不可視の匣

Chapter 1 ; 冷たい春





 まだひと気も少ない早朝はどことなく流れている空気が他のどの時間帯とも違うような気がする。冷たくて、湿っぽくて、そして気持ちいい。学校へ続く通い慣れた坂道を歩く相馬はその空気を吸い込むことで立ち止まり蹲りたくなりそうな気持ちの悪さを切り替え、この坂道に聳えるものをまっすぐな瞳で眺めるのだった。眼前はまだ、石垣が埋め尽くしている。あまりにその石垣が高く積まれているので、上にある何もかもは石垣の下からも横からも見えないけれど、そこにあるものは容易に思い描けるのだった。坂道の横に立つ学校はそうして石垣で足場を作っているので、坂の下の方では高く積まれているのが徐々に低くなり、校門のところではついになくなっている。それよりも坂を上れば学校の方が低くなっているのだ。山とも森ともつかないものを背に、高みから町を見下ろしている学校は、その敷地のすべてを高い金網で覆い、校門には常時警備員を配置していた。
 まるで要塞だ、といつも思う。
 外部からのどんな力も撥ね退け、生徒でも教師でもなく、また、それらすべてでもある「学校」という存在は、そこでそうして自立しているのだった。自治と言えば聞こえはいいけれど、とても排他的だ。自由に付属する責任だって割合重いものだけれど、それがあってもなお、自由はとても魅力的なものに思えた。
 周囲からの雑多な圧力をすべて跳ね除けるには、まだ自分には足りないものが多すぎる。だから相馬はそこでそうしたものから守られる為にこそ、自主的にここを守るのだと思っている。あるいは自分が息をしやすいような場所をそっと提供してくれる親友の負担を、ほんの少しでも肩代わりできればと思って。
 それに、ここにいるのもあと一年。
 高校を卒業したら家もこの町も出て行く。
 そうしたらもう、どこにも帰属しない。
 完全な自由を獲得するのだ。



