沈黙の色




 広い空一面を埋め尽くす濃淡の様々な雲のために色合の沈んだ景色は、空も山も麓の田畑もそして家すらも全部が曖昧に渾然となりそれぞれの持つ個性を失い、まるで積極的にひとつのものになっているようだった。光が当たっているときのような、色とりどりに個々を主張しあう美しさはひそめられ、沈んだ落ち着きを見せて渾然一体となった景色になっているのが、どうにも嘉藤の胸にそれと似た、また違う過去の景色を思い起こさせる。夢に似て思い出せたと思ったら雰囲気のみを残して消えていくその記憶に、嘉藤は叫び出しそうな胸の痛みを吐き出す先をなくして、僅かに眉をひそめることでそっとその苦しみを逃した。
 それにしても左から右へ、ぼんやりしているとあっという間に流れて過ぎるそんな景色に目を向けながら揺れるシートをじっくり感じていると、旅をしているという実感が深く得られて心地良い。これから何が起こるだろうという楽しい時間へのたくさんの期待と、何故だか妙に切ないような気持ちが混在しているのではないか、とその実感の中身を想像してみる。きっとバスの中全体にそういった期待に満ちた皆のそわそわした気分とざわめきが広がっているのだろう。
 そうした胸の中の動きを一旦目を閉じることで平常に戻した嘉藤は、誰にも注意を与えないように動きを抑え、ゆっくりと顔を動かして車内全体を見回した。バスは小型の自家用で、前方入り口から見て左手側が二席、右手側が一席、一番奥が四人座れるベンチの形になっていて、補助席を使わなければ運転席を除いて二十二人、補助席をすべて使用すると二十八人は座れる仕様だ。嘉藤が座ったのは奥からひとつ手前の列、どうせ席が余るだろうからという写真部部長である岡田の言葉に甘えさせてもらうことにして、進行方向に対して右側の二席をひとりで使用させてもらっている。結局バスの中に乗り込んだのは嘉藤を含めて十数名。最初に確認しておこうかと思ったのに、自分のすぐ後に入ってきた一条に気を取られて見逃したのだった。




 不定期に揺れるバスの最前列、進行方向に背を向けるようにして通路に立った岡田が、おもむろに今回の旅の目的から細かな日程について説明をはじめようとしている。この企画旅行の申し込みをするときに一度話をしたことがあるけれど、初対面からとても親しく話しかけてくれる人だった。気がついたら逃げられない奥まで踏み込まれそうな予感がして、少し怖い、と感じた。
 今日もまた晴れやかな笑顔で皆を迎えてにこやかに挨拶をしていたのだけれど、車内ではそれぞれが浮かれたような気分で近くの相手と話が盛り上がっていて誰も話を聞こうとしていないのに気付いたのか、満面だった笑顔が徐々に消えていっている。いつ爆発するのだろうかと嘉藤は景色から視線をそちらに移した。
「貴史君、何にやにやしてるの?」
 ひょいと前の座席から頭だけを出して聞いてきたのは写真部の部員である高橋菜緒だ。彼女は嘉藤と同じく一年、そして幼馴染である。
「……いや、そろそろかなって」
 教えてあげようと思ったのは一瞬だけで、すぐにその時間はないと判断してため息混じりに呟くに留めた。立ち上がって座席に凭れるように振り向いている高橋の姿は、最前列から皆の様子を見回している岡田にはとても目立つ存在だろう。
「今は雑談をやめて俺の話を聞いて欲しかったんだけどなあ……。じゃあ、高橋に今回の企画の目的を説明してもらおうかな」
 後ろを向いてはいても、岡田の言葉はきちんと聞いていたのだろう。言葉を呑んだような微妙な表情をした高橋に、どうぞ、と嘉藤は小さく微笑んだ。試すような岡田の雰囲気に気付いたのか、次第に周囲の皆も雑談をやめて静かになっていく。無言のまま、意趣返しのつもりなのか軽く嘉藤の頭をぐしゃぐしゃにして乱した高橋はその場で勢い良く立ち上がり、岡田に向かって堂々と微笑みながら説明を始めた。
