白蓮の散る





 やたら透明な日差しが窓の外を真っ白に見せている。必要以上に華やいだ笑顔で明るく騒いで、ちょっとしたことではらりと泣き出す。そうした情緒不安定な様子が自然に思えるお祭りのような一日を、宝来はとても静かな気持ちでぼんやり眺めて過ごしていた。三年間の高校生活も今日で最後なのだ。別れを惜しむように教室に留まり話を交わす同級生を眺めながら、自分にはそうした未練は全く無いと心の中を探って小さく笑う。貴重な三年間だったと思う。相馬に出会うことが出来て、その他にもいろいろな人との出会いがあって、そうして様々な出来事があった。ゆっくり思い出せば長くそこに浸れるほどの想い出がたくさん自分の胸に詰っている。しかしそれを大切に思うのといつまでもずるずるここを惜しむのは違う。宝来にはこれから始まる新しい生活の方がずっと大切だと思うのだ。やっとで卒業、この日を宝来はずっと待ち望んできた。今まで相馬に会いたいのになかなか会えないという、どうにも出来ない現実の状況に耐えてきたのだ。何を言っても相馬からはなかなかこちらに帰っては来ない。会いたいなら宝来から会いに行くしかなかったのだし、あまり頻繁にそうすると相馬が気にするのでそれも無理しない程度にするしかなかった。自分の幸せのためだけに相馬を苦しめたくはないのだから。片付けや準備が終わったらすぐにでも引っ越す予定だ。そうすればきっと毎日でも会いに行ける。
「そろそろ帰る?」
 途切れることの無い笑顔で同級生から下級生、教師までたくさんの知人に挨拶して歩いていた高槻は、教室に閉じこもってそうした面倒からこっそり逃れている宝来のところに帰ってくると、あえてそこに言葉を掛けるでも咎めるでもなく笑顔のままで静かにそう促してきた。
「うん」
 もう式が終わってから随分と経った。そろそろ人も挨拶を終え帰り始めている頃だろうと宝来も立ち上がる。出来れば誰も居なくなった頃か溢れる人ごみに紛れるようにして静かに消えてしまいたかった。



 まぶしいほどの日差しがあたるところからゆっくり身体が温まる。空気自体はまだ冬の心地を忘れない冷たさを持っているのに風がのんびりとしている所為だ。靴を履き替えて出た校舎の外ではそんな日差しの中であちことに小さな人の塊が出来ている。葉のざわめきのような小さな音の集積が白く焼かれた視界とあわせてどこか非日常的な気分を際立たせている気がした。
「この後の集まり、宝来はどうする?」
 卒業後の開放的な気分のまま、クラスメイト皆で集まって騒ぐ予定になっていた。
「面倒だから行かない。お前は行くだろ。みんなによろしくな」
「了解。……でもさ、何かなー、俺は……。ま、いっか。明日、お前の家に行くからさ、予定あけといてよ」
「うん」
 地元の大学に就職を決めた高槻とはこれから会う機会が減るのだ。今までずっと一緒だっただけになかなか実感が沸かないけれど、こうした時間が減るのは惜しい気がした。そう、皆はこれを惜しんでいるのだ。
「あの、宝来先輩」
「……何」
 不意に横から小さな声が掛かる。思い切り不機嫌そうな顔で宝来は振り向いた。その表情に驚いた顔の女の子は少しうろたえるように視線を迷わせている。
「えと、その、卒業、おめでとうございます」
「どうも。……じゃあ、急ぐから」
 不機嫌そうな様子を崩さず冷たくそう言うと、隣で様子を窺っていた高槻を促して歩き出す。何か他に言いたいことがありそうな女の子は、しかしそうした宝来の冷たさに怯えたようでついては来なかった。面倒事をなるべく避けたくて今日はずっと険しい表情をしているのだ。
「なかなか勇気ある子じゃん。お前に声掛けるなんてさ」
「全くどうして未だに……、まあ今日で最後だし、失敗しても失うものが少ないっていうか何かチャレンジしてみたかったんだろうけど、……面倒だなあ」
