沈黙の色




 宿泊地に着いた嘉藤はバスから降り立ち、長らく狭い空間に篭っていた空気ばかりを吸い込んでいた肺に新鮮な空気をたっぷり送り込んだ。身体を伸ばすと固まっていた部分が伸ばされ、痛い寸前の微妙さでとても気持ちよかった。不穏なものを感じさせた低い灰色の雲はもう東の空へ過ぎ去り、今はまた何事も無かったかのように高い場所に薄い雲が広がる青空となっている。目を焼くような強い日差しが半そでのシャツからむき出した肌に痛い。先刻まで湿っていた地面が一気に温められたために空気は蒸し蒸し、あっという間にじっとり汗が吹き出してきた。絶え間なく続くためにひとつの音としか捉えられない蝉の声は、幾つもの種類の蝉があちこちで鳴き続けるものだろう。また、それらと競うようにして様々な虫の音が自己を主張し、脳に直接響くように襲ってきているのに、誰が一番というよりもそれらは暑さと深い緑の景色もすべてをひっくるめて、結果としてひとつの夏のものとして眼前にあり、それらに圧倒されて眩暈がしそうだった。そうした緑が溢れる野山を従えるようにして目の前に建つ今回の宿泊場所となる建物は、民宿としか聞いていなかった嘉藤のどの予想とも外れていた。
 左右に長い、四角の大きな木造の箱。
 強い太陽の光を受けて眩しくさえ見える建物は全体的に茶色の板が張られており、背後の山と田畑しかない深い緑に溶け込んでいるように見える。建物の端から端まで帯を巻いたようにして横に並ぶ窓が二列ある。二階建てのようだ。一階部分の中央に玄関の張り出しがある。窓の中は光が反射してどうにも見えにくいけれど、手前の窓側はすべて廊下になっているようだった。少し離れた位置に木製の扉が幾つも並んで見える。目の前に立っている所為なのか、その建物全体を見ようとするとかなり大きいと感じた。その圧迫感に目を奪われていると、先ほど溶け込んでいると思った背後の景色から浮き出したように見えるのだった。
 そうした建物の様子をぼうっとしたように見上げて確認していた嘉藤は、じゃり、と砂を咬むような足音をたてて近づいてくる人物に気付いて振り向いた。副部長の川原だった。
「ここ、もともとは小学校だったんですよ。ここのオーナご夫婦が統合で廃校になった校舎を買い取って、内部を改装して民宿にしたらしいです」
 話しながら建物を見上げている川原だけれど、並んでみると頭のてっぺんと肩くらいしか見えない。それにしても、と嘉藤は思う。ぼうっと見上げていた嘉藤が何を考えていたのか分かったのだろうか。話をするのも初めてなのだけれど、几帳面なだけでなく意外なほど気さくな人なのだな、と思った。
「元は学校だったんですね……。なるほど。改装するって言っても、学校から民宿だと結構掛かりそうな気がしますが」
「どうなのかな……。オーナの奥さんがここの出身らしくて、だから、何としてでも残したかったのかも。お金よりも想い出、ってことなのかもね」
 ひと頻り話し、見上げていた視線を降ろした川原は白く細い腕に填めた時計を確認している。俯いたその姿がとても小さくて、思わず嘉藤は声を掛けていた。
「あの、川原先輩」
「一般参加の嘉藤君だよね。はじめまして。部員以外の人を集めての企画ってはじめてだから、来てくれてとても嬉しいわ。さっきも言ったけど、写真のことに限らず気軽に何でも聞いてね。それからうちの部は先輩とか後輩とか気にしなくていいから、みんな「さん」で呼んで良いのよ」
 おおよそ隙の無い表情をしている川原が、嬉しい、と言った瞬間だけにこりと微笑むのがなかなかに印象的だと感じた。そうしているうちに全員がバスから降りて預けていた荷物を受け取り、部長の号令の下へ集合する。
「よし、みんな降りたな」
 人数を確認して頷く岡田は、この暑さの中でも変わらないさわやかさで笑っている。その横にはこれもまたにこにことやわらかい笑顔で微笑む四十台前後の優しそうな人たちが並んでいた。学校から出発してここまで来たバスには乗っていなかったので、この民宿の人、おそらくは先ほど川原が教えてくれた、この民宿のオーナなのだろう。背の高い岡田と遜色のない身長をしているけれど、横幅は明らかに違う、ひょろりとした男性の方が先に口を開いた。もしゃもしゃとした頭と口髭が愛嬌を醸し出している。
「いらっしゃい、岡田君。それからみなさんも良くいらっしゃいました。この宿をやっております佐脇というものです」
「こうして静かで落ち着いた土地ではありますので、ゆるりとおくつろぎくださいませ」
 堂々とした口調でそう話す、短く刈った髪がさっぱりとした印象の女性の方もまた背が高い。全体的にほっそりとした印象ではあるけれど、筋肉はしっかりついているようだ。
