沈黙の色




 湖は美しかった。ひと気の全く無い、海と見紛うばかりに眼前に遠く広がる大きな湖。ゆるやかに凪いだ湖面は深い色を保ったまま静かに佇んでいる。周囲をぐるりと見渡しても大きな湖の他には背の高い草地や遠くに連なる山々が見えるだけで、人工的な建造物がひとつとして見当たらないのだ。歩く道さえ湖を囲む未舗装の土手だった。何より圧倒されるのは山々や草木の濃い緑。そしてどこまでも深い空の蒼。
「うわ。これはなかなか……、良いですね、部長」
「だろ? まあ、とりあえず今日は様子見だ。本番は早朝だからな、今の内にいろいろ見ておこう。それから一般参加の人たちは、今のうちに出来るだけカメラの使い方を覚えておくか。ということで、部員は全員、協力するように。時間は十六時までだからな」
「はーい」
 湖上を渡ってきた気持ちの良い風をすうっと肺に吸い込んでから、嘉藤は肩に負っていた荷物を降ろした。荷物と言っても旅行用に自分が持ってきたものではない。私物の入った鞄を民宿に預けたあと、あらかじめ一般参加者用にとバスに積み込まれていた部の備品であるカメラと三脚を借りて担いで来ていたのだ。隣で説明を聞いている一条も同じものを担いでいる。三脚くらいは持とうか、と持ちかけたけれどきっぱりと断られたのだった。
「ううん、いい空気! じゃあ、一条さんに貴史君、はじめよっか」
 湖だけでなく湖岸に生える背の高い草や土手下に広がる草野原など周辺を観察していた高橋が振り返る。表情も瞳もこれから何かしてやるぞ、という気合に満ちている、と思った。宿からここまでは重い機材を抱えながらのんびりと歩いておよそ四十五分。いつもは積極的に周囲の人間にも影響を与えるのでは、とさえ思うほど元気いっぱいの高橋だけれど、今日はこの暑さにも移動にもめげず、いつもよりもずっと快活だ。この景色に感動して、というのもあるのだろうけれど、それ以前に夏休み中の撮影合宿というのが嬉しいのだろう。現在の時刻は十四時半だから、撮影できるのはたったの一時間半だ。せっかくなのだから、思う存分、自分の望むものを撮れば良いのに。
「時間もそんなにあるわけじゃないんだし、高橋は自分の撮影に備えなきゃいけないんじゃないのか。一年なんだし、他人に教えてる余裕なんて……」
「え、うん、大丈夫だよ。この半年でいっぱい勉強したし、それに教えるのって、また勉強にもなるから、って部長が。……あ、そっか。貴史くん、心配してくれてるんだ。ありがとう」
 にこにこと微笑みながらそう言われると返す言葉が見つからなかった。嘉藤がそうしている間にも一歩離れたところで口を挟まず見ている一条のところへ寄っていき、未だ肩に担いでいた荷物を降ろさせ三脚とカメラを固定するところから説明を始めていた。
 明るい陽光の中の微笑ましい光景であるはずなのに、嘉藤はどうにも違和感を覚えるのだった。一瞬考えた後、そういえば一条があの従兄弟の他の生徒と話をしている姿を見かけたことが無かったので、違和感はその所為だと思い至る。彼女は学校でいつもひとり。まっすぐ前を見る強い瞳で何を考えているのか、さっぱりわからないのだった。
 いい感じだ、とこっそり笑みを浮かべた嘉藤はそっとその場を離れる。カメラの扱いなら昔、正貴に教わったことがある。鞄からカメラを取り出して三脚にしっかりネジで固定する。一般参加者用のカメラだからなのか、少し昔のカメラであることが、嘉藤にはとても有難かった。
 狙った位置をファインダから覗き込む。そこにある世界と実際に自分の瞳で見る世界との違いを確認するようにファインダを覗き込んだりそこから目を離したりを繰り返した。そして三脚を抱えてあちこち移動し、同じことを繰り返す。頭の中でそうした動作と目から入ってくる情報を確認し、整理するのは好きなのだけれど、今はどうしても他のことを考えてしまう。
