深く広がる青い空を区切る銀の檻
その中にある
大切な彼女のために





血の檻




 およそ車両のとおることのないその細いあぜ道は木造と鉄筋コンクリートと時代の異なる二つの建物からなる小学校から始まり畑の中から田んぼや草むらの中をこれまた細い用水路と共にぐねぐね曲がりながら続いている。学校から出た仙花と緑陽、そして希の三人は草を刈ることもなくただ踏み固められた土でできたその細い道を競争するように急いて走っていた。見渡す限り殆ど緑のそののどかな景色の中に他の人影などひとつとして見えない。必死に走る三人はそのうち小道を抜けて少し大きな道に出たけれど、それでも止まらずに今度はその道沿いに坂を駆け上った。短いその坂を上るとそこは広い川を渡る橋の袂だ。橋の欄干はとても低く作られているので川の様子は見る間でもなく目の中に飛び込んでくるのだけれど、とてもゆったり穏やかな流れを保っている普段の様子と違い今日のこの川は酷く増水していた。たくさんの雨が降れば茶色く濁り渦巻くように激しい水流となっているのに、増水はしていてもその色は普段どおりの深緑に落ち着いたままなのがどうにも不思議なことのように仙花の目に映った。もっとよく川面を見ようと走っていた足を止め欄干の傍まで寄ると、同じく走っていた義弟の緑陽がその勢いのまま欄干から橋の下へ飛び込んでいった。

「緑陽!」

 静かな深緑の川の中には大勢の人間が居た。泳いでいるのではない。そこにいる皆は生きていなかった。水中からは出ずにまるでそこに閉じこめられているかのように水面近くに横たわって、皆が皆それぞれに白い服を纏いこちらを見上げるようにしていた。表情までがはっきりと見える。女性と子どもばかりの死人たちは、それは楽しそうにふよふよと水の中を漂っているのだった。

「緑陽、出てきなさい!」

 きりきりと眉間に突き刺さるような危機感に激しく義弟を呼ぶと、死体の間を泳いでいた緑陽はすぐに周囲の様子に気づき、慌ててそこから抜け出して仙花の許へ戻ってきた。顔が少し青ざめている。彼の無鉄砲さはいつものことだと荒れる気持ちを必死に宥め、希の手を繋いだ仙花はまた急くように橋を走り出した。
 追われているのだ。
 繋いだ小さな手の持ち主、何も知らずに無邪気に笑いながら一緒に走ってくれる希を守る。
 その強い想いだけで仙花は走るのだった。

「仙花! うしろ!」

 走りながら頭の中で違う世界を彷徨っていた仙花は、橋を渡り終えるころに切迫した緑陽の声に現実に引き戻された。後ろを振り返ると、すぐ背後にいつの間にか死者がついてきていた。血の契約をして蘇ったものだ。

「……っ」

 思わず舌打ちしながら希の手を離した仙花は蘇りを始末するのは自分の役目だと背に負っていた木刀を取り出して先端を蘇りの喉にピタリと当てた。逃げようと咄嗟に身体をずらそうとする蘇りの動きは仙花の動きより鈍い。その動きに合わせ、更にその先を読むことだって可能だ。

「やっぱり待って!」

 息を止めて一気に喉を突こうとした仙花の動きを止めたのは、先に仙花にその存在を警告した緑陽だった。その声を無視することが出来ずに動きを止めてしまった仙花は、過ぎていく大切な時間を思って苛立ちながらも決して木刀の狙いを外すことは無かった。

「どうして止めるの?」
「時間が無い。寧ろ今はそいつを認めて盾にした方がいいと思うんだ」

 狙いを定めた相手を睨んだまま、仙花はその言葉を吟味する。蘇りは自分が助かる可能性にとても嬉しそうな表情で、緑陽と仙花相手に何度も頷いて主張を続けている。
 それが何であるのかよりも今は希を守りきる為に何が出来るかなのだ。どんな手段も厭わない覚悟と冷静さが必要だ。己の頭の中が沸騰していてとても冷静ではないと自覚した仙花は、ひとまず緑陽の言葉が今は正しいと言い聞かせて、木刀を下げて背に仕舞おうとした。
 その様子にさっそくと緑陽がまず目的の方向へ足を向けた。蘇りもそれに従う。
 希の背を押した仙花が向かう先に足を向けようとしたときだった。
 嫌な音が脳に届いた。
 先に気づいたのだろう、緑陽が素早く振り返る。



 来る。



 そう感じた仙花は無意識のうちの自衛本能で振り返って希を背に回し、木刀を目前に突き出していた。
 割くような突風が過ぎる。
 その瞬間に頬を撫でたのは風でなく、
 ぞっと背筋を凍らせるほどの、
 冷たい、
 かさついた指の感触だった。
 気味の悪い哂い声だった。
 清水のように涼やかな匂いだった。
 春の優しい甘さ。
 幻影の中の。



