不可視の匣

Chapter 1 ; 冷たい春





 時間がゆったりと感じられるような落ち着きを感じさせる木造の建物が整然と並んだ細い道を小川沿いに歩いていると、どこまで歩いても同じ景色が続くばかりと思ってしまうほど暫く続いたあとに、まるで唐突に平野の終わりがある。立ちはだかる、と言ってもいい。
 それは先の見えない坂だった。
 全体的に緩く左に道が曲がっている所為ではあるけれど、山全体を見上げればこれが長い坂であることは確かだ。僅かに目を細めて歩く先を窺った宝来は、初めて自分の足で立って見るそれを確かめると、すぐにまた同じ歩調で歩き始めた。先を確かめる一瞬だけ鋭くなった眼光は、すぐに消えてなくなりのほほんとしたものに様変わる。
 それまで比較的のんびり歩いている宝来を軽快に自分を追い越していた自転車に乗った学生たちのうちの数人が、徐々に速度を落として見えた。坂がきつく、長いのだ。最初は勢いで飛ばせても体力が無ければ徐々にこの坂に負けてしまうのだろう。あるいは坂の上り方のコツを知らないのか。振り返ると自分が登ってきたその長い坂が見下ろせる。自転車で降りるのは気持ち良さそうだ、と思ったけれど、降りきった先であの細道の平野が待っていると思うと少し危険ではないかとも思った。いきなり塀の角から現れた歩行者などを避けられない可能性、危険性について、学校側は何も考えないのだろうか。電柱、塀、小川、街路樹に放置自転車など元々ある物体はまだ予測して避けられるかもしれないけれど、それだって自分がどれくらいの速度を出しているのか、それによってハンドルをきったとき、ブレーキを踏んだときの自転車の挙動がどれだけ違うのかなど認識していないと危ないことに変わりは無い。
 しかしそんなことは自転車通学ではない自分には関係の無いことだ、とすぐに思い直した宝来は前に向きなおり、止めていた足を踏み出す。歩いて上る坂の左手には石垣が高く聳えて見える。この上はもう学校なのだ。平野の終わりにある山を切り開いて建てられた校舎は、残った木々の森を背に、平野の町を高みから見下ろしている。
 ここが今日から宝来が三年間通うことになる、私立文理高校だった。



 見るものの憂鬱を晴らすほど気持ちよく晴れた空から頑なまでに目を逸らし、宝来はぼんやりと足を運び続ける。気付けば口からため息が漏れていた。やる気は無い。少なくとも今日の入学式に何の意味があるのか分からないことがこの憂鬱のひとつの要因であることは確かだった。しかし意味が感じられないからといって学校に出なくても、先日までの少し長い春休みと同様、友人たちとだらだら話をする以上のことは何もしないだろう。そちらにだって、意味なんて殆ど無い。
 気が乗らない理由はそれだけではないのだ。
 そうした自分の気持ちを宝来はしっかりと自覚していた。
 この憂鬱はそんなものではないのだ。
 思考は容易に過去へ向かい、未来を見ようとしない。それはそこに明るい展望をひとつとして思い浮かべることが出来ないからだ。希望を捨てないと言いつつ、自分が諦めようとしている証拠だ。良くない傾向だと自覚してどうにかしたいと思いつつ、どうにもできないでいる。
 しかしそうして意味がないとひとつ訴えるだけの理由なら幾らでもつけられる。このままくるりと引き返して今日はサボろうか、と思ったところで後ろから声を掛けられた。同じ中学からこの高校を受験した友人、高槻が駆け寄ってくるところだった。走って坂を上ってきたのだろう、息が弾んでいるけれど、表情はとても明るいものだった。高槻のその明るさに幾分か救われたように、宝来もほっと小さく息を吐く。
「おはよう。なあ、宝来。明後日からのテスト、お前、勉強した?」
「まさか」
 入学早々からテストがあると聞いていた。少し曇った表情からすると、どうやら高槻はろくに勉強などしていなかったに違いない。そもそも高校入試も終わり、入学を待つだけという中学生でも高校生でもない、とても自由な休みの間に勉強などするものなどいるのだろうか、と宝来は疑問を覚える。しかしもともと宝来は実力を計るためのものなのだから無理に勉強しなくても今の自分の学力そのままで向かえば良いといつもそうやって周囲を誤魔化し、今回に限らずテストの為に勉強なんてしたことが無かった。面倒臭いことを極端に嫌がる自分の性格を正確に自覚しているけれど、そう周囲から指摘されたことはない。口先と人の良い笑顔があれば、案外それだけで人は騙せるものなのだということを学んだのだった。