 考えても仕方の無いことばかりを。
 追うべきではない、と判断した川原が今どうしているのか、とか。高橋と話しながら、というよりも一方的に話す高橋の説明を真剣そうな瞳で聞いている一条のこととか。彼女がひとりでいる理由については、幾度となく考えてみたことがある。密かにとはいえ、女生徒から人気の高い一条先輩が連れてきて、そしてあれこれ面倒を見ているからというのもあるのかもしれないけれど、一条の持つ強さが、あまりにも周囲の生徒たちから際立っている所為ではないかと思うのだ。自分の弱さを直視するのは怖いのだし、意識の中から一条を排除してしまえば楽だから。そうではないか、という予測こそ意味の無いものだけれど。
「嘉藤君。どう?」
「……あ、ええ、大丈夫みたいです」
 意識の底から浮上するのに僅かにかかった時間が、そのまま返答の遅れとなって現れてしまう。なかなか上手くいかないな、と思いつつも小さく笑って誤魔化しながら、嘉藤は話しかけてきた岡田を見遣った。三脚は持たず、首から二台のカメラを提げている。
「何狙ってるか、見せてもらってもいいかな」
「ええ、お願いします」
 暫く覗いたあとファインだから目を離した岡田は画面の割合についてや木の配置について、更には明日太陽が出てくる位置まで、詳しく説明してくれた。
 学校の写真部が主催する企画旅行というのを、嘉藤は軽く見ていた。一般で参加しても、カメラの基本的な扱いを教えてくれるくらいであとは自由といいながら放置されるのかと思っていた。こんなに教えてもらえるのか、と感心しながら、これは岡田の力なのかなとも思った。
「そういえば嘉藤君は……、あ、いや、うーん」
「……? 何ですか?」
 ふと思い立ったように話しかけてきた岡田だけれど、途中で困ったように言い澱む。いつも明朗快活であるだけに、何か重大な話だろうかと嘉藤が身構えると、うんうん思案したあと岡田はまあいいやとふっきれたように言って行ってしまった。
 必要な話ならまた改めてあるだろうと特に気に留めず、先ほど指摘された部分を確認しようとカメラに手を掛けたところで、近づいてくる人たちに気付いた。
 森崎を先頭に、本田と江藤がぞろぞろと三脚を重そうに抱えて移動しているのだ。
「……大丈夫ですか?」
 あまりに重そうに見えたので、思わず声を掛けてしまった。ほっと息を吐きながら機材を地面に降ろした森崎にあわせて、二人も機材を置いた。大丈夫ではない、ということなのだろうか。
「嘉藤君、ひとりなの?」
「さっきまで岡田部長に教えてもらってましたよ」
 案の定、口を開いたのは森崎だった。
「そうなんだー。私たちもね、さっきまで後藤君に教えてもらってたんだよ。でもやっぱりほら、ずっと付いててもらっても悪いし、って思って……」
 ね、と振り返って二人が頷くのを確認する森崎に、同じことを考えていた嘉藤も頷いていた。
「部員のみなさんも、撮りたくて来てるのに、いろいろ親切ですよね」
「本当にねー。あ、嘉藤君、何撮るの? これ、見てもいい?」
「どうぞ」
 そういえば岡田に指摘された部分を確認も修正もしていないままだったけれど、まあいいかと軽く頷く。今の構図も言われたことも、全部頭に入っているのだ。
「わー、なんか、凄い、格好良いね。いいなあ、嘉藤君、私たちにも教えてくれないかな」
「え、俺ですか? ううん。さすがに俺じゃ無理ですね。ちょっと待っててください。他の部員の方に聞いてみますね」
 自分で自分の好きなものを撮るくらいなら問題ないのだけれど、さすがに他人に教えるのは不安だ。先ほど去ったばかりの部長ならすぐに捉まえられると思った嘉藤は言ってすぐに身体を反転させる。
「あ、嘉藤君、ちょっと!」
 慌てて呼び止める声も聞こえたけれど、すぐに岡田を見つけて戻れると思っていた嘉藤は振り返って手を振るだけで戻らなかった。
