記憶の桜




 冷たい海の中を漂っていた。そこはどこの海なのか、どこまで深みがあるのかまったく窺い知れない海だった。深い森の奥で見る月も星も無い真っ暗な夜空よりももっと暗いその色こそが深さのしるしだろうと思う。ゆらゆら漂う自分の位置こそが自分の求める深みなのだという確信的な安心感もあった。
 どこか遠いところからちらちらと気紛れに光が差してきた。ずっと深いところにいるつもりだったのに、いつの間にか光が届くほどの深さまで浮上しているようだった。とても眩しい。それはまだ遠い海面から差すものだけではなく、辺りを回遊するたくさんの魚たちの鱗からもきらきら幾つも届いてくる。全身を包む水は冷たくて震えるほどだったけれど、包まれていることの心地良さはまどろむことのそれと同じだった。それに水中の冷たさよりもきっと水から出て外気に触れた方がもっと寒い思いをするのに違いないのだ。徐々に冷えていく水温に身を竦ませたってそこから出て行きたくない。要は必死に抵抗していた。



「風邪ひきますって」



 そんなの嘘だ、ここから出たらもっと酷い目に遭うのだ、そんな嘘なんかに騙されない。
 そう思ったところで要は目を開いた。
 ここは海ではないし勿論水の中にいるわけではない。青空が見える家の前の桜の木の下に座り込んでいて、朝日の齎す光が木の葉をとおしてちらちら気紛れに要の目に入り込もうとしているだけだった。これが海面から届く光であり、魚たちの鱗が反射した光だったのだ。
 つまり要はずっと夢を見ていたのだ。
 ゆらゆら心地良く揺れていたのは背にゆるやかに伝わる木のぬくもりのお陰だったのか、それとも要を起こそうとしてくれた菅野の手によるものだったのだろうか。
「……あ、れ。……か、んの、さん?」
「はい。良かった……。もうすぐ春だからって、こんなところで眠っちゃ駄目ですよ。」
 見れば空には既に眩しいばかりの太陽が昇りかけ、辺り中を照らしてはそれぞれにくっきり濃く長い影をつけていた。過ぎるほどの天気の良さに冷え切った空気は眠り込んでいた要の肌を突き刺していたけれど、背中から伝わる桜の木のぬくもりのお陰で震えるほどの寒さは感じなかった。夜は明けて朝になったとはいってもまだまだ相当に早い。太陽の位置から今の時間を推測した要は、時間を意識することでそれにしてもと疑問に思いながら立ち上がる。初めて傍に立った菅野は昨日離れて見たときに思ったよりも背が高かった。
「それにしても、こんな朝早くに……?」
 まず疑問に思ったのは日は昇り始めているけれどまだ眠っている者も多いだろうこの時間帯に菅野がここにいることだった。しかしそんなことも些細に思えるほど不可解な事がある。確かにまた来るとは言っていたけれど、実際、宿に帰っていろいろ話を聞けばもう来ないだろうと思っていた。
 また、そうしたここに菅野がいるということに関する疑問とはまったく別に何か自分は不思議な経験をしたという実感があったのだけれど、それが何であるのかか咄嗟に考えても分からないのがどうにももどかしかった。
「ああ、本当に朝早くからすみません。今日はもう、ほんとうにすぐに帰ります」
「待っ……っ」
 このまま帰るなんて、本当に一体、何をしに来たというのか。
 知らずにはいられない。
「……実はですね、あなたがここで眠っているんじゃないかって思って、心配で来てみたんです」
 呼び止めた声に振り返った菅野は、少し寂しそうな目で微笑んでそう言った。その自虐的な表情に要は顔を顰める。それは菅野には似つかわしくない。それは自分のものだ。
「信じてくださらなくても結構ですよ」
「……いいえ、信じます」
 低い声で憮然としながらではあるけれど、要は心のままに信じると答えた。ものすごく不本意ではあったのだけれど心の中をどんなに探ってひっくり返してもそれ以外の回答なんて出てこないのだから嘘ではないし嘘をつかなかったことに対して後悔はしない。不本意と感じてしまうのは違う理由からだ。