「じゃあ、荷物はとりあえず玄関の脇に置かせてもらって、さっそく出発しようか」
「部長ー。休憩する時間が欲しいです」
 バスの荷物置き場から土の上にどさりと降ろした大きな荷物にもたれるようにしてしゃがみこんだ小柄な男が、バスに揺られた所為なのか、快適な車内からいきなりこの暑さの中に出た所為なのか、いささかぐったりした様子で訴える。ぐるりと他の面々も見渡すと、殆どが同じ気持ちなのか、一様にうんざりしたような様子で岡田に視線を注いでいた。三人の女の子は勿論、体格の良い後藤も、腰に手を当てて格好よく立つ川原も。その様子を確認した嘉藤は、誰にも気づかれないようそっと皆の視線から外れるようにして後ろにさがる。
 虫たちの大きなざわめきは先ほどと何ひとつ変わらないはずなのに、人の輪から外れると、途端に大きく感じられる。バスから降りたときはひどい暑さだと感じた空気も、慣れた今は冷ややかさを保つ風が過ぎるのを感じられるようになるほどだった。そうした自分自身の感覚の変化を感じ取りながら、嘉藤はのんびりと歩いく。
 まるで暑さも疲れも感じさせずに少し離れた位置にひとり立つ、一条のところへ。
「うーん。分かった。じゃあ、三十分だけ休憩をしようか。だから、二時にはここへ集合すること」
 皆の疲れきった様子と期待に満ちた瞳に負けたようにふうとため息をつきながらの岡田の言葉と、じゃあと腕を広げた佐脇夫妻の案内を合図に、皆がのんびりと動き始める。
「一条さん」
 傍まで寄っていた嘉藤の呼びかけに応じて歩き始めようとしていた一条が振り向く。その深い黒を湛えた瞳は真冬の湖のように痛いほど冷たく、近寄ることさえ拒むほどに厳しい雰囲気を持っているのだけれど、同時に激しく抗いがたい引力を備えているようで、嘉藤はそこに吸い込まれ、ここがどこで自分が何をしていて、そしてこれから何をしようとしていたのか見失いそうになる。脳を侵食するとさえ思うほど盛大だった蝉の音はいつの間にか遠いものとなり、周囲の雑多な音はすべて壁越しの雨音のように静かに心地良く聞こえるようだった。痛いほどの日差しよりもまた、涼やかな風に包まれている心地良さの方が勝っている。或いは湖の中に沈んでいくような。
「何?」
 声を掛けるまでははっきりしていたものを見失った嘉藤は、誘ってからずっと頭の隅にずっとこびりついたままの疑問を、聞きたくてでも聞くことの出来なかった疑問を、混乱してうっかり「どうして」と口にしてしまいそうだった。
 そうしていつの間にか自身の頭の中に意識を落とすようにして嘉藤が混乱している間にも、一条は何も変わらない人の心を吸い込むような瞳で、呼び止められたときと同じまっすぐな姿勢で、ただ嘉藤の返答を待っているのだった。先を急かすことも飽きることも苛立つことも無く、時間が止まっているかと疑うほどに静かな流れを生むようにして待つ一条を見た嘉藤は、呼吸ひとつの間で落ち着きを取り戻すことができた。
「あの……、おはようございます」
「おはよう、ございます」
 そうして落ち着けば何も意図せずとも自然と笑顔が浮かんでくる。不自然なほどの間をおいての言葉ではあったけれど、一条はそうした嘉藤の混乱から笑顔になるまでのすべての内心を見透かしたように、綻ぶような笑みを返してくれた。
「暑いですね……。荷物持ちましょうか」
「これくらいの暑さは平気よ。それに自分の荷物くらい、自分で持てます」
 そうだ。一条はその瞳の中に真冬の湖を思わせるほどの冷たい色を湛え持つだけでなく、その汗ひとつ窺えない涼しげな表情の何をとって見ても暑さなど無関係の様子なのだ。そのうえ一条の荷物は確かに一番大きな鞄を持ち込んでいる森崎たちの荷物と比べると半分にも満たないような小さなものだった。
 その森崎の大きな荷物はといえば、車内で話しかけてきた後藤が持っている。話が弾んでいるのか、あれからずっと三人の女の子たちと話しこんでいるようだった。高橋と先ほど休憩を訴えた部員はそれぞれの荷物を抱え既に玄関に到達している。岡田と川原は今後の打ち合わせだろうか、未だバスの付近で腕時計とにらめっこしながら話し込んでいた。
「副部長さん、どこかへ行かれるようね」
「え、……あ、そうなんですか」
 長い間見ていたわけではない。僅かに視線を向けただけなのに、他にも見える範囲に居るすべての人を見渡したはずなのに、どうして嘉藤が一番気になった箇所が分かるのだろう。本当に、まるで覗かれているかのように嘉藤の心を的確に捉えた言葉にドキリとした。
「一条さんは魔法使いか超能力者みたいですね」