 そもそも好きな相手がいると公言するようになってからはこうして声を掛けられること自体が少なくなってホッとしていたのだ。やはり卒業、これで最後という要素は恐ろしい、と宝来は作るまでもなく不機嫌な表情になる。
「あれ、校門のところのあれ、木下だ。あんなところにいたのかー、探してたのに……、って話してるあれ、もしかして、え、相馬さんじゃねえ?」
「え?」
 木下は高槻の後を継いで生徒会長を務める生徒だ。校門の傍にある大きな木蓮の下で何か揉めているようだった。少し距離を置いて人が輪になるように集まってきている。揉めている様子の相手は正しく相馬だった。どうしてここに、と考えるよりも前にその状況を何とかしなくては。
「相馬さん!」
 興味津々に見守る輪を掻い潜っていきながら高槻が大きく声を掛ける。木下は怪訝そうに首を傾げて振り返った。揉めているところから助けようというのに相馬は硬い表情を変えないで向き合う木下の挙動を窺っている。もう少し安心したような表情をしてくれると良いのにな、と宝来は少し寂しく思った。
「その人がどうしたん、木下?」
「いや、卒業式の混乱に乗じて変な人が来ないか見張ってて……、って宝来先輩、そんな、睨まないでくださいって」
 怖い怖いと繰り返す木下の言葉につられるようにして相馬がその視線を宝来に向けてきた。硬く締まった表情が途端に小さく緩む。和らいだ表情に宝来もほっと微笑むけれど、相馬の様子の何かが宝来の心に小さく引っかかるのだった。そもそも相馬は先程掛けた高槻の声が聞こえていなかったのだろうか。すぐ目の前にいた木下がはっきり気付くほどの大声だったのに、今の反応はまるで木下が宝来と名前を呼んではじめて気付いたというものではないのか。
「あんさ、その人、俺らの先輩だよ。俺の二つ上の代の副会長さん」
「そうだったんですか。うわ、それは失礼しました」
 大げさに頭を下げる木下の様子に困惑したように視線を逸らせた相馬は、砂を掻くようにして僅かに足を後退させる。まるで逃げるように。足元の真っ白な花弁が靴に潰され醜く歪む。
「いや、不審、に見えた俺に問題があると思うし……」
 更に相馬の足が後退する。珍しく今日の相馬は落ち着いた色のスーツ姿だ。珍しく、というか宝来ははじめて見た。まだ高校生といっても通じる顔にきちんとしたスーツ姿は不審とは思えないのに、どうにも様子がおかしいせいで確かに不審に見えなくもない。後退する足が地面から隆起した木の根に捉えられる前に宝来はその腕を捕まえることができた。
 そうしてからやっとで宝来は心の底から安堵できた。背後に向かっていくその足で逃げられてしまうのではないかと心配だったのだ。朝から続いていた非日常的な雰囲気が見せた幻ではないかと心配だったのだ。腕を捕まえるだけでなく抱き締めたいと思う。しかしどうにもここは見物人が多すぎる。高槻と宝来が現れてから余計に増えたようだった。
「じゃあ木下、その辺に集まったやつらどうにかしといてよ」
「はい。あ、そうそう。先輩、卒業おめでとうございます」
 高槻がそうやって出来上がった人の輪を解こうとするのは、別に宝来の気持ちを酌んだからではなく、単にこのままでは問題だと思ったからなのだろうけれど、助かったと宝来はこっそり感謝する。軽く頷いた木下はその使命を果たすべく集まった人をてきぱきと動かしていく。
「にしてもびっくりしたー。相馬さん、お久しぶりです」
 人の波が流れ始め皆の注意が逸れたことを確認してから高槻はその表情をほわりと綻ばせて相馬に微笑む。そうした高槻の様子と微笑み返す相馬を見てからやっとで宝来は自分がまだ何も相馬に言っていないことを思い出した。自分は何をぼんやりしているのだろう。いつまで幻の中にいる心地に浸かっているつもりだったのだろう。
「本当に、驚きました。来るなんて……、思わなかったから。連絡してくれれば良かったのに」
「ごめん。ちょっと別の用事で近くに来て、そういえば卒業式あたりかなって思って寄ってみただけなんだ」