 昨日ほんの少し話しただけの相手が朝早くから庭で眠ってるのではないかと心配になって、それこそ朝早くからこんな場所まで出向いてきたなんて嘘のような話か単なる妄想か虚言みたいだけれど、ではそこまで朝早くから盗るものも無いここへ来て他に何かするべきことがあったというのか。そうやって庇うような話を考えてまで知っているはずもない要の暴挙を知って来てくれた方に真実味を感じるのはそう思いたいからなのではないかという自分の反応を確かめ、要はそんな自分自身に戸惑っていた。
 不機嫌に要に睨まれた菅野は少しだけ驚いた顔をしたけれど、すぐにその顔が緩んで笑顔に戻る。それでいいのだと思う自分の表情を隠すように要は俯いて息を吐いた。
「ありがとうございます」
「礼を言われるようなことでは……、起こしていただいたのはこちらなのです。ありがとうございました」
 足元の土をつま先でまぜながら、今のこのやわらかい雰囲気の中なら聞きたくてもなかなか聞けないことを聞いても良いのではないかという逸る気持ちと、聞いてこの良い雰囲気を壊したくないという頑固な気持ちの間で揺れていた。しかし聞いてみたいという気持ちはどうにかなってしまいそうなほど大きな音をたてて心臓が打つほどに強いので、黙ったままではいられないと要は逸るほうの気持ちを優先させ土をかく足を止めて真っ直ぐ前を向いた。
 その先には菅野がいる。
 しかしその表情は先ほどの笑顔のまま、しかし視線は見上げるようにして桜の木に向けられていた。出る寸前だった言葉は喉にとどまり、桜に向けられたその表情を見ていたらまた逸って高ぶっていた感情は落ち着いていくのだった。
 何も聞く必要は無い。
 ただ今のように静かで落ち着く時間がどれだけ貴重なものなのかを忘れずに、得ることのできたこの瞬間を少しでも大切にして感謝していようと思うのだった。
「今日は兄の仕事の手伝いがあるので、そろそろ行かなくては」
 厳しく冷たい風が吹く中で刻々と朝日が昇っていくのを影の動きで感じていたら、ふと菅野がそう漏らした。それはただ静かに傍に居つづけた要に向けられた言葉だった。
「お兄さん、ですか」
「ええ。私はまだ見習いなので……、手伝い、とは言っても兄にとっては私なんて居ても居なくてもかわらないくらいのものですけれど。では、明後日にまた来ます。もうこんな場所で眠らないでくださいね」
 一瞬、ひらりちらりと白い小さなものが光と共に菅野の笑顔の前を過ぎていった。もうすぐ春とは言えまだまだ咲くには早すぎる桜の花びらだろうかと確かめるようにその姿を追ったけれど、菅野の前を過ぎていった桜は光に紛れたのかどこにもその形は見つけ出せなかった。
 また村のある方へ道伝いに歩いていく菅野の後ろ姿を見送りながら、ぼんやりとした考えが徐々に明確になっていくのを頭の中で整理していた。新たな要素がなくてもそうして考えることで分かることも多い。手の中で小さな粒がころころ動き回り、それぞれが幾つもの糸で繋がっていき、複雑な関係を築いていくのを見つめているような感じだった。



 きっと菅野は今日、ただ要を起こすためだけにここへ来たのだ。
 最後の言葉は真実だったと思うから。
 そして桜の木の下で目覚めたとき、何か不思議な経験をしたという実感が何に基づくものだったのかを、自分の中で何が起こったのかを理解した。



 高くなってしまった朝日に目を眇めて口元を小さく緩めながら、要は背を小さく丸めるようにして暗い屋敷の中へ戻っていった。



 他人に触れられるのは久しぶりだったのだ。
 それだけのことだったのだ。
 それだけのことが、とても、嬉しかったのだ。









二月中に終わらせたかった……
まだまだ終わりません。
眠ってばかりいないで自分で決めたことやらなきゃ…!

2007/3/3  雲依とおこ








Copyright (C) 2007 Kumoi Tohko.All Rights Reserved.