「そうだよなー。生徒の自立心を養うための自由な校風、って聞いてるし勉強くらい、どうでもいっか……、っていや、俺は騙されないぞ。勉強しなくたってお前、成績良いんだもんな。危ない危ない」
「……要するに、騙して無いってことだろ」
 自由な校風云々は宝来もこの高校に通っている先輩から聞いていた。だからこの高校を選んだということではないのだけれど、それでも拘束されれば反発したくなる者にとって、自由という響きは魅力的だ。何が楽しくて拘束ばかりの進学校へ行くのか、そうした高校を選んでいった同級生達の気持ちなど宝来には理解できないのだった。しかし、そう、理解できなくても想像ならできる。自分から拘束されたがる人もいるのだろう。何もかもを指示され行動も拘束され、とにかく自由を奪われることで、自分で考えて行動するという面倒と責任を回避できるのだと。言われたことをやるだけなら楽だし何より考えることをしなくても良い。それだってそう想像するほど単純で簡単なものではないのだろうけれど、それを望む人間の思考としてはそんなところだろうと思うのだ。そういう人間がいても全く構わないのだし、好きにすれば良いとも思うけれど、宝来は自分はそうなりたくはないのだし、それを押し付けられるのはもっと嫌だった。
 上った為にもう石垣は途切れ、歩く横には金網越しにグラウンドが見える。人がひとりも居ない所為だけではなく、整備された朝のグランドはとても広く、気持ち良さそうだった。
 ここには何も無い、という思いが宝来に呼吸をさせる。
 何も無いのがいい。
 苦しくない。
「聞いてる?」
「……あ、悪い。何か言ったか?」
「だからーって、宝来、何か最近、おかしくね? 心ここにあらずって、俺、難しい言葉知ってるだろ。えへへー」
 にこにこと楽しそうに茶化しているけれど、高槻は一応、さりげなく心配してくれているのだと、その気遣いに宝来は微笑む。なんだかんだで高槻との友人関係は長い。そして春休みの間に宝来の心を掴んだその時のことはまだ全く話していなかった。いろいろ宝来の過去を知っているから話やすいし、相談してみようか、とチラリと考える。しかしどう説明していいものか、自分でも分からないものの正体を説明しようとしても結局伝えきれずに、なにを馬鹿なこと言っているんだと笑われるだけなのではないか、と考えると結局話す気にはなれないのだった。
 一度会っただけの、名前も知らない相手のことが気になって仕方ないなんて。
 答えないまま考え込むように歩く宝来に、原因はここにあると思っているのか、高槻は少し声音を落として聞いてきた。もともとこの質問がしたかったのかもしれない。
「宝来はさ、部活、どうすんの? やっぱ陸上?」
「いや。高校はもっと、楽なのがいいな。高槻は何か考えてるのか?」
 なるべく気にしていないように、また気にされないようにと、さらっと答えたつもりだったけれど、高槻はその一瞬、苦い顔をして口を開いたまま黙った。何故辞めるんだ、折角ここまで続けてきたのにと、軽く話しても誰もが慌てて諭すように言うのだ。そうした言葉は宝来にとって苦しい責め苦だった。しかし高槻は一息吐くと、悟ったような笑みを見せて頷くのだった。
「……、俺は、勿体無いとか言わないからな。お前、ちょっと苦しそうだったし。うん。俺もそれ賛成! 楽なの、楽なの。いいのあると、いいな」
「ああ」
 少し安堵した気持ちで軽く伸びをする。見上げれば空が気持ちよく晴れていることに、宝来はこのときやっとで気付いた。入学式くらいこの気持ちで乗り切ろう、そう思えた。
「ん、そろそろ急がないとヤバイかも、じゃない? まあもう門だけど。どこに集まるんだったかなあ」