「…!」



 それを振り払うように木刀を振り下ろすと、それまで激しく吹きつけていた風がピタリと収まる。冷たい指も笑い声も匂いも甘みも無いそこに残っていたのは、盾になり崩れ落ちた蘇りと同じく盾となってくれた緑陽の力尽き横たわった姿だった。

「緑陽!」

 しかし仙花の足は緑陽に駆け寄るだけの時間も残されていなかった。
 希が居ないのだ。
 連れ去られた。
 他の何にも代えられない大切な子を。
 仙花の力の源ともなる存在を。

「緑陽、ごめん。あとで必ず戻してあげるから」

 今は一滴の血も無駄には出来ない。
 絶望も諦めも無い、ただ今までよりも遥かに強い沸騰するような戦意を胸に、仙花は微笑むのだ。




 白い雲との境目のくっきりとした青空が広がる目前を見据え、仙花は全力で元来た道を走り出す。駆け戻る橋より下にある先ほど緑陽が中に入って見せた橋の下にある川は、今はもう数え切れないほどたくさんの死者で溢れかえり、いつもは黒に近い深緑に見える川がそれらの所為で白く見えるほどだった。
 死者たちの纏う白い衣装は花嫁衣裳だ。
 川に溢れかえる幸福に満ちて微笑む死者たち。
 すぐにそれから視線を外して橋を渡り終えると、すぐにある坂を駆け下り両脇の田んぼを探すように見渡す。時期外れの田んぼは水が抜かれ乾いてひび割れ、そこに昨年の収穫の痕の散切りされた薄茶色の束が整然と並んでいるのだけれど、その光景は先ほど逆に走っていたときと様子がまったく変わっていた。
 仙花は短く息を吐いて意識を集中させる。
 田んぼに残されたその束の至るところに希の髪と同色の毛糸の束が被せられているのだ。間違いなく敵の仕業だ。あたかも希の頭部だけが田んぼに幾つも転がっているような、そんな不気味な光景だった。
 ひとつひとつ確認しながら速度を落とさずに進む。数は多いけれど仙花にとってそれは比較的容易な作業だった。一目見れば分かるのだ。それが希か希でないかなんて、血が教えてくれるから。ただその量が尋常ではなく多いので確認作業に手間とそれだけの時間が掛かってしまうのがどうにももどかしい。もしかして全部が偽者で本物の希にはもう会えないのかもしれないと絶望して力尽きる前に見つけたい。
 しかし絶望がやってくるよりも先に偽装だらけの田んぼの中に見つけることができた。
 希と敵の姿を。



  「やっぱ、引っかからないの、ね」

 偽装の毛糸の束と同じ様子で、身体を土中に埋められ頭部だけそこから生えるように出されている希は、周囲を頑丈な鉄の檻で囲われていた。己の置かれた状況が分かっていないのか、そんな状態でも希は笑っているのだった。ぽかりと広がる背後のあざやかな青空を区切るように在る檻は、鈍く光って仙花を威嚇しているようだ。
 敵はその檻の上にゆったり足を組んで座りながら子どものように無邪気に笑って仙花を見下ろしている。焼けない白い肌に青に近い白い髪が青空の中で光るように輝いていた。無邪気の笑みの理由はおそらく、土中に埋めた希にご飯を与え喜んで食べるその姿が思いのほか楽しかったからだろう。
 悪くない状況である。

「仙花、……ねえさん? 私は由宇。この子、かわいいね…」

 気紛れのように私達を消滅させようとしか思っていなかっただろう由宇がこのように楽しくて楽しくて仕方ないのは、面白いおもちゃを見つけたからに他ならない。それだけ希が可愛いのだ。与えるものを素直に食べ喜ぶ純粋な子どもなど由宇の周囲には居ないのに違いないのだから。

「どうせあなた今、力、無いんでしょ? この子おいてく気があるのなら、黙って見逃してあげるよ」
「君は勘違いしてる。私は戦いたいだけだから、早くしよう」

 今に希が泣きはじめる、その前に。
 それはすぐにやってくるだろう。由宇を敵と分からず今は楽しんでいる希だけれど、すぐに仙花の存在に気づいて、そして仙花を求めて泣き出す。彼女が泣き出せばそれまで気分の良かった由宇もすぐにその気分を壊すだろう。
 希を殺されては困るのだ。
 それだけは駄目なのだ。



 闘うことは仙花の生きかたそのものなのだ。
 守るべきものを取られ闘うべき相手が目の前に居る状態で話し合うことも無い。
 明確なこの状況は自分の本領なのだから、仙花の戦意は心地良いくらいにわきあがってくるのだった。
 だから、まったく悪い状況ではないのだ。



 檻に阻まれ希から力を得られないまま、力が弱まったままでも仙花は構わない。
 自分がこの世界から消滅しても構わないとすら思う。
 希を殺されるくらいなら。
 生きていることの楽しみ生きていくことの幸せを奪われるくらいなら。



「はじめよう」



 終わるときまで。










日記に書いたものの再利用。


2007/3/24  雲依とおこ








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