「相馬先輩、おはようございます! わあ、早いですね。凄いなあ」
 もう少しで校門、というところで華やかな声が飛んできた。声の主は門の内側に立ちながら頭だけを出してこちらを見ている。いつものように後ろにひとつに纏められている長い黒髪が、しなるように揺れていた。
「おはようございます。……佐伯も早いね」
「私は今日はほら、これがあるからですよ。がんばります! がんばって、厳しく!」
 素早く視線で周囲を見回して他の目が無いことをしっかりと確認してから門から足を踏み出した佐伯は、にこにこと楽しそうに笑いながら相馬に向かって腕の腕章を示した。今回の役回りを考えて、あまり楽しそうにしている姿を他に見せないよう気をつけているのだ。思うがままに行動しているようで存外に抜け目の無い佐伯を見ていると、自分よりもずっと広い視界で生きているようだ、と少し尊敬する。
「俺は……、そんなのどうでもいいけど」
「覚えてますよー。なんていうか、相馬先輩の反対が一番堪えましたもの。もう、ぐさっと。ふふ。黒崎先輩と意見が合わないのって、あんまり見ないから面白かったです」
 何事も最初が肝心。入学式当日に校門で厳しく新入生を指導して、脅かしてみようと面白さが半分以上のような提案をしたのはこの佐伯だった。遊び半分のわりに面倒臭いからと反対したのが二人、そしてあとは相馬が曖昧に反対しただけで、残りはすべて佐伯の勢いにつられるように賛成し、盛り上がっていた。ただ、黒崎の賛成は理由が違う。だから最終的には相馬も納得したのだ。
「……面白くないよ」
 それにしてもその話題を論じた役員会議において自分が反対した理由を語った記憶が相馬には無い。自主性と自由を謳う校風とそぐわない、と言い出すのは躊躇われたのだ。そして黒崎は相馬のその心の迷いを的確に見抜き、自由を得るためにはそれなりの責任があることを理解したうえでないと意味が無いと囁いたのだ。見抜いたのは黒崎だけでなく佐伯もだったのか、或いはその黒崎の言葉からの推測なのか。どちらにしても勘が良い。
「まだ誰も来ないからいいんですけど、津森君、来ないんですよね。……相馬先輩、ご一緒にいかがですか?」
 真っ先に佐伯の意見に賛同し、厳しく取り締まると言い切った津森はまだ来ていないのだ。ため息をつく間も無く相馬は即答する。
「嫌だね」
「……ですよねえ。いや、分かってましたけど。うん。それに相馬先輩がこんなところで立ってたらいろいろ煩くて大変かもですし、たぶん迷惑をこうむるのは傍にいる私、みたいになるから、やっぱりいいです。私のことは置いといて、どうぞ」
 お言葉に甘えて、とその脇を抜けて校門から入っていこうとしたけれど、ふとその言葉に引っかかるものを感じて佐伯を睨むように見つめる。
「……佐伯は、俺が居ると、迷惑?」
「じゃなくてですね。ああもう、そういう可愛いところが良いっていうか駄目っていうか私的には大喜びなんですけど。先輩がそんな可愛い様子で立ってたら、少なくとも女の子たちは「厳しく脅す」って効果なんて期待できないと思うんです。だって相馬先輩、普段からその厳しい顔なのに、なんていうか、ほらほら、ね。黒崎先輩が傍にいなかったら、私、絶望的に美味しいポジションだから恨まれるような……、まあ、返り討ちにしてやる自信はありますけど」
 返り討ち、返り討ちと繰り返す佐伯の瞳は好戦的に輝いている。とても楽しそうな様子だった。口早に告げられた言葉には突っ込みどころが多すぎて、相馬はすっかりと突っ込む気概を削がれるのだった。厳しい表情はもともとだけれど、それについて思うところのある佐伯の意見はどんなものなのか、また聞いてみたいものだと少しだけ思った。
「…………じゃあ、後で」
「はーい」
 そうして後は足を一歩踏み出し校門を潜るだけだったのだけれど、ふと横を過ぎる影に意識が集まる。軽やかな小鳥の囀る早朝に、背広の男性がひとりでこの坂を上っていた。どうして気になったのか自分でも分からず、相馬はそちらを見遣る。
「ありゃりゃ、すごい荷物ですね」
 同じように気になったのか、佐伯もぽつりとそう呟いた。確かにその人は大きな荷物を抱えていた。動きがおかしい。すぐにでも荷物が崩れて動けなくなりそうな様子だった。時計を確認するともう早い生徒は来てもおかしくない時間帯。このまま校門の脇で荷物を撒かれても迷惑だな、と考えて、迷った末に早く来すぎた自覚のある相馬はその時間を使って少しボランティアをすることに決めた。
「ちょっと手伝ってくる」
「了解しました。あ、先輩。カバン預かりますよ」
「頼んだ。黒崎が来たら、これ、預けといてくれたらいいから」
 状況を見て話しながら、頭の隅でこれは遅くなるかもしれないと判断した。この付近には学校の他には建物も少なく、駅はずっと遠い。あの大きな荷物を持つのを手伝うのだとしたら、目的地はかなりの距離があるのかもしれなかった。
「大丈夫ですか?」
 声を掛けるとよたよたしていた足が止まる。腕いっぱいに抱えていた荷物を降ろすことで、やっとで荷物に隠れていたその人の男性の顔が見えた。朝から汗をいっぱい浮かべた角ばった顔は、四十台くらいかなと思われた。
「ああ、すみません。ちょっと、予想以上に重くって」
「手伝います」
 アスファルトに置かれたダンボールのひとつを持ち上げてみると、確かにとても重かった。こんなものを三つも抱えて、いったいどこまで行くというのだろう。遠いなら足ではなく車など他の手段を使うべきだろう。これは早く目的地まで着かないと腕がやられるな、と思うけれど、上る坂道はきつく、傍から見ればのんびりと思われるくらいにしか歩けなかった。
「学生さん、ですよね。まだ学校には早い時間なのに、感心ですね」
 ひとつ荷物を預けることで余裕が出来たのか、その男性は相馬よりも荷物をたくさん持ちながらも、先ほどとは違って余裕の足取りで行き先を導くようにして半歩先を歩いている。話しかける顔もとてもにこやかだ。そっと窺うと重い荷物を抱えるその上腕の筋肉は服の布地の上からでも分かるほどに盛り上がっている。相当腕力に自信があるだろうと思われた。
「今日は入学式なので、何があっても良いように待機していようと思って……」
「ああ、ますます感心なことです。それに、困ってる年寄りに手を差し伸べるなんて、なかなか出来ないものです。いやいや、今日は素敵な日だなあ」
 押し付ける響きなんて微塵も無く、のんびりとした歩調はおそらく相馬のペースにあわせるためなのだろう。重い荷物と上り坂、ということを考えると不思議なほど歩きやすく感じるのだ。子供相手にも丁寧でやわらかい物腰だな、とあまりそうした大人と話したことの無かった相馬は黙って他愛の無い話しを続けるその男性のやさしい声を聞き続けていた。