 宝来は腕時計をしていないので、覗き込んでいる高槻の腕時計を横から確認する。確かにもう集合予定時間まであまり間が無かった。背負っていた鞄から入校案内の紙を取り出しながら、足早に入っていく生徒たちにまじって高槻と一緒に大きく開かれた校門を潜ろうとすると、目立つ腕章をした生徒が数人、じっとこちらを見てるのに気付いた。あまり気持ちのいい視線ではない。再発しそうな憂鬱にため息を吐きながらも、それでも宝来は門を潜ろうとしたのだ。
「新入生のみなさんは、この先、左手にある模造紙で自分のクラスを確認してください。地図もそこにあります」
「……そこの君、新入生?」
 腕章をつけた中のひとり、女性にしては長身のまっすぐな黒髪を後ろでひとつに束ねた生徒がにこやかな笑顔で宝来を呼び止める。にこやかではあるけれど、また随分と挑戦的な瞳だった。同じく腕章をつけながらも隣でひっそりと立つ男子生徒の方は、眼鏡の奥にある瞳はどんな色を浮かべているのか分からないけれど、その眉間には穏やかならぬ皺を寄せていた。ふわりと視線を流して周囲を確認してから、ゆっくりと宝来は頷いて答える。
「はい」
「校則読んで来なかったの? その、髪」
 自由な校風が売りではなかったのか。あまりに定番で予想どおりの注意にうんざりしながら、宝来は穏やかに微笑んで答えた。
「髪ですか。もともと色素薄いんです。すみません」
 帰りたいなあ、と思う。空はあんなに晴れて清々しいのに、どうしてこんな窮屈な門の中へ閉じこめられる為に入っていかなければならないのだろう。自分の足でそれを選ぶなんて、間違っているのではないか、という思いが急激に強く湧いてくる。
「今日はまあ、仕方ないから、明日から気をつけてくるように」
 何が「仕方ない」のか、明日から何を「気をつけて」来いというのか、いつもなら心中で疑問を浮かべるのだけれど、耳に届く言葉は今の宝来の脳にまで届いていなかった。
 唐突に、宝来の脳は周囲の雑多な情報を捨て去ったのだ。
 ひとつきりを選ぶ為に。
「……え?」
 ため息を吐きながら空を見上げようとした視線の中に、校門よりもさらに坂を上った先に、そこに佇む人物に、宝来のすべての感覚は集中する。遠くて確かに見分けられるわけではない。そもそも一度しか見たことの無い相手を一瞬で遠目から認識できるはずなんてない、のだけれど。まさかここで、という思いが空回りながら渦を巻く。
「宝来?」
「悪い、先、行ってて」
 辛うじて高槻にそう言葉を残し、宝来は走り出した。穏やかとはいえない坂道を均すやわらかな感触のアスファルトを蹴り、坂の上から吹き降ろす風に抵抗するように。目は周囲の景色など一切捉えず、ただ目的とする人物一点に据えている。全力で走るのはとても久しぶりだった。何もかも捨て去って自分の体が軽くなる気持ち良さと忘れられない爽快感は、同時にそこに対する未練をも生み出し、僅かに宝来の胸の奥に苦みを生み出すけれど、今はそれどころではないのだった。春休みの間に出合った瞳に、連絡先どころか名前ひとつわからないまま別れてしまってもう二度と会えないかもしれないと途方に暮れていたその瞳の持ち主を、見つけた気がしたのだ。



「あの!」
 駆け寄る勢いそのままの大きな声を出すと、道路わきの森にある木のひとつに背を預け、足元の草花を見るようにじっと俯いていた頭がパッと振り向く。その瞬間、宝来は僅かに躊躇った。暫く運動していないとはいえ、このくらいでは息は乱れないのだけれど、あえて呼吸を整えつつ相手を観察する。振り向いた顔を見た一瞬に間違えたのかと思ったのは、その表情が予想外なまでに揺れ、不安定だった所為だ。宝来の心に焼きついて離れないあの暗さを抱えた鋭い色はどこに見えない。ぼんやりと力の無い瞳は宝来が見えているのかすら危ういと思う。しかし、ぼんやりと見上げているだけのその表情に、宝来は怖れを抱くのだった。或いはこれは強い不安感なのか。枝の間からふわりと出てきた黒に鮮やかに映える水色の模様が入った美しい蝶がそのすぐ目の前をふわふわ漂うのも、まるで目に入っていない様子だった。そう思うと宝来はそれを我慢できず、手で蝶を叩き落していた。本当にあたるとは思わなかった手のひらが蝶を捕らえ、羽を崩された蝶は地面に落ちる。死に向かいながら地面でひくひくと動こうとする蝶を見て、そうしてしまったのは怖れを抱く自分に対する苛立ちか、と分析し、宝来は自嘲して、手の甲を汚した鱗粉を服でぐいと拭った。