 連絡をしないで会いに来てくれたことを責めたわけではなかったのに謝らせてしまった。連絡があれば早く迎えに出たのにと思っただけだったのだ。最初に小さく引っかかった相馬のいつもと違う様子が改めて宝来の胸に強く引っかかる。どこかここではない別のものに心が囚われていて、それを自覚してもがいているようだと思った。しかし気持ちを上手く伝えられないことをそんな相馬の状態を理由にしては駄目だ。自分のぎこちなさを反省しながら宝来は今度は間違えないようにとゆっくりと気持ちを言葉に乗せる。
「……いいえ、そうじゃなくて、会えて、嬉しいです」
 そう言うと相馬はほっとしたようにまた微笑んでくれる。ほんのひと言でそうして安心するのは、やはり心が安定していない証拠ではないのか。また何があったのだろうかとそうした状態は心配なのだけれど、そうしたものを抱えながらも会いに来てくれたことは嬉しい。何かがあると目で見てこうして分かるのだし、それを問うことも出来る。きっとそれを癒すことだって出来るはずだと思うのだ。
「もう予定あるから行かなくちゃいけなくて、だから、ギリギリだったけど会えて良かった。宝来、高槻、卒業おめでとう」
「ありがとうございます」
 いつから待っていてくれたのだろう。触れる腕は冷たく凍えているようだった。眩しい日差しを受けていればまだ暖かいのに、大きな木蓮の下に居るせいだ。影の中の温度はびっくりするほど冷たいのに。
「じゃあ、それが言いたかっただけだから、俺、もう行くな」
 本当に今日はたったひと言の為だけに来たのだろうか。そのことに驚いて、宝来は慌てて今にも立ち去ってしまいそうな相馬を引き止める。まだこれからゆっくり話が出来ると思っていたのだ。
「あの! その、予定が終わったら、時間、ありませんか」
「……分からない。その用事にどのくらい時間を使うのか予測つかなくて……」
「少しでも良いから、時間あまったら連絡ください」
「うん」
 きっと連絡が来る可能性は高い。ここに居て待っていてくれたのだから、相馬自身が会いたいと望んでくれていると信じても良いはず。勿体無い、折角本当にかなり久しぶりに会ったのに俺も話がしたいと隣で高槻が我がままを言うのにも時間があればと丁寧に答えている相馬は自然に楽しそうだった。
「あの、宝来先輩!」
 眩しい日差しを大木の下から眺めるのと同じで穏やかに微笑む相馬を見ていてとても幸せな心地のところに声を掛けられた。まずい、と思った。相馬の前では不機嫌そうな顔も冷たく断ることも出来ない。どうしたら良いのだろうととりあえず返事をしないで考える。
「ふたりでお話したいんですけど、いいですか?」
 しかし聞こえない振りをしても無駄で慌てている間にも勝手に話は進んでいく。話しかけてきた女の子の足はもう違う方に向いていて、宝来がついて行くことを疑いもしないものだった。どうしようと高槻と相馬に救いを求めるような眼差しを向けるけれど、ふたりとも何だか面白いものを見るような表情で手を振るだけで期待したものは得られそうに無かった。
「じゃあ、またな、宝来」
「あ、俺ももう行かなきゃ。また連絡するよー」
 用事があるふたりはそうして手を振って宝来が女の子についていくのを見守っているので、仕方なく宝来は待っている子のところへ向かった。歩きながら気になってちらちら振り返ると、校門のところで相馬が高槻と楽しそうに話をしているのが目に入る。自分の居ないところで何をあんなに楽しそうに話しているのだろう。後ろ髪をひかれる思いはいつまでも宝来の心を引き摺った。



 ひと気の無い場所まで連れて行かれた後は予想通りの会話の流れだった。予想通りとはいえそれを短縮することも出来ず、相手を納得させるまでにかなり時間を喰い、やっとで木蓮の下に戻ったときにはもう相馬も高槻も居なかった。眩しい春先の日差しの中、この木蓮の陰で楽しそうに高槻と話をしていた相馬を思い出しながら電話を掛けてみるけれど、十回コールしても出ないので諦めた。用事がある、と言っていたのだから仕方ないだろう。思い立って今度は高槻に電話を掛けてみたら、宝来からの連絡を予測していたように一つ目のコールで高槻は出た。
