記憶の桜




 襖を閉じてひんやりと暗い奥の間に落ち着く。そこは要の仕事場だ。物が殆ど無くがらんとした光の入らない暗い室内にぽつんと置かれた古めかしい木の文机。単調な木目の上には無機質に光を吸収するような黒いモニタとキーボード。真正面に正座した要は僅かにマウスを動かしスリープさせていた画面を呼び戻す。途端に冷たく感じていたモニタに光が灯りあたたかみが生まれてくる気がしてほうと溜め込んでいた息を吐き出した。そんなの気のせいだと分かっているのに、要は安心するのだ。機械のその光に。与えるものを返してくれる箱。余計なものを持ち込まない箱。
 本当はこの古い屋敷も庭の木々も嫌いなのかもしれない。
 嫌いなのだ。絡み付いてくる過去から続くものたち。何もかもが要に過去を思い出させ、忘れることを許さない。奇妙に膨らんだ父の死に顔。綺麗な秋晴れだった母の葬式。それらと常に共にあった、誰とも知れない周囲の非難の眼差しとひそひそした話し声、その、すべてを。
 それでもここから離れない。いつか認めさせてやる。その思いが要をここへ引き寄せ、引き止めている。
 ただそれでも沸き起こるこのどうしようもない気持ちを落ち着けるのに何か精神を安定させるものが必要で、要にとってそれは仕事道具でもあるこの箱だったのだ。
 仕事を始めるとすぐに要は意識を集中させることができる。そうしていると時間の感覚も無くなる。楽しい訳ではないのに、どうしてかその行為は要を安心させるのだ。



 暫く夢中で仕事に取り掛かっていたけれど、手元が暗くなったことに気づいてやっとで手を止めた。あれから数時間が経過したようで、いつのまにかもう夕方になっていたのだ。立ち上がって電灯を燈すと、ふとどこからか音が流れてくるのに気づいた。
 それは不思議な音だった。まるで子守唄をきいているようだと思う。眠る間際のような心地良さで要を安心させる音。誘われるように音の聞こえてくる方向に足を運ぶ。部屋を出て冷たい廊下を渡り、暗い座敷を過ぎると音源はすぐ近くだ。
 すっかり灰だらけになった火鉢の残された縁側に立って、要は目を細める。そこには昼間に会った菅野がまだ居たのだ。桜の木に寄りかかって目を閉じ、何事かを囁いている。
 その、声が。
 冷たい風に乗ってまるで子守唄のように高く低く敷地内に流れているのだった。幅の広い声音はやさしい響きを持ち、聞き取れない言葉は不思議な呪文のように要の脳をゆらゆら揺らせるのだった。心地良く感じるのはその不思議な揺らぎの所為だろう。
 昼間に感じた嫌悪感のような苛立ちを微塵も感じないだけでなく、敷地内に他者が入り込むのに対してあれほどまでにピリピリしていた自分の、その余裕の無さが今では滑稽に思える程だった。
 そっと様子を窺えば、目を閉じて無心で囁いている菅野にはまだ自分の存在は気づかれていないようなので、要はその場に静かに佇んで子守唄のように心地良い声を聞いていた。それにしても相手は誰もいないというのにいったい何を話しているのだろうかと気になるところだけれど、それを問い質すよりも心地良いその声をずっと聞いていたいと思った。目を閉じると自分がどこに立っているのかすら忘れてしまう。
「……すみません」
 意味の理解できない呪文のような言葉が突然、要の理解できる明確な言葉になった。目を開いた要はそれが自分に向けられた言葉だったと知る。まだ先ほどの脳を揺らされる感覚の中にいた要は、自分をそうした状態にした声を奏でる菅野の言葉と瞳が自分に向けられていると知った瞬間、過去のすべてを話して理解してもらいたいという衝動に支配され、そんな自分に戸惑うのだった。そんなことをしたって理解してもらえず、逆にまたあの気味の悪いものを見るかのような視線を向けられるだけだと自分に言い聞かせることでその衝動を落ち着かせた。
「すっかり日が暮れてしまってますね……。すみません。お邪魔しました」
「いえ……」
 誰も居ない他人の家の庭で長時間いったい何事を囁いていたのかと問いかけてみたいけれど、それよりも自分をあんなに落ち着かせた不思議な声音の理由を聞きたい気持ちの方が強いためか、それともまだ脳が正常に働いていないからなのか、要はそうやってひとこと発するので精一杯だった。しかし、このまま菅野が帰っていけば、その理由は一生知ることができない。それは、とても落ち着かないことのように思えるのだ。
「……あ」
「あの、またこちらに伺わせていただいてよろしいでしょうか」
「え?」
「この桜の状態が気になるので、もう少し観察させてほしいのですが、いかがでしょうか」
「……お好きなように」
 思いがけない申し出を受けて要は僅かに高揚する。それを悟られないようにとぶっきらぼうに答えると、菅野は微笑んで頭を下げて門から出て行った。
 ふうと長い息を吐いた要は僅かに後退して黒光りする柱に背を預ける。そして見るとはなしに菅野がゆっくり歩き去っていく姿を追って敷地の内外を分ける木々の向こうにある未舗装の街道を見ると、そこには車どころかバイクも自転車も無いのだった。徒歩で来たのだ。菅野は当然のようにゆったりとした歩調でその街道を歩いていく。近くから来たのに違いない。おそらくは、すぐそこにある村だろう。
「……」
 それまで穏やかに解されていた要の心を湿った黒雲が覆っていく。考えるのではなかった、と要は頭を振って預けていた身体を起こし、随分と暗くなってしまった室内へ戻っていった。夕食を作ろうと台所へ向かって電灯をつけると少しだけいつもの現実感が戻ってくる。なのにいつものように認めさせてやるという強い気持ちはどうしても湧いてこなかった。いつまでここにひとり、居座り続けるつもりなのかという疑問だけがもくもく広がるのだった。料理に取り掛かることもせずにそのまま椅子に座り込んで、そんなことを考え続けていた。
 駅も無いその小さな村へ日も暮れるこんな時間に歩いていくということは、そこへ泊まる可能性が高いということ。そこへ帰ったらきっと宿の人間に今日何をしていたのか聞かれるだろう。そしてここでのことを話したら、宿の人間は間違いなく化け物や人殺しの話を持ち出して、二度とここへ来ないほうが良いと忠告するだろうから。立ち上がった要は結局食事をとらず、また、仕事も途中のまま放り出して布団にもぐりこんだのだった。