 しかし気圧されながらも、木陰に入って木に寄りかかっているのは具合が悪くて休んでいるのかもしれないと思うと放っておけるはずもなかった。森の影に入っている所為だけではない、その顔は確かに蒼褪めている。
「ちょ、大丈夫? 具合、悪そうだけど……」
 声を掛け、その蒼白い顔に指先を伸ばす。木の葉の作り出す影の隙間から差し込む光が当たる部分の肌もはやり白い。普段からあまり日に当たっていないのだろうか。ちらりとそんなことを考えていた宝来の指先は、相手に触れる前に跳ね除けられる。はっと気付くともう目の前にある瞳は強さを取り戻し、表情も硬く結ばれていた。
 間違いない。木々の齎す陰の中に入っている所為だけでない、切れ長の瞳はどこか暗く鋭い光を帯びて、通学中にもかかわらず、ここが安全圏ではないと警戒するように宝来を射抜くのだった。
 後悔を抱えたまま、ずっと捜していた瞳だ。
 生きていた。
 また、出会うことができた。
「何ですか?」
 ほんの数秒その瞳で宝来を観察したあとに発せられた言葉は、意外にも丁寧でやわらかなものだった。先に宝来が掛けた言葉はどうやら聞いていなかったらしい。近くで向かい合ってみると宝来より頭半分ほど低い位置に瞳がある。何もかもが新鮮で幸せだ、と時と場合も忘れて宝来は微笑んだ。
「……あの、俺、宝来って言います。名前、教えてください」
 何か他に掛けるべき言葉があるはずだという自覚はあった。それでも以前会ったときにそれを確認しなかったことを、ずっと後悔していたのだ。他に浮かぶ言葉なんて無かった。しかし「以前に会った」と認識しているのは宝来だけなのだ。相手としてはいきなり見知らぬ他人から声を掛けられ、名前を聞かれても、怪しい人間としか思われないだろう。
 案の定、性急な問いに返答は無い。無言で宝来を見つめる瞳には、再び警戒心まで湧いてくるようだった。
「怪しい者じゃなくてですね。この間……」
 何とか誤解を解こうと慎重に言葉を選んでみるけれど、そうして言葉を募らせるだけ不審な挙動は増すばかりのような気がしてきた。
「あ、君、新入生、……か。じゃあ、もう教室へ入らないと。時間が無いよ」
 考えながら話していると、ふと言葉を遮られる。どうして新入生だと分かったのか、と疑問を挟む暇もなく、その人は宝来の腕を掴んで走り出した。そんな風に引っ張っては走りにくいのに、と思うけれど、掴まれ引かれるその手が嬉しくて、宝来はされるがままになることにした。
 同じ高校なのだ、と唐突に宝来は気付く。ここは学校のすぐ傍なのだし、着込んでいる学生服を見ても明らかだ。気付くのが遅すぎるくらいだった。
「宝来ー!」
 流石に時間が過ぎたのか、もう殆ど入っていく者のなくなった校門を踏み越えると、校舎の入り口の前で不安そうにしていた高槻が泣き出すような安堵するような不思議な表情を浮かべながら走り寄ってくる。こちらに来なくても、今からそちらへ向かうのに、と思って声を掛けようとしたけれど、ここまで引いてくれた手は、それを見てすっと離れてしまったのに気付いて、ひとまず高槻のことはおいておくことにした。
「あの、名前を……」
「時間ないぞ、ほら」
 鋭く厳しい目で睨みながら校舎の中央に据えられた時計を指で示し、その人は背を向ける。校門から入ってまっすぐ校舎の入り口まで続く街路樹のある小道ではなく、その右手、爽やかな若緑色の芝生や木々の中をとおり抜け、校舎を回りこむようにして走って行ってしまった。同じ高校の生徒だと思ったのは間違いではないだろうけれど、今この時間に校舎に入らずどこへ行こうというのか。結局聞き出せなかった名前のこともあるけれど、とにかくその人の何もかもが気になって、無理に追う必要は無いのだと自分に言い聞かせないと、今にも走り出してその小さな背中を追いかけてしまいそうだった。
「何、やってんだよ、宝来」
 待ちきれずに迎えに来た高槻は、少し怒った様子で急かす。入学早々遅刻したくないのだろう。付き合う必要なんて無いのに、待っていてくれたのを申し訳なく思った。
