沈黙の色





 何もかもが暑く、耐え難いものを耐える試練を与えられているようだった。暑さは薄いカーテンでは閉ざせない窓から入ってくるのか、隙間だらけの板と板の間から入ってくるのか、あるいはそうした外部からのものではなく自分自身の体から湧き出ているものなのか。たとえ真向かいに座る友人と会話しているだけのささやかな音が筒抜けになってしまうような薄い床と壁であっても、やせ細った板の隙間から夏には熱風、冬には白い粉雪が舞い込んで来ようとも、嘉藤はその学生寮を愛していた。もしかして壁板にあいた目のようになっているあの穴を観察すると、向こうから目を押し付けてじいっとこちらを眺めている誰かがいるのではないかという想像力まで働かせると少々不気味ではあったけれど、隙間だらけになってしまうほど痩せた板はそれほどの年月を思わせ、磨耗した床板は触れると何故だか優しさを感じるほどに心地良かったのだ。聞かれたくないなら余計なことを喋らなければ良いだけだし、夏は扇風機が一台あれば十分だし冬はとにかく着込めば問題などない。
「それにしても暑いな。何とかならないのかよ」
 問題があるとすればたまに正貴がやってきて、そのたびにいちいち暑い寒いと文句を言い出すことだった。勝手に来てそのまま座り込んだのは正貴の方なのに、すべての悪いことの元凶はこの部屋の主であるというように睨まれても困る。嫌なら帰れば良いのに、と心の中だけで思い嘉藤は返事もせずに窓の外の青空を眺めた。分厚く真っ白な入道雲が青い空にくっきりとよく映えている。今日も格別の暑さだった。
「そういえばお前、そろそろ夏休みなんだよな」
「うん、そうだけど、何?」
 わざわざ確かめるまでも無いようなことを聞いてくる相手に嫌な予感がして、嘉藤は少し身を引いた。ここ数年で正貴からいろいろ依頼を回してもらっているけれど、こんな風に切り出されたことなんて本当に最初の頃だけだったように思う。
 なんだろう。ぼんやりと考えたところで何がわかる訳でもないのだけれど、いつもはぞんざいな素振りで自身の持つ慎重さをひた隠しにしている正貴の、常に無い丁寧さ、静かな暗さを湛えた瞳の奥に見える切実な真剣な色が何によるものなのか気になるのだった。
 他でもない自分に対してだけは、正貴が丁寧である必要なんて微塵も無いはずなのだ。今までのようにもののついでのようにぞんざいに話を持ち込んでも嘉藤が最終的に断ることなんてしないと分かっているはずなのに。
 そうした嘉藤のぐるぐるとした思考は、ぴんと額を弾いた正貴の指によって遮られた。考えすぎだ、と緩んだ瞳が語っているようだった。
「俺の友人の手伝いをしてやって欲しい」
 ふ、と嘉藤は息を詰める。今まで依頼の出所を正貴が明かしたことなど無かったのだ。やはりこれは今まで受けたような依頼ではないのだろう。また、正貴の友人関係について、嘉藤は話を聞いたことが無い。
「……内容は?」
「この、お前の学校の写真部が主催するイベントに参加してくること、だ」
 やわらかく隙の無い動きでどこからとも無く取り出された四つ折りの紙片。迷うことなく受け取り広げた嘉藤はざっとその内容を確認する。自分が通う学校とはいえ、所属していない部のイベントと聞いても何も思い当たらなかったけれど、空の写真を使った全体的な印象は確かに見覚えのあるものだった。文面は全く記憶に無いので、おそらく校内に掲示されていたものを通りすがりに目にしただけなのだろう。
 それにしても友人の手伝いと言っても、正貴のこの何とも言いがたい様子。その友人が学校の関係者で、イベントでの雑用を言い付かるような類のものとは思えなかった。
「参加、するだけ?」
「いや。……最近、お前の通う学校の付近で女性ばかりを狙った連続殺人事件が起こっているだろう」
「うん」
「その事件の関係者で、ちょっと気になることがあるそうだ。そこで、誰か信用のおける人に写真部の中のひとりをマークしていて欲しい、ということだった。まさか俺がこの歳で学校関係のイベントに紛れ込むわけにも行かなくてな。……ちょうどお前が通う学校のことだったから、一応、聞いてみようと思って」
「え?」
 聞いてみよう、というのはおそらく嘉藤が受けるかどうか、返答をということなのだろう。
「これは今までの依頼とは違う。現在進行している、殺人事件の調査だ。危険なこともあるかもしれない。受けるならそれらの危機を回避するだけの自信と、そうする気持ちが必要なんだ。……それにこれは、俺にとって大切な友人の依頼だから、中途半端な気持ちなら受けて欲しくない」
 殺人事件の調査を、中途半端な気持ちではなく遂行しつつ、更には危険を回避すること。自分にそれが出来るだろうか、と考えたのは一瞬で、嘉藤はすぐにしっかりと頷く。
「やるよ」




 水の中に入れた氷がカランという小さな音と共に転がるように動いたのをきっかけに、ふと嘉藤はそれに気づく。暑い暑いと言いながら正貴の額に汗は浮かんでいないのだった。嘉藤はもう汗だくなのに。
「なあ、兄貴、……具合悪いんじゃないのか?」
「は?」
 或いは正貴は本当に暑くないのだろうか。ふとそんな気がして、急に嘉藤は心臓がドキドキし始めた。暑い寒いと言いながら、正貴自身は汗だくになったり震えたりというようにまったく動じた様子はなかったではないか。もしかして暑い寒いと言って来たのは、全部、嘉藤のことを思ってのことだったのか、今まで何年も誤解していたのだろうかと想像すると、とても居た堪れない気分だった。




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