それにより周囲の何ものからをも自分を遠ざけるようにつばの広い帽子を目深に被り、強い日差しから幾重にも隔絶されたようなその奥でいつものひっそりした笑みとは違う満面の笑みを浮かべていた母親の記憶が不意に蘇ってきた。今まで何年も思い出すことの無かった記憶だ。蝉の鳴き始めた季節であったから、それはまだ初夏の、日ざしの強い晴れた日だったように思う。
『…………』
指先は真っ黒になるほど土にまみれている両手に抜いた雑草を握り締め、それは誇らしげに母親は告げたのだ。その言葉は何だっただろう。揺らめいて掛かる濃い影はあの桜の古木のもの。古木の傍に立った母親は、その木に関しての何かを伝えたのだろう。そんなに楽しそうな、無邪気ともいえる母の笑顔を見たことの無かった自分は、それを喜ばしいものと思ったのではなく、そう、とても不気味だと思ったのだ。母は狂ったのだと子どもだった自分は何故かそんな風に感じて、呼ばれているのに一歩も近づくことが出来なかった。良く見ると母の手に握り締められているのは雑草ばかりではなく、光を透過して蛍光に輝くような美しく花を咲かせているものも同じように握り締められ、くたりとその首を折っていた。
『……さん、この木は……』
実の息子をさん付けで呼ぶ人だった。あれはそう、父親が不慮の事故で亡くなったのと同じ年、それも直前のことだった。記憶が曖昧なのはその所為なのか。
『 』
父はこの庭で亡くなったのだ。死因は頭部を強打したため。倒れていたのは門の近くにあるあの古木の付近だったので、おそらくはその木か、少し無理があるけれどそのすぐ傍にある塀に登っていてそこから誤って転落したのだろうというのが警察の判断だった。しかし父が木や塀に登る理由なんて無いし、あの人はそれまで一度だってそんな場所に登ったことなんて無かったのだ。そういうことは本当に小さなことでもすべて業者に任せて自分は書類を読んだり他人に指示することしかしない、そんな人だった。
父は権力とはそういうものだと思っていたようだし、事実そうやって偉ぶることで周囲にそう見せてきていたのだから、村の皆も父がそんな高所に登るなんておかしいとすぐに騒ぎ出した。訴えられた警察はそれにより捜査をやりなおすことにした。村で事件が起こることなんて無かったから警察も暇だったのだろう、と考えるのは疑われた要の僻んだ意識なのかもしれないけれど。
そう、疑いの矛先は当時六歳だった要に向かってきたのだ。
その日はちょうど庭の古木の近くで草を抜いては白く美しく見えるほどきれいに根を洗って並べる、という一人遊びをしていた。同じ種類の草の中でどれだけ長い根のものを見つけられるかが自分の中での流行だったのだ。土が光に反射して白く見えるくらいに強い日差しの中で帽子も被らず何時間もそうしていたので汗はたくさん流れるほどだったし、頭は焼かれて熱くなり触れられないほどだったけれど、夢中と言うよりも無心でやっていたので要はまったく気にならずに遊んでいた。母はそのとき薄暗い建物の中で電気も付けずに台所に篭って家事をしていたように思う。そして父は書斎に居るのだと思っていた。
どすんと驚くような音がした。
顔を上げるまでもなく目の前に父が落ちてきたのだ。
手を止めて見つめる要は異様なほど見開かれた父の目をじっと見た。
虚空を睨むような瞳で怒りに満ちた表情でありながら何もかもが滑稽に見えた。
どこから父は出てきたのだろう。
要は純粋にそのことが不思議で、それ以上の感情は無かった。
いつの間にか母が意味不明の言葉を叫びながら父の体を揺すっている。
さわさわと生温い風が吹いたので顔を上げると、
今まで一度も花を咲かせたことのなかった目の前の古木が、
薄紅色の花を咲かせていた。
美しい花だった。
要の思考はただその美しさに狂わされたかのように動かず、
そこから目が離せなかった。
暑さで頭がどうにかなっていたのかもしれない。
違う。
手が赤い。
血で濡れているのだ。
それで目をこすったからきっと視界が赤く染まるのだろう。