 歩き始めてそう長い距離は歩いていない。山を巻くようにぐるりと緩く曲がる坂道を上り、学校が背後に見えなくなった辺りで前を行く足が不意に道を逸れ、学校を過ぎてから左手にずっと続いていた森の中へ向かおうとする。
「あの……」
「どうしました?」
 歩いてきた道はずっと上りながら左に曲がっていた。学校があるのも上る坂道の左手。その道を今ここで左手に曲がったら、学校へ戻る方向なのではないか。それにこの森はあの要塞のような学校の裏手を守るように、まるで人の立ち入られるものではない、木々だけでなく蔦や草が絡む手付かずの森なのだ。そこに何か建物などあっただろうか、と疑問に思ったけれど、そうした不審そうな表情を受けても全く動じないで、気遣うように振り向いた男性の顔は、それで当たり前なのだと思わせるものがあった。
「この森って、学校の敷地じゃなかったんですか」
「ああ、もう少し下の辺りは確かにそうだね。こっち側は違うんだよ。そこにある古い物件を買い取ってね、事務所用に立て直したんだ。車が入れる道路もまだ無いし、従業員が少ない会社でね、引越しも大変だよ」
 坂道から森に入ると、そこは想像していたように木々や草が主体で人が入るのをを拒絶するような場所だったけれど、確かに一本だけ、まるで奥へと人を導くようにぽかりと開けた細い小道が続いていた。まるで何か童話の中に入ったみたいに不思議な既視感だな、と思った自分の考えの唐突さにふと笑いながら前を行く男性のあとについて行く。冬を越してきた森には春の若々しい匂いと、常緑樹の濃い匂いが充満している。小道の両脇から伸びている枝や蔦を見ていると、眠りから覚めた蛇でも出てきそうな気配があった。
「あ、あれですよ。もうすぐです。もう、とっても、助かりました。ありがとうございます」
「良いですよ。まだ学校には早い時間だったので」
 心配したほど森の奥深くではなかった。ずっと一本で脇道ひとつなかった小道の先、森の木々のただ中にぽつんと白く四角い箱が置かれたようにして小さな建物が見える。漸く到着した安堵と、まだ余裕で学校に間に合うだけの時間の場所に目的地があったことの安堵に軽く微笑んで答えると、その男性は更に進み、懐から取り出した鍵でその白い建物の玄関を広く開け放った。
「さすがに暑かったでしょう。お礼にお茶いれますから、どうぞ。……まだ学校には早いから、大丈夫ですよ、ねえ」
「え、あの……」
 さすがにそこまでは、と思ったけれど、男性は抱えなおした荷物を持ったままとっとと中へ入っていってしまった。靴は履いたままで良いらしい。どこへ荷物を置いたら良いのかも分からないので仕方ないと相馬は後へ続くことにした。白く清潔に保たれた建物の中は玄関から通路など、あちこちに色とりどりの花が飾られ甘やかな香りに満ちてる。どこも白く綺麗だったけれど、とても事務所のような場所には見えなかった。思い返せば玄関にも会社名らしき表示は何ひとつ無かった気がする。
 それにここは何か、別の場所を思い出させる。どこだっただろうと記憶を引っ張り出そうとすると、ゆっくり脈打つように頭が痛み出していることに気付いた。囲まれている甘い花の香りがきつすぎる所為だろうか。森の空気の中にいる所為だろうか。どちらにしてもそう気になるほどの強い痛みではないので大丈夫だろう。
「すみません、ここ、まだコーヒーしかなくて」
「いえ、ありがとうございます」
 落ち着いた男性の声音を聞きコーヒーの独特の香りを嗅ぐと癒されたように頭の痛みは消えていく。もう黒崎は登校しただろうか。少し遅くなるのだから黒崎に連絡を入れておこうと思ったけれど、そう思ったところで手には何も持っていないのだった。
 しまった、と少し思う。携帯電話は鞄の中で、それは今、連絡を取りたい相手である黒崎の手にあるはずだった。
 どうしようもない。
 本当にどうしようも、ないのか。
 いつも自覚を促す黒崎の指摘を甘く見ていた結果ではあった。