「それでは、今回の撮影合宿旅行の目的について説明します。部員の技術の向上はもとより、一般参加者のみなさんにはまず写真へ興味を持ってもらうこと、それにカメラの基本的な扱いを覚えてもらうことで、写真をもっと身近なものとして気軽に楽しめるようになってもらえたら良いな、ということと、あとはまあ、普通に民宿や綺麗な景色を楽しみながら普段接点の無い人と交流を図って楽しもう、というところかな」
 皆が注目する中での堂々とした答えは嘉藤が覚えている限りでもパンフレットに書かれていたそのままの言葉だったけれど、それに部員が目を通し、更にはその内容まで覚えていると岡田は思っていなかったのだろう。高橋が答え終わって着席した後に僅かな沈黙があった。しかしすぐにそれを良いことと思いなおしたのか、心の底からわだかまりのない笑顔に戻った。元来おおらかな性格なのかもしれない。
「……そつの無い回答ありがとう。じゃあ、交流を図るということで、まずは自己紹介だな。俺は写真部の現部長、三年の岡田だ。写真歴は十年を越える。朝日と水のある、風景を主題にすることが多い。今回の目的地であるS湖も、そうした俺の好みで選んでいるんだ。そんなこんなで、まあ、分からないことがあれば何でも聞いてくれ。あとは副部長、よろしく」
 それにしても、と岡田を見て思う。写真部というよりは運動部と言った方が納得できる体格をしている。もともとの体格もそうだけれど、ただ骨格が良いとか背が高いとかだけじゃなくて、きちんと鍛えられた者の身体をしているのだ。それとも写真部では体力強化も行っているのだろうか。
「副部長を務めさせていただいております、川原葉子と言います。写真はこの部に入ってからはじめたのでまだ二年と少しです。部長よりも初心者の気持ちが分かるので、些細なことなど気軽に話しかけてくださいね。題材についてはこだわり無く何でも撮ります。勿論風景も大好きです。また、今回の湖の周辺には田畑や珍しい木々、草花もあると思いますし、どうやら野鳥も多く飛来しているようですので、単に部長の嗜好にあわせたものというよりも、みなさんそれぞれが楽しんでいただける様々な題材が揃っていると思います。あと、部員の中にも人物を題材にするのが好きな者が居ますが、そうしたときは先ほど高橋さんに説明していただきました撮影合宿の目的にもありましたように、交流も兼ねてお話し合いをしていただきながら、相手の許可を取り、撮影を行ってください」
 淡々とした、とても落ち着いた声音で説明する声を聞きながら、こんなに丁寧な話し方をする人なのに座ったまま顔も見せないのは何だかちぐはぐだな、と思っていたけれど、気紛れなバスの揺れで体が傾いた瞬間にそれは嘉藤の勘違いだったと分かった。川原はきちんと立っていた。ただ、小柄なためにその頭の先が前の座席の背に埋もれて見えにくかっただけだったのだ。
「部員の中で若干名、このバスではなく後ほど別で到着する者もおりますので、スケジュールや部屋割り、食事担当などは全員揃ってから説明いたします。何か質問があればどうぞ」
 そう言葉を切り、車内を見渡すように上げたその顔を確認する。このバスに乗り込むときにも岡田が確認する奥で席に座りながら名前と名簿を照合していた姿を見ているので、実際に顔を見るのは二度目になる。遠足に向かう小学生の集団のように雑然とした車内の雰囲気と、その騒ぎに怒った様子を見せた岡田は、どちらもそわそわした同じ空気を纏っているところは変わりが無いのに、川原のその瞳にはその空気が一切含まれていなかった。
 この空気はまるで、人の輪に交わらずに外を見続けている一条の纏うもののようだった。
「副部長、食事担当って何ですか。そんな話、聞いてないんだけど」
「そうそう、聞いてないっていうか、俺、料理なんてまったく出来ないよ。無理」
 そうはっきりと発言した者だけでなく、ざわざわとした空気の中の大半は同じ気持ちのようだった。そう言われれば嘉藤だって自分の食べるものくらいしか作ったことがないので、他人に食べてもらうもの、しかもこれだけの人数分を作れと言われたらどうしていいのか分からない。
「その点は心配なく。後で説明するつもりでしたが、食事担当は部長と私、それから野本さんと津川さんで何とかする予定です。他にも手伝ってもいい、という人が居たら声を掛けてください。とても助かります」
