未だ曖昧に隠されたまま





 いつまでも続くような幻視さえ抱かせた夏の暑さは思っていたよりもあっさりと消え、気付くと穏やかな秋が訪れているようだった。夏の終わりに待ち望んでいた連絡を受けてから二週間が経過していたけれど、未だ宝来の気持ちはずっと目の前にある現実を素通りしてしまい浮ついていて何をしてもまるで手につかないままだ。毎朝の習慣としているランニングの最中もぼんやり帰ってきたその姿を想像して足を止めてしまったり、酷いときはそれから先の想像をして荒ぶる感情を抑えきれずに全力疾走して倒れこむほどだった。授業は頭に入らないと分かっているので最初から諦めとりあえずノートだけを書き写すことに専念し、休み時間に話しかけてくる友人たちには曖昧な相槌を返すことで心が遠く離れた人のところだけに向かってしまうのを知られないように誤魔化していた。そうして気持ちを誤魔化すことは得意なのだ。
 そうして誤魔化したいのはそうしたクラスメイトたち相手だけではなく、全く分からなくなっている自分の気持もだった。海外へ行ってしまっただけでも心配だった相馬が一ヶ月もした頃に行方不明になり、的中してしまった悪い不安に堪らなくなった宝来は夏休みを利用して現地まで捜しに行ったのだ。捜し出せないまま漠然とした不安が現実的で大きな不安となったまま帰国したのもつい最近のようで、もうずっと昔の出来事のような気もしていた。その相馬が元気でいて帰ってくると分かって安堵し、一日一秒が耐え難い長さに感じられるくらいに嬉しいはずなのに、何故か宝来の心はそうした喜びとは別に不気味なほどに静かな不安があって、その二つの間を行き来するのだった。胸を緩慢に苦しませるこの不安はどこから来るのだろう。
「また宝来、そんな顔して」
 どんなに取り繕って誰もを欺いたと思っても自分の心を上手く整理することが出来ないのだし、高槻の目も誤魔化せないようで、顔を合わせる度にまるで面白いものを見たというように笑ってからかわれた。からかわれるのも面白がられるのも本来なら不服なのだけれど、連絡があるまでの長い間、どれだけ宝来が何があったのだろうと心配でたまらなかったかを、いつ帰ってくるだろうと不安に襲われていたのかを近くで見てきた高槻の表情は、からかうようなそこにさえ溢れるほどのあたたかさがあるのだから、宝来も隠さず己の気持ちを吐露することが出来るのだ。
「俺、駄目かもしれない。想像しただけでこんななのに、会ったらどんな顔していいのか分からないんだよな」
 穏やかな夕日が長い影を描いている帰り道、答えようも無いだろう悩みと共に幸せな溜め息を吐くと、軽やかに歌うような足取りで隣を歩いていた高槻は痛いと感じるほどの力で思い切り宝来の背を叩いて答え難い悩みに明快な答えを与えてくれた。
「そんなの考えなくてもさ、素直に気持ちのままの顔してればいいじゃん。嬉しかったら嬉しいってさ、全身で表現したらいいじゃん。取り繕って良いことなんてひとつも無いって」
「……取り繕って良いことなんて、無い、か……」
 ふわふわ浮き立って霞む目の前が晴れるほど素直に正しいと認めてしまいそうになる答えではあったけれど、気持ちのままを表情に映していたらまるで緩んで無茶苦茶怪しい表情になるのではないかと思うのだ。何があっても落ち着いていて何をさせてもしっかりとしている相馬に少しでも頼って欲しい宝来としては、いつでもどんなことでも頼られても大丈夫だと安心してもらいたくて、そうした子どもっぽい部分を見せたくないというのもあったし、何となく、相馬が年上の人間に弱いようだと気付いたから、自分ではどうにも出来ないそれが余計に悔しくて、癪なのだった。
「別にクラスのやつの前で相好を崩せって言ってるんじゃなくてさ、少なくとも相馬さんの前で繕うのは駄目じゃねえ? 取り繕って信頼されてもっていうか、そんなところから得た信頼なんて、お前、嬉しくないだろ」
「うん」
 煮え切らない宝来の様子に焦れることもなく高槻の表情や言葉は柔らかくやさしい。それでもその内容は辛辣に宝来の誤魔化しを突き刺すものだった。
「まあ正直なところ、今のお前が相馬さんの前で何を繕えるのかって思うけど。どんな顔で会ったら良いのか分からないってさ、そう考えるの無駄だと思うな。きっと考えたところでそんなの出来ないだろ。みっともないほど喜んだって良いじゃん。寧ろその方がずっと相馬さん、安心すると思うよ」
「……みっともないと、安心する?」
「あの人は特に、かな」