 どこからか薫る、甘い、甘い香り。
 黒と白の交わる色。
 心地良い声。
 視界が白い。
 眩しい。
 ここはどこだろう。
 自分はどうしていたのだったか。
 ゆるりとそうした疑問が沸き起こったけれど、頭がぼうっとして考えが上手く纏まらず、今の状況が何ひとつ分からない。
 でも道は分かるからきっと大丈夫、と相馬はそんな状況でも何故か焦らず落ち着いていた。
 それにしても酷く眩しい。
 しかしそう、その眩しい場所が道なのだ。



「あの!」
 切羽詰ったような大きな声が心臓に届く。顔を上げてみると、坂下から走ってくる人影があった。知らない顔だった。まっすぐにこちらを目指して走っている様は朝の光を受けてきらきらと輝いているようで、暗い木陰で佇む自分とは全く無縁のものだ、と思って相馬はぼんやり走り寄るそれを見ていた。そして、自分が何故ここでこうして木陰に佇んでいたのか、その理由を思い出せないことが急に気になってきた。ゆっくりとそれを思い出そうとする。
 白い建物。
 無人のそこで向かい合って話す男性。
 眠気を誘うほど心地良いその声。
 温かいコーヒー。
 黒い液体にくるくる回る白い液体。
 そして、そう、甘い香り。
 何か話をした記憶がかすかにあるけれど、一体なにを話したのだろう。そのあとから今の間に、何をしていただろう。気付けば道をひとりで歩いていたのだ。
 ぐら、と膝が揺らぐ気がしたけれど、視界はまっすぐのまま。
「ちょ、大丈夫? 具合、悪そうだけど……」
 ぞくりとした。
 気付けば触れそうなほどに近づいていた指に、捕らえられる気がしたのだ。咄嗟にそれを払って回避した相馬は、改めて目の前でこちらを心配そうに見つめている相手を見遣る。危険は無い、と思うのだけれど、どうにもつい先ほどまでの記憶があやふやなので警戒してしまう。
 何がどう繋がっているのか分からないのだから油断してはいけない。
 これは誰だ。
 どうしてここにいるのだろう。
「何ですか?」
 見たことは無い相手ではあるけれど、制服を見ると同じ高校の生徒なので相手はこちらを知っているのかもしれない。大柄な身体に柔和な表情。その中で微笑む目はしかし、今の相馬の感情を逆撫でするに足るものだった。
「……あの、俺、宝来って言います。名前、教えてください」
 名前、を、聞かれた。そのことが思い出せない相馬の記憶をふるわせる。そうだ、先ほどもそれを聞かれたのだ、とその部分だけ思い出す。ふるえる記憶に連鎖するように他の記憶も思い出せそうなのだけれど、不鮮明で朧な、およそ意味の取れない映像しか分からない。自分はあの時、その質問に答えただろうか。答えずにいただろうか。
 どうして今、この生徒に同じ質問を受けているのか、と改めて考える。名前を聞かれるということは、相手はこちらを知っているのかもしれないと思ったのは間違いだったのだ。だとしたらどうして声を掛けてきたのだろう。とても明確な危険信号が脳内で激しく訴えているようだった。危険はあるのかもしれない。迂闊に動けない。
「怪しい者じゃなくてですね。この間……」
 何を言われようとここは答えずにいた方が賢明だろうと判断した相馬は、慌てたように弁明する相手の手に握られている紙に気付く。見たことのある紙というよりも、作成時から自分が関わっていたものなのだ。そのことが相馬に現実を取り戻させ、今日が入学式であること、今の時刻から校内へ入り教室へ向かうまでの時間を想像させた。
「あ、君、新入生、……か。じゃあ、もう教室へ入らないと。時間が無いよ」
 完全に自分のやるべきことを思い出せた相馬は、迷っている新入生を無事に入学式に間に合わせるためにと手を引っ張って走り出すことにした。