 説明する川原のとなりで腕を組んで自身ありそうな表情で鷹揚に頷く岡田を見て、なるほど料理が上手そうだな、と思った。
「文句を言うなら手伝え。手伝うつもりがないのなら、何が出ても文句は言わせないぞ」
 自信は無いのだ。
 文句を言うつもりは毛頭も無いのだけれど、手伝おうかな、とぼんやり思った。




 ひと息ついて車窓から外を眺めると、いつのまにか空を覆っていた雲が晴れ、あっという間に景色はそれぞれの色合をあざやかに主張し、深く煌びやかな情景を作り出していた。光というものの凄さを改めて考えていると、気のせいかと思うくらいの軽さで肩を叩かれた。座席の横から頭を出すようにして振り向いて確認すると、最後尾のベンチ部分に三人の女の子が座っていて、そのうち真ん中の子がにこりと微笑み、小首を傾げる。やわらかに巻いた胸元までの髪がゆらりと揺れた。
「これ、良かったらどうぞ」
 高く細い声。先ほどまで周囲の雑多な声にまじって聞こえてきたものの中でもそれは一際特徴のある声だった。すぐ後ろのことなので、聞くつもりが無くても聞こえてきていた。座っているのは三人並んで、だけれど、その中央の子が殆どひとりで話していて、他の二人はあまり話していないようだった。どちらがどちらなのかまだ分からないけれど、相槌をうつ子と、もうひとりは話しかけない限りは口を開かない子だと、何気なく声を耳にしながら感じていた。一瞬のうちにそれを反芻した嘉藤は、やわらかい笑みを口元に浮かべて差し出されたチョコレート菓子を受け取った。
「ありがとうございます」
 甘すぎるくらいに甘い。口の中ですぐに溶けてなくなろうとするそれをゆっくりと食べながら、しかしこれだけの為に声を掛けてきたのではないだろうと考える。ひとまず相手の出方を待つようにもう一度、今度は先程よりもくっきりと微笑んでみると、答えるような微笑が返ってきた。
「私、森崎絵里。写真ってほんとはじめてだから不安で……、いろいろよろしくね」
 思わず自分の背後を振り返って、そこに何か楽しくて仕方ないと微笑まずにはいられないような理由を探したい衝動に駆られた。しかし森崎がその幸せいっぱいの微笑を浮かべて見つめているのは自分なのだし、何も笑われるような要素を思いつかないのだけれどそれでも自分に向かって微笑んでいるのだろうと何とか自分に言い聞かせることで嘉藤はその衝動を抑えつつ几帳面に答えた。
「こちらこそよろしくお願いします。嘉藤といいます。僕も写真は初めてですよ」
 そうして答えている間、森崎は小さい頷きを何度も繰り返していた。一生懸命聞いているようで、実際にきちんと聴いているのか確かめたくなるくらいの軽い頷きだと思った。よろしくと言われても自分も一般参加なので何も出来ないだろう、頼むなら写真部員にした方が良いのだ、という意味を含めて答えたのだけれど、どうも伝わったような気がしない。しかしこれからの数日を思えば早い段階から皆と親しくなっておくとやりやすいのは確かなのだ。折角のこの機会を有効に活用すべく森崎の左右に座る女の子たちにも挨拶をしておこうとふっと視線を動かすと、振り返る嘉藤から見て右側の子が即座に反応してお辞儀をした。肩までの長さにきっちりと切りそろえられた黒髪がさらりと揺れる。名乗ってくれるのかな、と思ったその子はしかしお辞儀の後、ちらっと横目で森崎をうかがうのだった。すると森崎はもう、幸せそのものの微笑で待っていましたとばかりに口を開いた。
「あ、この子は江藤加奈子ちゃん。それからこっちは本田美希ちゃんね。みんな一年で同じクラスの仲良しなんだよ。夏休みの思い出作りに何かしようかなって話になってた時に加奈子ちゃんがこの合宿のポスタ発見してさ、それですぐに決めたの。ねえ、嘉藤君は何年生?」
 ふわふわとした大人しそうな外見からは想像もつかないくらいに一気に捲くし立てられたので、こんなに元気な人なのかと少々面食らいながらも、嘉藤はゆっくりと言われた言葉を咀嚼した。
「……一年です」