 意味深な言葉を最後に高槻は先に行ってしまった。それ以上は自分で考えるべきなのだろう。思えば相馬が海外に行ってしまってからずっと不安ばかりが心を覆ってろくな思考は働かなかったのだし、連絡があってからはこうして浮かれっぱなしなのだ。本来なら高槻から聞くまでもなく宝来の方が分かっているはずだった。誰よりもその心を理解しているという自負があったのに。
 自分は相馬を安心させられる、と思う。
 きっとみっともない醜態を晒して手放しで喜ぶのにしても大人びた様子で穏やかに迎えるのにしても、相馬のすべてを喜んで受け入れるその気持ちを伝えることが出来れば、それで相馬は安心してくれるだろう。
 そう信じることで、宝来は「そうか」とやっとで気付くことがあった。無事に生きていて連絡をしてくれた相馬に喜んでいた宝来は、離れている間に相馬にとって自分が必要の無い存在になっているのではないかと、いつしかそんな不安に囚われていたのだ。離れていた間に何があったのだとしても、帰ると約束どおり連絡してくれた相馬はまだ宝来の存在を求めてくれているはずだ。帰って来たいと思える場所だと、そう言ってくれたのだから。相馬が求めているものなんて最初から分かっていたはずなのに、いつの間に見えなくなっていたのだろう。
「何か、すっきりした。ありがとうな、高槻」
「どーいたしまして」
 にこりと笑って答える高槻はこの一年で随分と変わったように思う。元来まるで自然にのびのびと生きているようでありながら、時折人の心の中にあるものを読んだように核心を突いた言葉をまるで自覚もなくぽろりと零していたのだけれど、今はそれをある程度自覚して言ってくれているのだと思う。向き合う相手を、そして周囲のたくさんの人たちを、実に良く見ている。
 心配で落ち着かなかったときも不安でたまらなかったときも、宝来は自分ひとりがそれを抱えている訳ではないと頭では分かっていたはずなのに、どうしても「自分が一番心配で不安だ」という感情を捨て切れなかった。あれこれ奔走していた黒崎も勿論だけれど、すっかり相馬に懐いていた高槻だって同じように心配していたのに違いないのに。
「ああ、俺も久しぶりに相馬さんに会って話がしたいな。こっちには戻ってこないの?」
「……戻ってくるなら俺が独占していたいんだけど。まあ、でも、お前がそう言ってたってことは一応伝えてはおくよ」
 伝えれば相馬はどう答えるだろうか。少しでも長い時間、ふたりきりで過ごしたいと願う宝来とは違った答えを出すのだろう。自分にあるような独占欲が相馬の中には薄いことを宝来はしっかりと分かっていた。呆れたように笑う高槻も同じ。もしかして自分ひとりがこんなにわがままなのだろうか。
「お前って本当……」
「お互い様だな。俺には高槻の考えの方が不思議だよ。……例の工藤先輩、未だ結城先輩に声、掛けてるって、聞いてるけど?」
 生徒会の仕事を一緒にしているうちに、高槻はひとつ先輩である結城早苗と付き合うようになったのだ。しかし付き合っているというのは宝来の認識であって、当事者のふたりはそれを否定する。互いに好きだと言いながら決して相手を束縛することを望まず、好きという感情を持って傍に居ながら友だちという関係を続けているらしいのだ。
「聞いてるよー。早苗ちゃんからも、工藤先輩からも、報告あった」
「……工藤先輩、何て?」
 結城から話を聞くのはまだ分かる。しかし工藤から報告とはどういうことなのだろう。どうにも高槻のその辺りの話は宝来には理解できないことでいっぱいだった。
「正直に、早苗ちゃんにまた告白しますってさ。悪い人じゃないんだよね……」
「……お前、それで本当に良い訳?」
 結城が好きだと誰にも憚らず笑顔で答える高槻が、その好きな相手に対して積極的に行動してくる工藤をどうしてそう冷静に見ていられるのだろう。例えば自分なら、もし相馬に誰かが言い寄っていると思うとどうしても酷く心が荒んでしまう。俺のだから駄目だと許さないだろう。
「良いっていうか、うーん。だって早苗ちゃんに想われてるって分かってるし」
「……だから何でそれで付き合わないのかって不思議だよ」
 心底不思議そうにそう呟くと、高槻はやはり宝来には理解できない幸せそうな笑顔で応えるのだった。
「良いじゃん。こういう関係が今は一番自然だって思うし、俺とこういう関係を楽しく続けてくれる早苗ちゃんが居るってことが幸せなの。自由で何にも縛られない早苗ちゃんだから好きなの」
