記憶の桜




 暗さを抱え持っている所為で実際以上に奥行きを感じさせる森を背に、なだらかにうねり広がる薄茶と緑の枯れ草野原。まだ冷たい風がとおり過ぎるそこに、ふわりとやさしく匂いが混じる。仄かに甘く脳の深いところを擽る軽やかな薫り。硬く凍りついていた空気がほんのりやわらぎ、そろそろと春の花が季節の変わり目を告げようととしているのだ。これはその先触れの甘やかな香りだ。
 ゆっくりと傾いていく光を永遠に変わらないもののように静かに享受しつづけるこの雑然とした里山の景色の中に、ぽつんとひとつだけ思わずほうと息を吐き出してしまうほど大きな屋敷があった。村の中心から少し離れた場所ではあるけれど、そんな家はこの村には幾つもある。この付近に長らく住まいこの集落の歴史を全部知ると豪語する老人たちさえ誕生を知らないほど古くからこの屋敷はそこにあった。木製の門があるだけで壁も柵も無いのでどこからどこまでが敷地なのか分かりにくいけれど、じっと観察すれば大きな屋敷を中心にそれを取り囲むように配置された石や木々の流れを読み取ることが出来る。
 しかしそこにある石は薄汚れ苔むし、木々は無造作にその枝を伸ばしている。随分と手入れが行き届いていない様子が見て取れた。整えられおしとやかにしている木々とは違う、伸びたいままに伸びたその木々はまるで動物でもあるかのように今にも動き出しそうな生命力を放ち、そういったものに取り囲まれた朽ちそうに古い大きな屋敷は怪しい暗さに満ちて見えた。
 化け物屋敷。
 村の者は皆こっそりその屋敷をそう呼び忌避している。しかしそう呼ばれるようになったのがいつからなのかと言えば、語ることを生きがいとする老人達の記憶に頼るまでのものでもない。ここ十数年前のことだから余所者でなければ殆どがその呼び名の理由となるものを知っているのだった。知りながら、語るものは居ない。子どもたちはただそこが化け物屋敷であること、近づいてはいけないことを教えられて育つけれど、子どもは禁じられるほどその内側に興味を示すものだ。濃い影を落とす木々に隠されたその屋敷の傍を通るときはいつだって鼻を広げ耳を澄まし、そこにどんなものがあるのか探っている。中に入った、化け物を見たと言う子どもは少し大きな子に窘められる。化け物というのが自分たちを近づけまいとする大人たちの嘘だということを、その屋敷に住んでいるのが化け物ではなくひとりの大人だということを、人殺しだということを、子どもたちはしっかりと認識しあっていたのだ。
 そう、化け物屋敷と呼ばれるようになった十数年前、この屋敷で殺人事件があったのだ。未だ犯人は捕まらないまま、被害者の子どもがひとりでその屋敷に暮らしている。東条要。当時はまだ六才だった彼は事件後すぐに最後の近親者であった母親も亡くし、遠い親戚の家に引き取られていたけれど、高校を卒業した後は自立しここへ戻ってきたのだ。