「わあ、同じだね。そっかあ、うん。他所のクラスの人ってまだ知らない人ばっかりだもんね。この機会に仲良くなろうね」
 にこにこ、笑顔で話す森崎だけれど、嘉藤が振り向いてからその左右の子達はまだひと言も喋っていない。江藤はまだこちらを見て話を聞いている風ではあるのだけれど、本田の視線は車内のほかの場所を彷徨っているようなのだ。
「えと、江藤さんも本田さんも、普段は写真、撮らないんですか?」
 試しに話を振ってみると、森崎は先に江藤の方に顔を傾けた。嘉藤の言葉を受けてというよりも森崎の視線を受けて、と言った方が正しいようなタイミングで江藤は口を開く。
「私ははじめて、……です」
 案外低めの声で簡潔に答えた江藤は、とても几帳面な素振りで順番だと言わんばかりに本田を見る。しかし違う方向を見ている本田が気付いていないことを知ると、ため息をつくついでのように言葉で促した。
「美希は?」
 問われて、やっとで本田は振り向く。俯き加減の目元まで長い前髪が覆っていて表情が分かり辛かった。
「写真は……、ありません」
 ゆっくりと答える本田をじっと見つめて観察する。表情が読みにくいのは前髪の所為で目元が隠れているからというよりも、そもそも殆ど表情を変えていないのではないかと思えた。薄いその表情から僅かに窺えたことといえば、何か他の事を話そうとして途中で思いなおした、ように見えたことだろう。ここでは話したくないのか、或いは初対面である嘉藤には話したくないということなのだろうか。互いに言葉を待つようにして少し空いた間は、気にしていない当人たちよりも見ている森崎は耐えられなかったようで、わざとらしいほどに浮かれた声で話し始めた。
「最近はさ、親がいろいろうるさいんだよね。もう、とにかく門限がすっごく厳しいの。折角の夏休みなのに明るいうちに帰らなくちゃいけないなんて、酷いと思わない?」
 相変わらずの楽しそうな表情に、これは困っているのかいないのか分かりにくいな、どちらだろうかと思って見ていたら、森崎の視線が自分に向けられたまま言葉がピタリと止まってしまったのに気付いて、慌てて嘉藤は返答した。
「……まあ、うん、そう。未解決の事件もあるし、ご両親が心配する気持ちも分からないでもないですね」
「そうなの、ほら、この前ストーカに刺された子いたでしょ? あれとかさ、いつも引き合いに出してきて……」
 通り魔事件など不特定な人間が被害者となる事件と違い、ストーカ事件なら狙われるのは特定の人間だ。しかし親も注意を払うということは何か覚えがあるということなのだろうか、或いは単に周囲で起こる事件に不安を覚えているだけなのか。ふと疑問に思ったけれど、ここで深く立ち入るのも不躾だと思いなおす。自分から話題が逸れたことで本田は興味をなくしたようにひっそりと黙っていたけれど、江藤はそっと森崎の袖を掴んで心配そうに見つめている。
「それにほら、女の子ばっかり狙われるやつ。まだ犯人、捕まってないんだよね。怖いな、って思って、だから、さ」
 そう呟く森崎の表情はそれまでの楽しそうな雰囲気をすっと消して、とても真剣なものだった。嘉藤を見上げる大きな瞳も僅かに潤んで見える。先ほどストーカ事件について軽口雑じりで話していた時とは明らかに様子が違うので、本当に心配しているのはこちらなのだと納得した。
 女性ばかりが被害者の連続殺人事件。
 それは嘉藤が今一番気にしている事件だった。
 頭の中でずっと考えていたその事件について全くの知らない人が、それも森崎のような明るい子がそれを語るのがだから少し不思議な感じがしたけれど、これは遠い土地の話でも本の中の話でも正貴が作り上げ話しでもない、現実に今この付近の土地で起こっている事件なのだ。周辺に暮らしている女性はやはり誰もが恐怖に怯えているのだろう。




「ねえ、何話してるの?」
 だから、という森崎の言葉の続きを待っていた嘉藤は、唐突に話しかけてきたその声の主が近づいていたことに気付いていなかった。うっかり話しに夢中になってしまっていたのだ、と反省する。