「お疲れー」
「……うん、疲れたけど、あのさ……」
 そこまで話して、いったい自分は高槻に何を聞こうと思っているのだろうと思い直す。楽しそうに何を話していたのかなんて聞いたところでまた高槻に笑われるだけだろうと自分の行動を反省しているところに、高槻は軽く相馬の話題を持ちかけてくる。
「さっき相馬さんに掛けたのお前だろ。今は運転中だから出れないんだよ」
 ぐ、と宝来は腹から出そうになる感情を抑える。確かに電話を掛けた。しかしそれを高槻が知っているのも実に楽しそうな声で相馬が運転中であることを教えてくれるのも理由は一つしかないだろう。
「……ってことは、お前、今……」
「相馬さんと愉快にドライブ中だよ」
 楽しそうな雰囲気はそのためなのだ。相馬が運転する車でふたりきりで楽しい時間を過ごしているのだ。相馬と一緒にドライブなんて自分はしたことがないのに、と思わず宝来は声を荒げて高槻に憤りをぶつけていた。
「何だよそれ、ずるいだろ。何で俺を待ってないんだよ!」
「……相馬さーん、宝来が、怒るんですよ」
 そこで相馬に助けを求めるのは卑怯だ、と思うけれど、確かに高槻も相馬も何ひとつ悪いことをしていないのに、これ以上高槻を責めては自分の立場が悪くなるだけだ。そうして宝来はゆっくり気持ちを落ち着けながら、ここに居ても仕方ないと校門を出て通いなれた坂道を下り始めた。そうして電話の向こうを想像しながら高槻の声を聞く。
「それでさっきの子はどうしたん?」
「断ったよ。当たり前だろ」
 また相馬の前でそんな話題を、と憮然としながら答えた。思えばそのせいで自分だけ一緒にいることが出来なかったのだ。何も悪くない、ただ間が悪かっただけなのだと諦めるしかないだろう。
「だよな、うん。それなら良い」
「……そう思うなら、あのとき助けて欲しかったよ……」
 思わず気弱な声でそう言ってしまったけれど、あのとき高槻だけでなく他に誰がいてもどうにもしようがなかっただろう。ふうと長い息を吐いて気分を切り替える。そういえば相馬は用事があると言っていたのに、どうして高槻と一緒にいるのだろうか。
「それでお前、何で先輩と……、っていうか、どこに向かってるわけ?」
「あー、だから、相馬さんはこれから用事あるんだって。ついでに送ってもらうだけだよ」
「……うん。……運転気をつけてって先輩に、よろしく。じゃあ」
 何だか無性に寂しくて、電話を切った宝来はそこで疲れたように足を止めた。高槻は根がきれいで思いやりのある本当に良い人物なのだ。一緒に居て相馬もきっと楽だろうと思う。落ち着かない様子の相馬の心もきっと高槻の明るさで和むのに違いない。相馬の傍にいるのが自分である必要性がどこにも無いと宝来ははっきりと自覚しているのだ。
 だから、それが、悔しかった。そして大切な友人に対してこんなことを考える自分がとても嫌いだった。
 どうして自分の心はこんなにも醜く濁っているのだろう。
 際限なく求めてはいけないところまで求めてしまうのだろう。
 幾ら駄目だと心に釘を刺しても必ず宝来の心はいつも同じところに落ちてくる。
 それでも相馬が宝来のそういうところも笑って受け入れてくれるから、きっと大丈夫なのだ。今のままの宝来を大切だと言ってくれるのだから、周囲の状況も、自分のどうにも出来ない感情も、なるように任せてみるしかない。それを許すだけのしなやかな関係を築けていると信じて。




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2008/3/3 雲依とおこ




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