 ホロリ、要の手元に置いてある火鉢の中にある灰がひっそりと静かに崩れ落ちる。まるで時間さえ道連れにしているかのようにゆっくりと時間を感じさせる動きだった。まだ春にはもう少し早いというのに戸を開け放した縁側に火鉢ひとつを共に座っているのだから寒くないわけが無い。その火鉢にしたって殆どが灰になってしまい、炭は殆ど残っていないのだ。風の冷たさはそのままあたたまることなく要に吹きつけていた。そうしてただ時間の経過と共に崩れ冷えていく火鉢をぼんやりと見つめながら、どうして自分は手を伸ばさないのだろうと要は考えていた。ちょっと腕を伸ばして灰を掻き混ぜれば、少しは消えかけた火も熾きるのだろうに。ゆっくり消えていく火。のんびり崩れ落ちる灰。それらが、何とはなしに愛しく感じられるのだ。辛い寒さに身を晒しながら動かないことでさえ、要にとっては愛しく必要なことと思えた。そう思う自分を、病人だと自嘲しながら。
 頭を振って強引に火鉢から目を離して庭に視線を向ける。そこはまた同じようでいて真逆の世界だった。死んだように静止しながら、実は毎日ゆっくり伸びている木々。一年前はもっと大人しく、時を遡ればもっと行儀良く慎ましやかであった庭木。その記憶の中から今の光景に戻ると、この庭木の伸びた様子は異様に見えるのだ。死んだように動かない様子でありながら生きて成長している、その、不気味さに、要は背筋をふるわせる。結局は自分と同じだからだろうか。死んだようにひっそりと動かずにいながら、結局は生きて成長している自分と、この庭は、まったく同じもののようだから、だから愛しくて、だからこそ不気味なのかもしれない。
 流れるような春の風がさわさわと木の葉を揺らせる。同じ冷たい風を頬で感じながら、要はずっと、冷たい風を敢えて受けるかのように庭を眺め続けていた。敢えて受けるというのなら自分の風評に対しても同じこと。要は周辺の住人皆に自分が化け物だと言われていることも人殺しだと言われていることも分かっていて、それでもこの土地に戻ってきた。
「どうでもいいことだ」
 誰かそのことについて聞く者があれば、要は簡潔にそう答えただろう。内心の葛藤などおくびにも出さないその無表情で冷たく言い放つだろう。けれど彼にそれを聞く者などこの十年の間にただのひとりもいなかったのだ。どんなに真摯に言葉を発しようとも他人には何ひとつ伝わらない。何もかもが虚しい。それでも自分がここに動かず居るということで要は静かに主張し続けようとしていた。それはまだ誰の心にも届かないままだけれど。
 絵画と疑うほどに動かない景色をすべてを諦めた瞳でじっと庭を見つめていた要の目に、ふと風に乗って薄紅色の細やかなものが移りこむ。くるくる、ひらひら。細やかに廻りながら過ぎていくそれは少し気の早い桜の花びらだろうか。静か過ぎる景色の中で、その小さな花びら一枚だけが生きているような鮮やかさで要の目を惹いた。
 草も木も花もみんな、本当は生きているのに、死んでいるみたいなのだ。この敷地にあるものすべてが息をしていないみたいに、主である要と同じように思っていた。
 ひらりと迷うように舞い込んだ薄紅色の花びらは、だから異端なのだ。何もかもが死んだような敷地の中に、ただ他所の土地から来たその異端の花びらだけが生きているように見える。
 それは自分の所為なのか。
 ゆるやかな風に吹かれうっそり目を閉じ、かすかな木々のざわめきに心を傾けながら目を開いた。

「!」

 目を閉じていたのは殆ど一瞬だっただろう。
 しかし彼が目を開いたその先に、何年も静かだった死んだような景色の中に、異質なものがひとつ。
 人が、ひとり。
 桜の木の横にぽつんと背を向けて立っていたのだ。
 背中から寒気に似た震えがおこる。
 心臓が激しく打つ音も、空気を伝い相手のところまで届いたのではないか。