「覚えてない? お前が? それって何だか、変じゃないか?」
 慌しく駆け回りながらも無事に入学式も終わり、がらんとなった体育館で他の執行部や実行委員たちと後片付けしながら、相馬はやっとで黒崎と話をする時間が持てた。そもそも早めに来ながら鞄だけを預け、予定より遅れて入学式ギリギリの時刻に合流した相馬にきっと何かあったに違いないと、黒崎は朝からずっと気にしていたのだろう。問い質すような視線はずっと感じていた。しかし互いに互いのやるべきことを果たす為に忙しかったのだし、相馬はこうして普段どおりの慌しさの中に戻ることで既に安堵してしまっていたのだ。だからこうして話をする時間が出来て何があったのかと問われても、今朝の出来事はどこか遠い出来事だったように思えて曖昧にしか答えられないのだった。
「確かに変だけど。まあ、もういいだろ」
「馬鹿。お前がいつもそうだから、……心配すんだろ」
 厄介ごとを引き起こしたり厄介ごとに巻き込まれていきやすいから気をつけろ、と黒崎はいつもそう言うのだけれど、相馬自身は好んで巻き込まれているつもりも引き起こしているつもりも無いのだ。厄介ごとは、いつも勝手にやってきて、勝手に相馬を巻き込んでいく。しかしそうやってあきれたように言いながらも心配してくれる黒崎の優しさには、返す言葉を思いつけないのだった。
「まあいい、覚えていること、全部話せ」
 腕を組んで敵と相対するようにそう言う黒崎は、既に後片付けを手伝う様子は微塵も無い。どうしようか、と考えたけれど、他の面子を見ると周囲はこうなることを予測し了解していたのか、二人は勝手に話をしていて構わない、というように極上の笑顔で手を振るので、今日は言葉に甘えさせてもらうことにした。
 話はそう長くは無い。覚えていることが少ない所為だ。荷物が重そうだったから手伝って、届けたお礼にコーヒーをご馳走になって、帰る途中で何故か具合が悪くなって休んでいたら新入生に呼び止められた、だけ。しかし相馬は出来るだけ丁寧に思い出せることをすべて語ったので、結構時間は掛かったようだった。後片付けの終わった体育館は既に端でこっそりと話すふたりだけ。
「分かった。ちょっと個人で調べてみるから、お前も思い出したことがあったら話せよ。ひとまず今できることっていったら、その、直後に会ったうちの一年だな。その前の出来事と繋がりがあるのか無いのかは分からないけど、とにかく調べてみよう」
 そう言って立ちあがった黒崎はにやりと人の悪い笑みを浮かべる。それを調べるのは簡単なことだった。黒崎は今期、生徒会長なのだから、生徒のデータはある程度閲覧可能なのだった。そしてそれを補佐する相馬にしても同じ。個人的な理由でそれをするのには少し抵抗があるけれど、生徒会室へ向かう黒崎の足取りに迷いは無い。
 生徒会室に生徒会長と副会長が鍵を掛けて篭っていても誰にも何も言われない。そうして室内で今日入学したばかりの新入生のデータをひとつひとつ確認していくと、幸運にも大量にあるデータの早い段階で今朝見た顔を見つけることができた。
「あ、こいつ!」
「宝来明良。こいつで間違いないのか。……家は遠いな。中学時代は陸上部か。県大会優勝、全国大会出場経験あり。入試の成績もいいな。運動神経にも学力にも恵まれて……、何だ? こいつが一体、お前にどう繋がるっていうんだ?」
 データを見ても何も分からない。じっと写真を見つめても何も思い出せない。
「分からない、けど、……やっぱり関係なかったのかも。単に遅れて来て、俺が具合悪そうだから声かけただけだったのかな」
 話しかけられたタイミングが悪かったのだ。もっと別の、例えば放課後普通に話しかけてくるのだったら何の警戒心も抱かずに話をしたのに。
 いずれにしても本当に用があるのならまた話しかけてくるだろう。
「とにかく、お前は今日はもう考えなくていい。疲れただろ。帰ろうぜ」
「ああ、黒崎も、お疲れさま」
 窓の外から覗くグラウンドも、その向こうに一望できる町の何もかもも、すべてが既に夕暮れの色合に染まっていた。
 しかし長い一日はまだ終わっていない。
 帰ろうとする同じ時刻に自分を捜し回っている者がいることを、相馬はまだ知らないまま。




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エムネムさんへ捧げます

2007/9/9 雲依とおこ




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