その証拠に見上げる空もまた薄紅色に染まっているではないか。
良く見れば手だけでなく体のあちこちがべたべた粘る赤に汚れていた。
母が現れる前に父に触れてみたのだ。
人形のようにだらしなく落ちる動きは要に怖れを抱かせた。
この怖れはどこから生まれてきたのだろう。
ああ、それに、
父はどこから出てきたのだろう。
母はどこから出てきたのだろう。
むくむく湧き出てくる疑問を解いていくべく父が落ちてきたと思しき場所をじっくり調べてみたいし、他にもいろいろ気になるものを確認して行きたいと思うのに、要の思考も視線も手の指先から足の爪先までのすべてがその思いを維持することができない。
ではそれらがどこへ向かっているのかというと、すべて目の前の古木が奪っていくのだった。
真っ黒の太く歪んだ幹に映える、ふんわり盛られた薄紅色の花。
本当にこれは血が見せる錯覚なのだろうか。
とても綺麗だった。
泣き叫ぶ母と血を流しもうピクリとも動くことのなくなった異相の父の背景でありながら、艶やかに咲くその花が、静かに堂々と立つその木こそが要の心を奪った景色の主役だった。
『殺したのはどうせあの息子だろうよ』
『あの子……、何だか気味悪いものね』
それこそ例外なんて誰一人としてなく、誰も彼もが要を見て眉を顰めた。ひそひそ話しているつもりだろうけれど聞こえてくることもある。だから自分が耳にしたのは全体のほんの一部分でしかないのだろうと思うと、要は体中から力が抜け落ちひとりで立っていられなくなるほどの恐怖に見舞われた。自分がやったのではないとどんなに真摯に主張しても皆の冷たい目線はより厳しくなるばかりだったので、主張は無意味であるばかりでなく逆効果であること分かり、それからはじっと押し黙っていた。自分はやっていないと毅然とした態度でいれば、そのうち分かってくれる人もあるだろうと静かな主張をすることにしたのだ。
それから十数年。結果として誰一人として理解してくれる人が居なかったということは、要のやり方は間違っていたということだろう。もっと早い段階でそう結論付けても良かったかもしれないけれど、六歳の頃からずっとそう心に刻んで生きてきたのだ。変えられない、というよりも、変えたくなかったから、より強く、こうしていれば誰かが理解してくれると心に刻んできた。
それも、もう、終わりにしよう。
終わりにすると言っても具体的に何か行動を起こすわけではなく、ただ心の中だけで静かに気持ちを変え、終わらせてしまうのだ。周囲に認めてもらわなくても皆に誤解されたままであっても構わない気持ちで、何にも囚われずに生きてみよう。
自分は生きて、ここに居るのだから。
思えば父の死に会ったあの日、薄紅色の花に魅入ってからずっと要の心は奪われ囚われたままだったのだ。長い間、半ば自ら囚われていたそれを認めて漸く解放しようと思えるようになったのは、勿論自分の力ではない。菅野に感謝しなくては、と思うけれど、さて、明後日また来ると言った菅野は本当に来るだろうか。そうであって欲しい、信じたいという気持ちが強いけれど、人殺しと聞かされたらそんな約束なんて無効であっても当然のことだと思う。
縁側に座り込んで庭を眺めつつ思考していた要はゆっくり微笑んで立ち上がる。それは決して諦めの笑みではない。とりあえず今は家の窓を開け放って風をとおし、玄関を掃除しようと思う。それから時間をかけてゆっくり、家の周りに積もった落ち葉を広い伸び放題になっている雑草を刈って、化け物屋敷然としたこの庭にもっと光を当ててみよう。自由に放置されてきたためにゆっくり自然に還ろうとしているこの庭もこの家もこの屋敷も、そうして変化していく姿を死んだようにひっそり生きながら見つめていくのも心惹かれる生き方だけれど、そうするにはまだ早い。もう少しだけ、せめて要が記憶するもとの姿を取り戻すまで手を加えてみるのも悪くない。
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