記憶の桜




「触れることが肝心なのです」
 まろやかな声で真摯に語る菅野の声に必死に耳を傾け、言われるままにそっと幹に手を触れて、手のひらから伝わるものを感じ取ろうとしてみる。しかし手のひらから伝わるものは幹そのもののざらりとした湿った質感、冷たい夜を越えたその冷たさだけなのだ。同じものを得られない、と思うとほんの少し胸が苦しい。要は手を離すと苦し紛れのような笑みを浮かべて菅野を見た。
「私には無理なようです」
「諦めるのには、まだ、早いのです……、心を覆う壁を消して何もかもを理解し溶け合うイメージを浮かべつづけていれば、いつか、きっと要さんにも伝わると思います」
 直ぐじゃなくてもいいから、と言って菅野がとても幸せそうに微笑むのだから、要はもう少し、もう少しがんばろうと思えるのだ。笑顔に応えたい、のだろう。しかし再び要が手を触れたところで、それまで幸せそうに微笑んでいた菅野の表情が早雲が差したかのように不意に翳りを帯びる。



「この子の悲しみと、深い、絶望が」





 閉ざされていた玄関扉がからから開き御影石の質感を白く飛ばす強い光が差し込んでいる。空気の中にある小さな粉塵が白く光って何か特別な空気のように見えた。またそこから入り込んでくる風は冷たくて、それが暗く滞った室内を流れ自分の肺にまで流れ込んでくるその感覚がとても心地良いと感じる。
「今日はこちらからいらしたのですね」
「……そう、いつも失礼ばかりで……、すみません」
 今までのようにいつの間にか門の傍の古木やその周辺の木々に来ているのではなく、珍しいことに普通に玄関から挨拶に寄った菅野は、その手に菓子折りを携えていた。そういえば先日、美味しい和菓子を見つけたので持って来ると言っていたのだ。要は一旦台所に戻って急須や茶碗、ポットを持ってから靴を履き、待っていた菅野と一緒に玄関扉の外へ出て行った。この日も快晴。眩しさに目が眩むことも何故だか楽しみを増幅しているようだった。つまりは何でも良く感じ取れるほどに自分の気分が良いということだろう。
「とても調子が良いですね」
 まだ黒々とした幹と枝だけの古木をじっくりと見たあと、すぐ傍の石に腰掛けて和菓子とお茶で一息いれながら、菅野はこのまま行けば今年の春には花が咲くかもしれないくらい良い状態だと告げた。その笑顔に頷いてから立ち上がった要は幹に触れながら、果たしてその花が咲く春まで菅野はここに居るのだろうか、兄の仕事と言うのはどのくらい掛かるものなのだろうかとという疑問を覚え、それもまた発することのできなかった今までの疑問と同じように密かに仕舞ってそのまま目を閉じ、心の壁を消すことだけを考えるようにした。
 大丈夫。
 ひとりに戻っても、きっと、この木に触れていれば思い出す。
 菅野の声と、その微笑を。
 だからいつその時が来ても大丈夫なのだ。





「わ、あ!」
 幹に触れひたすら無心に務めていた要は、唐突に降りかかってきたその甲高い叫び声に心臓をぎゅっと掴まれたくらいに驚かされた。声のした門の方に視線を向けると、そこには門柱にへばりつくようにして三人の子供が頭を出して居て、何やら必死の形相で要と菅野を交互に見るのだった。
「あぶないよ!」
「ここ、化け物でるんだから!」
「逃げた方が良いよ!」
 勇敢にも子供たちは菅野を助けに来たようだった。ここが化け物屋敷であることを口々に訴えながら、怖いものを見るようにして要に視線を向けてまたすぐにそらすのは、化け物と呼ばれ人殺しと言われているのが誰でどんな姿形をしているのか、それを知っているからなのだろう。今まで何度も耳にしたその言葉を、こうして間近で向けられるのは実に久しぶりだった。しかしそれを受ける心は以前とは全く違っている。自分の中に化け物や人殺しと呼ばれることに対する激しい反撥の気持ちが湧いてこないことを確認して、要は少し安心した。
 しかし、と思う。これまで要は確認してこなかったのだ。村の宿に泊まり仕事をしている菅野がその噂を耳にしたことがないのか、あるのか。おそらく村に泊まればはじめの日にでもその噂は耳に入るだろうし、ましてや菅野はここへ通ってきているのだ。間違いなく忠告する人間が現れるはずだった。しかし聞けばここへ来なくなるのだろうに、菅野はここへ来ている。まさかまだ聞いていないのだろうか、来ているからにはそうなのだろうかとも思うけれど、やっぱり忠告する人間が現れないなんておかしいという気持ちも湧いてきて、相反しながら行ったり来たりばかり繰り返して纏まることのないその疑問を直接問うことできず、ただ日々ここへ来てくれることに対して密やかに感謝するだけだった。それはこちらに仕事でいつまで滞在しているのか問うことが出来ずに仕舞っている疑問よりも先に仕舞いこまれた、二度目のあの早朝の木の下で会ったときからの疑問だった。



