沈黙の色




 片付けの時間はそんなに無かったはずだけれど、帰りは疲れが出たのだろう。行きよりも時間が掛かり、民宿に到着したのは十七時が近い頃だった。
「さすがに暑かったな」
 建物の中は久しぶりの日陰だった。真夏の日中、ずっと強い日差しを浴びたままだったので、僅かな涼しさにホッとするよりも、ひっそりとした建物内の明るさに目が慣れずに暗く感じた。
「私、もう、喉、からからです」
「あ、そういえばスイカがあるって聞いてたけど……、まだ川原たち帰ってきてなさそうだなあ」
 玄関は来てすぐに荷物を置きに来たけれど、奥は入っていないので間取りが分からない。しかし迷いの無い足取りで岡田が玄関から入って左側の通路に進むので、自然に皆はその後についていった。普段、加藤は最後尾を歩くのが好きなのだけれど、今日はいろいろ気になることがあって岡田のすぐ傍を歩いていた。
 その岡田の足が不意に緩んだので、あわせて嘉藤も立ち止まる。
「あれ?」
 疑問符つきの岡田の言葉とほぼ同時に、嘉藤は走り出していた。左手に伸びた通路は左が窓、右手は扉がずっと並んでいる。その先、突き当たりもまた大きめの扉があるのだけれど、その手前に人が倒れていたのだ。俯いていて顔は見えないけれど、細い腕、小柄な体、緩く巻いた髪、おそらくは先に帰った森崎だろう。
「森崎さん? どうしたんですか?」
「……、あ、嘉藤、君」
 古びた板の床にぺたりと座り込んだまま振り向いた森崎は、少し怯えているような表情だった。或いは、とても、とても困っているような。何だろう、と今の状況とその表情がかみ合わないような気がして嘉藤は次の言葉を言いあぐねる。
「大丈夫?」
「転んじゃった? どこか怪我したの?」
 駆け寄ったまでで助け起こす一歩手前で止まってしまった嘉藤を他所に、岡田と後藤がそれぞれ声を掛けながら手を貸そうとしている。
 しかし森崎は、どうにもはっきりしない様子で視線を泳がせるばかり。今日はじめて会ったばかりなので決め付けることは出来ないけれど、これが本来の姿ではないだろうと思えるのだった。
 何かあったのか。
「森崎さん?」
 強く呼びかける声に、うろうろしていた視線が止まる。その瞳はじっと嘉藤を捉えたあと、すっと斜め上に向けられた。今、森崎が倒れているのは玄関から左右に伸びている通路を左手に突き当たった場所。目の前には扉。右手には二階へ続く階段が伸びている。森崎の視線は、その階段の上に注がれている。
「!」
 追うようにして視線を上げた嘉藤は、階段の踊り場から少し上がった部分に、人影を見つけた。踊り場の高いところに填められたかわいらしい窓から差し込む強い光が暗い階段室に差し込んでいて、室内の穏やかな暗さに慣れた目で見上げると眩むけれど、それが一条であることくらいは分かった。
「一条さん?」
 どうして降りてこないのだろう、と思いながら呼びかけてみるけれど、反応が無い。物音ひとつない。階段に足を掛け、上ろうとしたところで後ろから後藤の声が聞こえてきたので、嘉藤はそちらを振り返る。
「ねえ、服も汚れてるし、足、怪我してるんじゃない。どうしたの。何があったの?」
 これまでにない真剣な後藤の問いに、森崎は怯えているのか、少し震えるようにして口を開いた。
「……ひとりで帰って来て、喉が渇いたから冷たい飲み物欲しくて、だから誰か居ないかな、って思って捜してたんだけど、誰も居なくて、この、階段、下りてる途中で、一条さんが……」
 それは小さな声だったけれど、誰もが注目する静まり返った屋内に、可愛らしい鈴の音のように響いた。
「一条さんが……?」
 問い返したのは誰だったのか。そんなことはきっと関係ない。階段手前から振り向いている嘉藤の目には、森崎を抱え起こしている後藤と岡田の更に後ろで近寄るのを躊躇っている残りの全員の表情が見て取れた。その、すべてが、同じ疑問を表情に浮かべているのだから。すると、ぐっと表情を硬くした江藤が意を決したように歩み寄ってきた。その瞳はまっすぐに階段の上に居る一条に注がれている。
「一条さん、何をしたのよ?」
 抑えた声音だったけれど、明らかに一条を責め、糾弾する響きだった。決め付けたような言葉に嘉藤は繭を顰めるけれど、まだ口を開くほどでもないと抑える。
「……何も。この人が勝手に転んだだけ」
 静かに反論する一条の声に、嘉藤はホッと息を吐く。けれど、室内の明るさに目が慣れてその表情が見えると、その安堵もすぐに消え去る。r
 それほど一条の瞳は暗く冷たい光を放っていた。
「勝手に、って……! そんな、勝手に転ぶなんて考えられない。あなたが突き落としたんじゃないの?」
 その冷たい瞳に耐えられないのか、自らの内に起こった恐怖を振り払おうとするかのように江藤は更に激しく一条を糾弾する。周囲の全員が同じような恐怖を感じているのか、固まった表情のままで一条を見ている。
 そして、ほぼ全員から怖いものを見るような瞳で見上げられている一条は、もうひと言も弁明する気が無いようで、ただ変わらない、冷たい瞳で皆を見下ろすばかりだった。
 このままではまずい、と思う。
 咄嗟に嘉藤は一条を庇うようにして皆の前に立つ。
「違うって本人が言ってるだろ。なのに、そんな風に人を疑うのは良くないよ。それよりも先に、森崎さんを手当てするべきじゃないのか?」
「そう……、そうだな」
 ざわついた場の空気を変えようと、極めて冷静に落ち着きながらも通る声でそう話すと、すぐに岡田が頷いて同意してくれた。森崎に肩を貸して立たせようとしているけれど、右足が痛いのか、森崎は上手く立てないようだった。慌てて後藤が反対側の肩を持つ。
「あ、私! 軽い怪我なら手当てできるよ」
 駆け寄ってきた高橋がそう声を掛けると、森崎は安心したのかようやくその表情を緩ませた。
 カタン。
 小さな足音に階段の上に視線を戻すと、既に一条はそこを離れて二階の通路へ消えていくところだった。弁明だけでない、森崎へひと言だけでも心配するような言葉があったら、そうでなくてももう少し皆に近寄りさえすれば、こう一方的に糾弾されることもないのに、と思うと残念だけれど、それを言うならもう少し嘉藤がうまくフォローできていたなら一条だってこちらへ降りてきたかもしれない、と思うと、結局嘉藤は自分を責めるしかないのだった。



つづく






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