めて腕を緩め、表情を見逃さないようにと近くから瞳を覗き込む。確か相馬が勤める会社は全室禁煙だったはず。
「ねえ、先輩。煙草の匂い、ついてますよ?」
 いつもと違う反応に戸惑っていたような相馬はまだ両腕を掴む宝来に身体を預けていたのだけれど、そのひと言にほんの少しだけ身体を強張らせ、すっと瞳を伏せる。何かを隠しているのだ。
「お前、犬みたいだな。……接待だったし、煙草吸う人いたから、じゃないかな」
「ふうん。匂いがつくほど近くに長くいたんですね、その人と」
 意地悪をしたい訳ではないのだ。何かがあったと疑っている訳でもない。ただ、一週間もすれ違い続けた自分と違い、匂いがつくほど一緒に居た人があった、それが羨ましかっただけなのだ。
「……風呂、入ってくる」
「それなら俺が洗ってあげます」
「自分でやるよ」
「先輩、疲れてるみたいだし。……俺がそうしたいんです」
 一度断られてもめげずに強気で我がままを言うと、元々断る理由を持たないものなら相馬は必ず折れてくれる。アパートの風呂場は大きな男がふたりも入ると狭い場所だったけれど、触れて居たい宝来は寧ろそれを楽しむように相馬を膝に座らせてその頭や身体を丁寧に洗った。やはり疲れていたのか、相馬は動かずにただ気持ち良さそうに瞳を閉じてうとうとしているようだった。精神的に拒絶する分を除けば基本的に相馬の身体は触れられるのが好きなのだ。こうして疲れているときに、とても気持ち良さそうな表情をするのではそれが良く分かる。大丈夫かな、と思って泡で滑る指先で探るように触れようとすると、それまでもう眠るのかと思うほどに力が抜けていた相馬がいきなり身体を強張らせて宝来から離れようとする。すぐに捕まえた宝来だけれど、自分が失敗したことは良く分かっていた。振り向いた表情は少し苦しそうだった。
「お前、本気で俺を疑っているのか」
「違います。ただ俺、不安で、心配だから……!」
 そう言うと、ふと相馬は俯いて、そうして顔を背けてしまった。それでも宝来の腕の中に収まっていてくれる。
「不安にさせた俺が悪いのか。でも馬鹿だなあ。世の中にお前みたいなのなんて少ないよ。自分がマイノリティだって自覚あるのか?」
「たとえ少数でも居るんです。先輩がそんな油断してるから心配なんでしょう」
 それ以上相馬から返答は無かった。シャワーで泡を洗い流して湯船にいれると、何だか考え込むように難しい顔をしていた。自分の身体も洗って同じ湯船に浸かった宝来が、考え込むその身体を背中から抱き込むと、案の定すぐに相馬は眠り込んでしまった。久しぶりだったから出来ればしたかったな、と思いながらもあまりに疲れきった様子の相馬を見ると無理も言えない。腕の中で安心して心地良さそうに眠ってくれるだけで十分だった。そうして十分と思いつつまるで起きる気配の無い相馬に勝手に口付けて楽しんで、のぼせる前に風呂からあがった。



 深い眠りから覚めた相馬はいつものように襲う緊張に息を止めながら自分がアパートの布団の上に居て隣に宝来が眠っているということを確認すると、そっと息を吐き出し静かにゆっくりと起き上がった。窓の外にある月は薄く鋭いものだったけれど静かにきれいな光を注いでいて周囲が良く見渡せる。横を向いて眠る宝来の頬もほんのり白く浮かび上がるようだった。折角来てくれたのに眠ってしまったのだ。勿体無いな、と思った相馬は指先を伸ばして普段あまり触れることの無い宝来の頬に触れてみた。意外に温かくて、柔らかいのだ。指先で息をしていること感じる。自分とは全く違うものを持って、生きているのだ。触れただけで壊してしまうという危惧をどうしても拭えないまま、それでも温かく柔らかいこの存在がどうしても愛しくて、畏れを抱きながらも触れる指を離せない。
 そっと撫でるように触れ続けていると不意にその瞼が開いて、そうして驚き指を離す間も無くあっという間に背から布団に押し付けられていた。見下ろす宝来の瞳には光が映りこまない。光を飲み込んでしまったかのように暗い瞳は意地悪そうに笑っているようだった。
「起きたなら起こしてください。……でも、先輩から誘ってもらえるなんて嬉しいな。ねえ、先輩。良いんですよね?」
 そうして近くから見つめられるだけで相馬は極度に緊張するようにドキドキして仕方ないのに。嫌なわけが無い、と思いながら指先を伸ばした相馬は、今もまだ拭えない畏れを抱きながら微笑を浮かべて待つ宝来の頬にそっと触れる。今ここで自分の気持ちを正直に言っても間違えてしまうだろうと思ったし、そんなことで失いたくないのだと、相馬はそうして触れることと頷くことでしか答えられないのだった。それでも宝来は幸せそうに微笑んで何もかもを包み込むように優しく抱き締めてくれる。何も言えなかった相馬の一番欲しいものをきっと宝来は分かってくれている。
「宝来……」
 だから良いのだと自分の心を安堵で満たした相馬は、改めて宝来の頬を捉えて呼びかけに答えようとする宝来に口付ける。ゆっくり互いに求め合って、深く長く、それから優しく激しく身体を重ねた。心地良くもありそれだけでないこの行為が満たすものが何であるのかを、相馬は十全に理解できるようになっていた。それを宝来と共有できることがどれだけ幸せなことであるのかも。
 ずっと傍に居てくれた宝来と、これからあとどれくらい一緒に居られるだろうか。無限では無い未来を思って心が苦しくなる日が来るなんて以前は想像もしなかった。期限があるからこそ生きていけると全く逆のことしか考えていなかった自分はどれだけ小さな存在だったのだろう。


「……先輩、少し寝た方が良いんじゃないですか?」
「ん……、と、大丈夫だよ」
 お風呂に入りなおした時はもう朝日が差し込む時間帯だった。手馴れた様子で温かい食事を作り出していく宝来の何だか楽しそうな様子を椅子に座りながらぼんやり眺めていると、うとうとしているように見えたのか心配そうに声を掛けられた。疲れが残る体は確かに眠気を誘っていたけれど、この程度の疲れはいつものことだったし、寧ろ今の疲労は心地良くすらあるのだから味わっているのも悪くない。
「久しぶりに会えた、んだし、起きて、たい」
「呂律上手く回ってないですよ。いや、もう、すごく嬉しいんですけど」
 軽く笑いながら相馬の前に温かいご飯と味噌汁を置いた宝来は、幸せそうに緩んだ瞳で相馬の眦に口付けると向かい側の席に着く。呂律が回らなかったのではないのだ。ただ一緒に居たいと言うのが子どもが我がままを言っているみたいで恥ずかしくなっただけなのだ。両手を合わせて幸せそうににこにこしている宝来はそんなことも分かっているのだろうけれど。
「じゃあ、いただきます」
「……いただきます」
 なんてきれいで幸せな朝だろうと思った。









ペーパーに載せたいちゃいちゃ小話を少し加工

2008/2/3 雲依とおこ




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