「ありがとう。でもね、それは、嘘なんだよ」



 考えに沈んでいた要はその言葉にハッと顔を上げる。穏やかでありながら明確で確信に満ちたその声、その言葉は、要の心を強く揺さぶる。嘘、と言った。菅野はその口で、まるで平然と、何事もない普遍的なものを語る口調で、嘘だと言ったのだ。要が化け物だと言われ人殺しだと謗られていることを、菅野は知っていたのだ。それにしても、何故それを嘘だと言えるのか。何度説明しても誰も信じてくれなかったそれを、一度も説明したことのない菅野がどうして認めるのだろう。
 声も出ないほどの要の衝撃を他所に、その確信的な声に敏感に真実の響きを感じ取ったのか、門柱をしっかり掴んでいた子供たちから力が抜け、表情が変わっていく。三人の子供は一度顔を見合わせながら何も話し合うことなく向き直り、再び菅野に声を掛けている。
「え?」
「ほんと?」
「怖くない?」
 それはもう確認している不安な者、というよりも純粋な期待に満ちた者の表情だった。衝撃を受けたままの要を他所に、会話は進められていく。それは、予想したことのない状況だった。
「うん。こっちへ来てごらん。美味しいお菓子あるよ」
 大人であれば疑り深くそんな誘い文句なんて考える余地無く否定するのだろうけれど、やはり子供は純粋なのだ。それともあんなにあっさりと信じさせてしまう菅野が凄いのだろうか。子供たちは一斉に駆け寄ってきて、差し出されるお菓子に手を付けている。まるでほのぼのとした明るい光景が、何年もずっと死んだように暗く静かだった庭にあることに対して違和感を覚えずにはいられなかったけれど、それを見ているうちに要の中に徐々に変化を受け入れていく気持ちが整ったのか、自然と衝撃も消えてなくなっていた。
「ねえねえ、お兄さんは本当に、怖い人じゃないの?」
 直接子供に問いかけられて、要は深い満足感に包まれるのを感じた。
 とても清々しく、満ち足りた気分だった。
「うん。僕はただの……、何も出来ない……、弱い人間だよ」
 苦笑交じりに、でも真摯に返答すると、問いかけた子供は我が意を得たとばかりに顔を輝かせる。
「じゃあ、またここへ来て遊んでもいい?」
「他の友だちも連れて来てもいい?」
 新しい風が吹き込んでくる。要もろとも長く閉ざされていたこの庭に、この屋敷に、この敷地に。
 そのための壁を壊してくれたのは菅野だ。
「ああ。君たちにその気があって、お友だちにもその気があるのなら、僕は構わない。無理強いは駄目だよ。……ご両親も、きっと、反対するだろうと思うけど……」
「大丈夫だもん」
 にこにこ微笑みながら要と子どものやりとりを見ている菅野が、どうしてあそこで「嘘」だと言ってくれたのかは分からないままだけれど、今こうして目の前にある状況は本物だから、その理由なんてささやかな問題ではないか。



「そっか。なら、おいで。いつでも門は開いているから」



 それは子どもたちだけに向けたものではない。
 菅野に対してのものでもあり、
 そして、何より、自分に向けてのものなのだ。









こんな変化の無い話、書くのもあれだけど読むほうはもっと辛いのではないかと気づいた近日。
でも、あと少しだから…!



2007/6/3  雲依とおこ








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