「?」
 しかし岡田が向かった方を見渡しても、その姿が発見できない。どこへ行ったのだろう、と見回していると、その様子を高橋に目ざとく見つけられた。
「どうしたの、貴史君」
「いや、部長どこか知らないかな」
「部長ならそこの林の中に入って行ったと思うけど」
 そこ、と高橋が示すのは今二人が立つ土手から湖側に降りていったところ、背の高い草が生い茂っている場所だった。道が無いので追うのなら足跡か踏みしだかれた草を手がかりとするしかない。時間が掛かりすぎるか、とすぐに諦めた。
「どうか、したの?」
「いや、他の一般参加の子たちが教えてほしいって言うから、岡田部長にお願いしようかと思って」
「……ねえ、貴史君。その子たちなら、ほら」
 意味ありげな言葉に振り返ると、森崎たちのところにはまた後藤が来ていて話をしていた。もう岡田は必要ないのだ、と嘉藤はため息を吐く。
「そもそもね、あの子たち、部長に教えてもらいたいわけじゃないんじゃないかな」
「え?」
「貴史君と話がしたかっただけでしょ、多分。まったくもう、分かってないなあ」
 はあ、とわざとらしく大きな息を吐き出し、あきれたように言っているけれど、高橋の顔はもう噴出す寸前のように笑っていた。
「そんなところが貴史君らしいけど」
「……」
 分かっていないところが自分らしい、というのは、また随分と貶されているなあと思ったけれど、高橋は笑っているので嘉藤も苦笑してやり過ごした。
 その間を狙ったようにすうっと一瞬風が吹く。その一瞬だけ涼しさを感じるけれど、この暑い空気、強烈な日差しの何を変えられるわけでもない。一瞬の涼しさが余計に暑さを増しているとさえ思えるほどだった。
「それにしても、貴史君がこういう団体行動へ参加するとは思わなかったよ。……それも、女の子誘ってなんてさ。変わったね、貴史君」
 暑さを逃がすように息を吐き出していたら、不意に高橋がざくりと切り込んできた。笑いの形を残したまま、しかし瞳は真剣だ。嘉藤も真面目に答える。
「……変わってなんか無いよ。僕は、正貴と奈緒の影に隠れていたあの頃から。でも、だからこそ、このままじゃいけない、と思うんだ」
「そっか。うん。分かった。やっぱり貴史君は変わってないんだね。私のことも昔みたいに奈緒って呼んでくれたし」
 内心は忸怩たる思いもあるのだけれど、そっかそっかと納得する高橋がやわらかい笑みを浮かべているので今はまあいいかと思い直す。
「ところで、その、一条さんは?」
「えーと、どこかな。少し教えたら飲み込み早くて、すぐに覚えてそのままカメラ持って行ったから……」
 高橋と一緒にキョロキョロと辺りを見回すけれど、どこにも姿が見えない。土手には嘉藤と高橋の他にはもう、後藤と森崎たちの姿しかなかった。嘉藤は急に不安になってくる。
「……俺、ちょっとそこ探してくる」
「う、うん」
 急勾配になっている土手から二メートル下に降りると、土の地面はとても緩く、強く踏むと足跡が深く残るほどだった。目の前の草が高くて湖までどれくらいあるのか分からないけれど、案外その境界線なんて無く、このままじわじわと水の中に入っていくのかもしれないと思った。既に何人か降りているのが、その足跡から見て取れる。そのうち一番足跡が多くあるところを追うことにした。
「ん、嘉藤君か。どうした?」
 最初に見つけたのは岡田だった。慎重に歩いても足が地面に埋まっていく程に湖に近い場所でカメラを構えていたのだった。小さな鳥が飛んでいく。邪魔をしたのだ、とすぐに気付いた。
「すみません、鳥……」
「ああ、いいよ。どうせこのレンズじゃ無理だったから、ただ見てただけなんだ」
 そういえば今日はずっと三脚も持ち歩いていないことだし、岡田は広角レンズで撮影しているのかな、と思った。だとすれば先ほどの小さな鳥は確かに無理だ。