「えと、最近いろいろ変な事件が起きてるから怖いね、って話です」
 求められるままに森崎が答えると、話しかけてきた男はああ、と何度も頷いた。
「あれってまだ犯人、捕まってないんだ」
「そうみたい」
 話しかけてきた男は詳しいことを知らないのだろう。軽い口調でそうかそうかと相槌をうつ様子に、未だ不安そうな様子の森崎と江藤は顔を見合わせるようにしている。本田は相変わらず話を聞いていないようだ。
「俺、後藤って言うんだ。実は写真部の他に柔道部にも入ってるんだ。怖いなら俺の傍に居たら良いよ」
 新しく現れた後藤が森崎たちの会話の相手をしてくれるのだろう。ふう、と振り返っていることが辛いふりをして、嘉藤は身体を自席に戻してその会話から離れた。落ち着いて時刻を確認していると、ひょこりと前の座席に座っている高橋が振り向いた。
「相変わらず、だね」
「……何が?」
 意味深な言葉を掛けられたけれど、茶化すような表情も含め嘉藤にはその意味がさっぱり分からない。しかし高橋はそれ以上説明する気は無い様子で、すぐに座席の向こうへ消えていく。まあいいか、と嘉藤も追及すること無く窓の外へ視線を向ける。灰色の雲に埋め尽くされた空を見上げても何故か先ほどのわくわくとした気分と同じになれなかった。
 不穏だ。
 そう感じるのは何故か。何が変わったというのだろう。答えを求めるようにして見上げるそこには薄い灰色の雲が低く降りて山に掛かり、流れの速いその雲は山にかかった部分だけが引っ張られるようにゆっくりと動いていた。膨大な質量を持ったその動きを目に映しながらこれからのことを考えると、あまりの途方の無さと自分の無力さに打ちひしがれるようだった。不穏に感じるのは自分のその無力さによるものなのだ。
 しかしそれら自分の弱い部分を徹底的に突き詰めて考え自覚することで次第に心は落ち着いてくる。打ちひしがれている場合ではないのだ。自分には守るべきものと責任があるのだ。
 嘉藤は殆ど顔を動かさずに視線だけで通路を挟んだ反対側に向け、そこに窓に額をつけるようにして視線を外に向けている一条の姿を確認した。こちらからは長い黒髪の後ろ頭しか見えないけれど、薄ぼんやりと窓ガラスに映りこんでいる表情を見ると、そこには悲しくなるほどにどこまでも無が広がっているだけなのだった。景色を見ているのかいないのか、何か考えているのか、いないのか。傍から見てもさっぱり分からない。無表情ではあっても決して無防備な表情などではなく、どこか排他的な冷たさに満ちて見える。まるで他に誰も居ない場所にひとりきりで居るみたいではないか、と衝動的な思いが胸を突いた。
「ああ……」
 思わず呻くように唸っていた。
 一条をこの旅行に誘ったのは嘉藤なのだ。
 ほんの少しの興味と、どうせ断られるだろうという気楽さで。




 一条を誘ったのは七月の第一週、空と地上を細い糸で繋ぐかのような勢いで流れ落ちる雨の降る日の放課後だった。激しい雨音に紛れないようしっかりと、破れるのを覚悟の上で誘ったのだけれど、帰ってきたのは冷たい否定でも鋭い拒絶でもなく、小さな驚きと僅かに戸惑ったような表情と、長く重い沈黙だった。
陽光の入らない長い廊下は薄暗く、誰も居なくなった静かなそこに窓越しに響く雨音は脳の隅々までに入り込んで、それを意識しすぎて頭の中がぼんやりとしてきたころ、一条は頷いて、答えた。
何で今目の前に一条が居て頷いているんだろうと濁った頭で考えたのは一瞬で、すぐに自分が誘ったのだと思い出して何か声を返そうとしたけれど、その時には既に一条は背を向けて歩き出していた。何も必要としない確かさで薄暗い廊下の先を目指して歩くそのまっすぐな後姿に、嘉藤は掛けるべき言葉を何ひとつ見出せなかった。

 ほんの少しの興味と、どうせ断られるだろうという気楽さなんて嘉藤の勝手な思惑さえなければ、一条はこの集まりに来ることなんて無かったのだろう。
 それだけの責任は果たしたい。




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