「……誰だ?」

 誰何する自分の声さえこの静かな場では異質なものだった。発した要自身はその声に驚いて上ずっていた意識を戻すことが出来たけれど、向けられた相手はひび割れるように低く硬い声を警告の響きと取ったのか、恐れるようにびくりと肩を揺らせ振り返る。怒っているのではないと示すために問いかけなおそうと思った要だけれど、間抜けに口をぽかんと開いたまま言葉は出てこない。振り返ったその人物の目が不思議な色をしているように見えたからだ。薄い茶色のその瞳は、光の加減で緑に輝く。海のようだと思った。幼くまだ幸せだった頃に、常に無いやわらかい笑みを浮かべる父とひっそり静かに笑う母に連れて行ってもらった海で見た、砂浜に打ちつける波が一瞬だけ煌く、その、濃紺と白の間に生まれる光の色。
「桜を、見ていました」
 薄い唇が開いて声が零れる。それを聞いた瞬間に、要の中に広がっていた過去の海の情景が消え去っていった。これは幽霊でも夢でも無い、現実だ。
「桜……?」
「いい桜ですね」
 恐れているのかと思ったその人物は要の疑問の声に臆することもなく、朗らかなようでありながらどうしても果敢無い印象を与える笑みと共にそう答えるのだった。何の話かと思えば要が呼びかけ振り返る前に見ていた木の話しなのだった。背を向けていたのは、門の傍にある木を見ていたからなのだ。それは広く枝を張った迫力ある大木であったけれど老木だ。それに要はその木が花を咲かせたところを見たことがないので桜と言われてもすぐにそれと連想できなかったのだ。
 それにしても老木を背にするその人物は微笑んでいるのに、それを果敢無いと感じたのは何故だろう。笑みの中に混じる僅かな寂しさなのかもしれない。死んだような風景の象徴である花の咲かない老木と敷地内に不意に存在する異物である筈の者のその寂しそうな微笑は、要の中で妙にしっくりくるのだった。それは苛立ちを含むものだったけれど。
「それ、桜ですか?」
 相手のそうした様子を慎重に観察しながら返した言葉は僅かに硬い声だった。何故だか心がもやもやと晴れない。桜がどうしたというのだろう。
「もう長くここに住んでいますが、花が咲いたのは一度も見たことありません」
 根を張る地中にこの敷地内だけ特別な栄養でもあるというのか、敷地内の木々はどれもその外側のものたちより勢いが良かったのだけれど、この桜の木だけが例外だった。枯れることはないけれど、花を咲かせたことは一度も無いのだ。遅れて気づいたように葉が茂るのが辛うじて生きている証だった。
「それでも、まだ、生きています」
「……生きて?」
 そういえば母は植物が大好きだった。物静かで好き嫌いを言うことが無かった母だったけれど、植物に向ける愛情は見ていてよく分かった。その母が春になると門の傍にあるこの大木を眺め、ほうと溜息を吐くのだった。どんなに栄養を与えても花が咲かないのは何故だろう、と呟く声を聞いた時、要は何と答えたのだったろう。まるで興味が無かったはずなので、何れろくな答えなど返せなかったに違いないけれど、今にして思えばもう少し母にやさしくあれば良かったと思う。その気持ちはしかし母が生きていたとしてもやってきたものだろうか。叶わない今だから、責任を果たさなくても良い今だからそう思うのではないか。
「……私は、誰か、と聞いたのですが」
「ああ、失礼しました。私は菅野と云う者です。樹木の健康を管理する仕事をしています。と言っても、まだ、修行中の身なのですが」
 樹木の健康管理という説明は良く分からないけれど、造園業者の人間なのかもしれない。思い返せば両親が健在の頃には年に二度はそうした業者が来て伸びた木々を整えていた。この敷地内の木々は多すぎて素人で管理するのはなかなかに難しいのだ。現に最初から手入れをすることを諦めている要に放置されたままの庭は伸び放題になっているのだった。ふと偶然に通りかかった造園業者の人間が気になるのも頷ける。ここが化け物屋敷と呼ばれていることも中の人間が人殺しだと言われていることも知らずに、のこのこ金の匂いに引き寄せられて入ってきたのに違いない。
 何も知らない他人に踏み込まれるのは嫌いだ。死んだように不変であるこの敷地内は要にとって自分と同じものであり、そして愛しく大切なものなのだ。無断で入り込んだ異質な他者になんて、何ひとつ動かされたくは無い。
「放っておいてください。ここは、このままで良いんです」
 拒絶の言葉を吐こうとすると要の口元は醜い笑みの形に歪む。それを自覚すると余計に笑いたくなる気持ちになってくる。完全に笑い出すのを堪えながら言い切ると、やわらかく笑んでいた相手の表情が不思議そうな形に移った。
「え?」
 言いたいことは伝えたとばかりにそれ以上の疑問には答えず、また、否定していると態度でも伝えるように背を向けてそのまま室内の奥へとゆっくり歩いて行った。縁に残した消えかけの火鉢のことが少し気に掛かったけれど、戻って他者の入り込んだ庭なんて目にしたくなかった。









試しに部分アップ。未完。
2007/2/12  雲依とおこ







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