 分かったような分からないような、曖昧な頷きで答えてから、嘉藤は辺りを見回すようにしてそっと聞いてみた。
「あの、一条さん見ませんでした?」
「さあ……、見てないな。見当たらないのか?」
 背の高い岡田はおそらく嘉藤よりも視界が広いのだろう。更に背を伸ばすようにして辺りをキョロキョロしながら答えてくれた。
「はい」
「ここはそんなに広くない。一緒に探そう」
 ぐっと力を込めて、真剣な様子で岡田にそう言われると、朧だった嘉藤の不安は質量を増してくる。草を掻き分けて進む岡田の足取りは明確だった。やはり足跡だろう。五分もしないうちに人影に辿りついた。
「お、野添か。ここら辺で他に誰か見なかったか?」
 三脚は持たず、周囲の草にカメラを向けていたのはバスから降りたときに休憩をしたいと訴えた人だった。一緒に来た中で、唯一、名前を知らなかった人だ。
「他にって……、いや。到着してからずっとこの辺り歩いてますけど、部長以外には誰も見てないかなあ。ゴトーさんはここまで降りて来る物好きじゃないし、一般参加の人たちもまあ、ねえ」
 確かに撮影にもこの場所にも慣れていないのに、いきなりこんな場所へ降りるという発想なんて湧いてくるものだろうか。一条はどこへ行ったのだろう。
「いや、ならいいんだ」
 瞳だけは真剣なまま、しかし相変わらず笑みを浮かべた岡田は、ざっと周囲を見渡してから後ろでずっと様子を見ていた嘉藤に対して僅かに頷き、戻ろう、と言った。頷いて返した嘉藤は、先に引き返す。
「もう少ししたら宿に戻る時間だからな、野添もいいところできりつけて上に戻れよ」
「了解ー」
 背中で二人の会話を聞きながら、今度は足跡など気にせず土手を目指してまっすぐに進んだ。しかし場所によってはぬかるんでいる場合もあるので足元は気をつけなければ、と歩いていたら、左前方でごそごそ草が動く様子が見えた。
「誰か居ますか?」
 もしかして、と思いながら方向を変え、嘉藤は物音が聞こえた方に足早に向かう。
「あ、嘉藤君?」
 こちらの呼びかけに応える声が聞こえる。姿を見るまでもない、この声は高橋のものだった。すぐにその姿を見つけると、高橋はほっとしたように微笑んだ。
「やっぱり嘉藤君だ。良かったー、会えて」
「どうし……」
「一条さん、帰ったって」
 ここまで自分を探しに来たらしい高橋が少し慌てている様子なので落ち着くよう宥めようと思ったけれど、高橋の言葉を聞くと動きも声も詰ってしまう。
「……帰った?」
「そう!」
 伝わったと思ったのか、ほっと息を吐き出した高橋は強い力で嘉藤の腕を掴んで、そのまま荒い歩調で土手に向かって歩き始める。後ろを振り向いても誰も見えない。岡田は違うルート、おそらくは来たのと同じようなルートで戻ったのだろう。
「帰った、って、……家に?」
「違うよ宿にだよ。後藤君が見てたって。あと、その話ししてたら森崎さんって女の子も帰って行っちゃった。暑くてもう、こんなところに居られないってさ」
 ぐいぐいと力強く引っ張るようにして足元のぬかるみも生い茂る草にも構わず歩く高橋はもしかして怒っているのかもしれないけれど、この暑さなら森崎はそう耐えられないだろうな、と密かに思った。
「ところで高橋、その土手、上れるの?」
「……」
 土手の下で少しもたもたしたけれど、すぐに上って皆と合流できた。岡田は既に後藤と本田、江藤と合流して話を聞いているようだった。
「単独行動は……、問題だけど、まあ、何事も無くてよかったな」
「はい。すみません、ありがとうございました」
 十六時ギリギリまで粘った野添も合流し、使用した機材を片付けると帰路に付いた。



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