「……高槻、先、行かなかったのか。悪い」
「クラス、同じ! 早く!」
 とりあえずは入学式だ。式が終わったらさっそく校内を捜し歩いてみよう。そう思うといても立ってもいられないのだけれど、逸る気持ちを抱えながらじっと我慢するのですら楽しいと思えた。



 天候の話なんてどうでもいい。自由とは何かの話も延々とされればそれこそ自由とは言えないのではないかと疑問を挟みたくもなる。それだけでもため息を吐きたくなるのに、何の原稿を読んでいるのか、というような型どおりの校長の話は長かった。宝来はそれを半分聞いては心の中で反論し、半分はさらりと聞き流しながら、入学式の最中ずっと、この体育館のどこかに先ほどの人が見えないものかと辺りを見回していた。少なくとも同じクラスではない。同じ学年でもないのかもしれなかった。
「っていうかさ、宝来、朝のアレ、どうしたん? お前があんな焦ってたの、凄い珍しいじゃん」
「……そうか?」
 長い話と共に式が終わり教室に戻ってからも続いた担任の話しからも解放されると、すぐにでも捜しに行こうと思っていたけれど、先に高槻に捕まった。入学式早々に遅刻をすると焦っていたのは高槻の方なのに、案外人のことも見ているのだ。侮れないな、と思いつつ宝来は肯定も否定もせずに曖昧に首を傾げて見せた。しかしあのときの宝来の様子が相当おかしかったのか、高槻はそれだけでは納得しないようだった。
「一緒に居た、あれ、誰?」
 見ていたのだ。そしておそらく、宝来の様子がおかしいのはあの人の所為だと思っている。
 それは、間違いではない。
 ずっとあの人のことが心に蟠っていたのだから。
 宝来は微笑んだ。
 今朝見上げた空と同じに、見るものの心を晴らすほどに晴れやかに。
「誰、……か。それ、俺が聞きたいんだ。だから、これから捜してくる」
 不思議そうな顔をする高槻の肩を安心させるように軽く叩き、宝来は立ち上がった。相手はこの学校の敷地内のどこかに必ず居るのだ。捜し出せる。今までこの世界のどこに居るのか分からず、生きているのかさえ分からずに、捜し出せる自信が無かった状態に比べれば、ものすごい進歩なのだ。
「揉め事は勘弁な」
 歩き出そうとした宝来の背に、ぽつりと高槻の声が届く。真剣なその響きを無視できず、宝来は振り返って聞き返した。
「は?」
「いや、なんかさ、お前、人の悪い笑い方してるから……」
「しねえよ。馬鹿だな。仲良くお話したいだけだって」
 口にした時点でその言葉は宝来の真実だったけれど、声になったあと、高槻の心配も分からなくはないな、と思い直した。会って話をしたいのは本当だけれど、それだけで満足なのだろうか。あの鋭い視線、今にも自らの重みに耐え切れずに崩れ落ちるのではないかと不安になるほどの内面の繊細さをあらわす表情を、最初に見たときはただどうにかして助けたくて、でも声を掛けて話を聞くことすらできなかった後悔だけが宝来のすべてだったのだ。それは間違いない。しかし今は何故か、崩れ落ちる前にこの手で崩してみたいと、宝来はこのとき、はっきりとそう思ったのだ。
 この手で崩したい?
 宝来はふと自分の手の甲を見つめる。今朝この手で優雅に舞っていた蝶の羽を崩して殺したことを思い出していた。その瞬間まで健やかに生きていたのに、宝来の気紛れのような感情で、ほんとうにやわらかい感触を感じただけで、一瞬にして崩れ落ちていった。あまりにもあっけなくて、簡単すぎた。その時の感触と怖れのような気持ちは今思い出しても整理のつかないまま。
「仲良くしたい、だけなんだ……」
「宝来?」
 敷地内のどこかに居るから必ず捜し出せる。
 まるで獲物を追い詰める捕食者の心情だと、その表情を高槻に見せないよう背を向けたまま手を振り、宝来は教室を後にした。




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2007/9/9 雲依とおこ




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