「……そう? そう感じる嘉藤君こそ、そうじゃないのかしら」
 嘉藤が言い当てた、というのならば、それが似合わない冗談でなければ、一条は暗に自分がそうだと認めているも同然ではないか、と思った。本当に不思議な人だ。そもそも川原がどこかへ行こうとしている、という情報はどこから得たのだろう。離れた場所で声を張り上げているわけでもない岡田との話し声が聞こえるとでも言うのか。
「気になるなら、聞いてみる?」
 見通される、というのは怖いようでいて安心できる。
 そっと背中を押されるようだと感じる。
 嘉藤はとても嬉しくなってきた。
「そうしてみます」
 右肩に掛けた鞄を抱えなおして歩き出そうとした嘉藤は、ふと一条に向き直る。自分の心をああも的確に当てられたのは、おおよそは表情や仕草を読まれたからだろうけれど、それだけではないのかもしれないと思うのだ。もしかしたら一条も気になっているのではないか。だからこそ、この企画に参加しようと誘ったときに頷いてくれたのではないか。
「一条さんはどうしますか?」
「私も行きます。嘉藤君が気になる、というのなら、もしかしたら私の求めるものもそこにあるかもしれないし……」
 言葉の最後の方は小さくまるで誰かに聞かせるつもりのない独り言のようだった。上辺だけ見て取ると思わず勘違いして嬉しくなるような言葉ではあったけれど、そこには何か、おそらくはぞっとするような何かが潜んでいるように思うのだ。
 だってそこにある一条の瞳が冷ややかに怪しい色を浮かべているから。まるで得物をいたぶる獰猛な獣が歓喜の色を湛えているような、とても純粋で、そして綺麗な瞳だった。
 そこまで考えた嘉藤は自嘲の笑みを浮かべて先に歩き出す。そうしながら、頭の中で考えを転がすようにゆっくりと思考を巡らせる。
 一条の求めるもの、とは何だろう。
 先ほどの言葉の中で最も魅力的と感じる謎である。しかしそれを知るには、嘉藤はまだ何も一条のことを分かってはいない。深い部分を聞けるほど親しくも無い。ただ、少なからず期待はされているのかもしれない、とは思う。知り合うきっかけとなったのが、事件絡みだったのだから、もしかしたら今回も嘉藤が追うのと同じものを、一条も探っているのかもしれない。




「ん、二人ともどうした? 暑いんだから中に入って冷たいお茶でも飲んでていいんだぞ。それともあれか、何か聞きたいことか?」
 歩み寄るとすぐに岡田が気付いて話を止め、矢継ぎ早に問いかけてきた。じわりと汗をかいているけれど、からっと晴れたような笑顔だ。
「ええ、あの、どうかされたのかな、と思って」
 曖昧に、どうとでも取れる言葉を口にする。ほんわりと人当たりの良い笑みを浮かべて見つめると、おおよそはそれで誤魔化せるのだから便利だ。
「ああ。どうかしたというか、ちょっと今から川原君に今日の夕食の買い出しと、あと、残りの参加者の迎えに駅まで行ってもらうから、その話しを、な」
 僅かに嘉藤は息を呑む。その様子は辛うじて誰にも気づかれないままひっそりと、笑顔の中に隠せたはず。
 頭の中で勢いを増す思考も同様に。そうして嘉藤は警戒されないように笑顔を保ったまま提言する。
「この人数分の買い出しだったら大変でしょうし、俺、荷物持ちでもしましょうか?」
 気付かれないように、怪しまれないように。嘉藤は自分に言い聞かせるよう正貴の忠告を改めて思い返す。
 本職のする尾行とは違うのだ。無理に追って気付かれたり目立ったり、そのうえ怪しまれたり警戒されたりしないように、自然に目に付く範囲で行うこと。ただし、不自然な状況でひとり、という場合は特に気をつけること。
 これは不自然な状況だろうか。分からないけれど出来れば一人にはしたくない、と思うのだった。
「それは……、助かるけど。ううん」
 岡田は言い澱んで自分では判断せず、どうするのかと確認ような瞳で川原を見た。
「私なら大丈夫よ、奥さんに車出してもらうから。嘉藤君たちは、折角なんだから写真撮らなきゃ」
「そう、そうだな」
 悩む素振りなど全く無いままはっきりと断る川原に、ここで無理は言えないと嘉藤はすぐに諦めた。
「じゃあ、私行くわね」
「うん。悪い、よろしくな」
 仕方ない。ここで何も無いことを祈ろう。
「気をつけて……」
 小さな声を掛けると、歩き出そうと川原は立ち止まって嘉藤を見上げた。何か言うのだろうか、と思ったけれど、結局は無言のまま、また背を向け歩き出して行った。



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