 確かにそれはふたりが納得して出した答えなのだ。寧ろそうした状態で互いを想いつづけているふたりはまだ宝来には見えない真理を既に手にしているような幸せな状態にも見えてくるし、相手を信頼している証拠とさえ思えてくる。だとすれば自分は相馬を信頼できていないということなのか。それもこれも単なる個人差なのか。
「こらそこ!」
 ぼんやりと思いに耽りながら帰り道を歩く背中に不意に高い声が降り注いでくる。振り返るまでもない、今ちょうど話題になっていた結城早苗の声だった。声のすぐ後に振り返ろうとする高槻の背に小さな女の子がものすごい勢いでぶつかってくる。
「っと、早苗ちゃん、どうしたの……」
 いつものことと言うように難なく受け止めた高槻は、笑顔のまま少し不思議そうに首を傾げた。それは結城の印象的な目が怒ったようにつりあがっているからだろう。
「どうしたじゃない。今日は寄りたいところあるから付き合ってって約束してたんじゃん。うわ、忘れてるし……」
 酷い、と言いながら足先で地面を擦るようにして拗ねてみせる結城を見て慌てたのは宝来だった。もしかして高槻は約束があるのに様子がおかしい宝来を心配して一緒に帰りながら話を聞いていてくれたのだろうか。咄嗟に謝ろうとしたけれど、それよりも先に怪訝そうにしていた高槻が言い淀むようにして静かに口を開いたので間に入るタイミングを逸した。
「ええと、約束、明日じゃなかったっけ。水曜日って言ってたよね?」
「……あれ、そうだっけ」
「……じゃないかなあ。でも折角だから今から行こうか」
 口を挟まなくて正解だった。別々に接していると似ているとは思わないけれど、こうしているとまるで似たもの同士。記憶の齟齬についても特に気にした様子も正解を追及する様子も無く、まるで尾を引かないまま手を繋いで歩き出すふたりは見ていてとても微笑ましい。
「あー、宝来君、ごめんね。というわけでこの子、貰っていくよ」
 そのまま去ると思っていたのに、十歩も先に行ったところで不意に結城が身体ごと振り向いて大きな声でそう宣言した。この子、と言われた高槻もつられて振り向きながら、にこにこ笑って手を振っている。咄嗟に頷きながら、やっとで口を開くタイミングが得られたので宝来は一応謝っておくことにした。
「はい、えと、すみません」
 好きな相手と少しでも長く一緒に居たいといつも思っている自分が、その好きな相手と一緒にいることの出来るふたりの時間を奪っているのかもしれない。もう少し弁えた方が良い、と自戒を籠めて謝ると、結城はからりと屈託の無い満面の笑みで答えた。
「君が謝ること無いじゃん。うふ、今度相馬さんと会うって? ほんと良かったねえ」
「はい」
 すぐに去ると思った結城が挨拶以上の会話を続けようとする気配に宝来は戸惑う。それに結城は知らないはずなのだ。宝来が相馬に抱くものが友情の域を遥かに超えていることを、きっと高槻は結城にすら話していないはずだった。
「あたしも久しぶりだし会って話がしたいけど、なあんかね、君の様子見ていたら、いっかな、って思うんだ。あの人の気持ち楽にしてあげられんの、誰にでも出来ることじゃないって、みんなであれこれしたあの一年でよく分かったんだよ」
 昔を懐かしむように語る結城の視線は僅かに宝来を外れて足元に落ちている。長い睫に影を落としながらもキラキラひかる瞳が綺麗だった。おそらく相馬が三年で生徒会に入っていたあの一年、黒崎が「相馬の為に」という非常に個人的な目的で集めた役員で固められたあの一年に、宝来の知らない様々なことがあったのだろう。役員だったほかの皆も、相馬に対する思い入れがとても深いのだ。だから、きっと、宝来がどれだけ相馬のことを思っているのか、聞かなくても分かることがあるのだろう。
「だから宝来君、アタシの分もよろしくね」
「……はい」
 視線を上げた結城は頷く宝来を満足そうに見やってから、微笑んで見守る高槻を伴って今度こそ夕日に向かって軽やかな足取りで去っていった。相馬から連絡があってはじめて、浮つくほどの喜びも不安も無い、穏やかなものが宝来の胸を満たしていた。




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相馬帰国直前の宝来の様子と高槻の側の話をちらり
次はこれより二週間前の相馬からの電話の内容になります

2008/2/24 雲依とおこ




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