 今にも雪が降り出すのではないかと心配になるくらい硬く冷たい空気の中の目覚めだった。目を開くとやはりいつも障子をとおしてやわらかく伝わる光もまだ無い。いつもより起きる時間が早いというだけではなく、これはとても良い天気になるという日の朝に起こる現象なのだ。要は布団から起きだすとそれを片付けもせずに急いでコーヒーを沸かしてパンを焼き、それらを零れないように両手に持って夜明け前の薄暗い屋外へと出ていった。
「うあ……、さむ」
 思わず声が漏れてしまうほどの寒さの中で、要の息はコーヒーやパンから立ち上る湯気と同じように白い靄となって目に見える。土も草も白い粉をまぶしたように凍りつき、蜘蛛の巣さえもびっしり付着した水滴が白く凍って愛しく感じるほど綺麗なものに見えるのだった。
 ものすごく寒いのだけれど、とても静かで美しい景色だった。日中とは違うその状況を、徐々に色を変えていく朝焼けの空を、コーヒーが冷めてしまうのも構わずじっくり味わうのが要は好きだった。いつもならのんびり空を眺めて空に明るさがやってくるころには室内に戻るのだけれど、今日はそれほどじっとしてもいられずにパンを食べ終えるとまだ少しぬくもりのあるコーヒーを両手で抱えて庭の中を移動した。桜の木の脇に立ってみる。それは昨日、菅野が立っていたのと同じ場所だ。自分には関係の無い人間だったのだから忘れてしまおうと一晩中考えていた。忘れることの出来ない自分を罵倒したりもした。だけど、気になるのだ。忘れられないのだ。あの声が。
 カップを片手に持ち替え、そっと伸ばして木の幹に触れてみる。意外にもその木肌はあたたかかった。生きている、そう、言っていた。今は花も葉も無く枝ばかり広く張った、ただの古木なのだけれど、この手のひらに伝わるぬくもりと感触で、確かに生きていると感じられるのだった。
 生きている。
 死んでいない。
 まだ。
 それはこの桜だけに限らず、いつも自分と同じく死んだようにと心のうちで表現しているこの庭にある木々すべてにだって言えること。何もかもがそれぞれの生を生きているのだ。



 そして自分もまた、生きている。
 過去に何があろうともそれが事実だ。
 敢えて受けるまだ早い春の冷たい風よりもずっと身に沁みて実感できた。
 その実感を齎してくれた菅野に心の中で感謝して、要はその桜の木の下で眠ることにした。










試しに部分アップ。まだ未完。
2007/2/12  雲依とおこ








Copyright (C) 2007 Kumoi Tohko.All Rights Reserved.